一向一揆と石黒氏 建武 _ 三四/)以来六〇 余年間、 南北両朝に分かれた戦乱も治まり、 再び猫命が行われるようになって。元中九年(明徳三年・1392年)、南北両朝の合一が
Read More 隠尾城 長尾為景の跡を継いだ晴景に代わり、頭角をあらわしたのは上杉謙信(為景の子景虎=輝虎)である。小田原城(神奈川梨)の北条氏を攻撃していた謙信は、急きょ軍を越中に進めて椎名氏を援助した。 永禄三年&nbs
Read More 増山城主の菩提寺 いま福野町にある金剛山恩光寺は、 もと庄川町の金剛寺村にあった。その開基は増山城主神保氏であり開祖の月桂立乗禅師は、中新川郡立山町の眼目山立山寺を開いた大徹宗令禅師の十九哲の一人といわれている。神保氏は
Read More 前田氏の領土 越中は、 天正八年(1580年)以来佐々成政が領有し、富山に居城した。成政は秀吉の天下統一を快しとせず、徳川家康と 織田信長の遺子信雄 を擁して反抗しようとした。十二年、秀吉方の前田利家は成政と能登末森で戦
Read More 天正十一年(1583年)前田氏が加賀藩主として入国した当初は、前領主の旧来の農政をそのまま引き継いでその慣習を重んじ百姓を仕つけ農耕に努力させた。しかし十五、 六年ごろになると百姓と一部の庄屋や名主の間にわだ
Read More 村々の草高 高というのは、一定の土地の収益を定める根本の数量を見積もったもので、「禄高」とか単に「高」といわれていた。この禄高には古来種々の名称があって、貫高といった時代は高の数を何千買といい、俵高といった時代は何千俵と
Read More 百姓年中行事 百姓の農耕は 一年十ニカ月の間になすべき 作業 は年中行事として定まっていた 。 一月 四日ごろから山方、 里方の村ともに農具の手入れを行う。 馬具
Read More 松川除築堤 庄川の洪水と流路の変遷 庄川のように扇状地面を流れる河川は、洪水で堤防が決壊すると流水は等高線に直角に流下して、農作物はもちろん耕地を洗い流し大量の砂礫で埋没させ、場所によっては家屋までも破壊流失させる。 &
Read More 用水路の系統 用水の取り入れ口 庄川から導水している九つの用水路は、用水ごとに取入堰を築き、庄川堤防に門で用水量を調節する取入口を設けていた。それらの堰の働きをなす川倉は、 材木を組み立てて造った 高さ数mから十数mにお
Read More 藩の用水支配 御算用場奉行は、主に藩の会計と民政関係を任務とする郷村支配の元締めで、御納戸銀を下付し諸郡打銀・郡打銀にも関与した。治水工事・用水路整備については、藩直営工事費の支出あるいは用水工事の補助金支出をつかさどっ
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