金剛山恩光寺

金剛山恩光寺

7月 22, 2022 歴史 by higashiyamami

増山城主の菩提寺

いま福野町にある金剛山恩光寺は、 もと庄川町の金剛寺村にあった。その開基は増山城主神保氏であり開祖の月桂立乗禅師は、中新川郡立山町の眼目山立山寺を開いた大徹宗令禅師の十九哲の一人といわれている。神保氏は庄金剛寺の地に月桂禅師を招請して一寺を建立し菩提寺とした。その年代は応永十五年(1408年)ごろと推定され、約600年前のことである。一説には神保氏の恩光寺草創は左京之進良衡と伝えられているが、良衡は永禄六年(1563年)に上杉謙信に滅ぼされており、開祖月桂禅師人寂の応永三十三年(1426年)とは 137年のずれがあるので、おそらく三、 四代前の神保氏の時代としなければならない。

木舟城主の石黒氏は石黒左近であろう。左近は長亭二年( 1488年)ごろ一向一揆と一時和識を結び、越後の長尾氏と通じたという。この一向一揆の騒乱は恩光寺五世珠山超作和尚の時代で、兵火は恩光寺にも及び、六代明室存光和尚は寺を出て井波に草庵を結び、常永寺の開山となった。それから金剛寺村における恩光寺の無住時代が140年間もつづき、衰運の一路をたどった。

恩光寺は増山城主の菩提寺であるので寺禄も多く(3000歩)、ことに城主葬送の儀などは盛大を極めた。しかし六代明室存光が井波に出た後は急速に衰え、さらに天正七年(1579年)の夏、長尾為景の兵火にかかり朽ち果てた。

中川宗半

六代明室存光と七代在室雷淵の間には約140年の空白がある。中川宗半が恩光寺に関係を持つのはこの空白時代に当たるようである。  恩光寺のあった東の山側に崩れかかった塚があり、 土地の人は「宗半塚」と伝えている。  中川宗半は『 加能郷土事藁』によると、中川光重、 通称清六、 尾張の人。初め織
田信長に仕へ、天正十年二十一才で信長の子信忠に従ひ信濃高遠城を攻めて功あり、尋いで前田利家の女蕭姫を娶ったので、信長薨後来って利家に来仕した。十一年、 利家金沢に移り、光重は利家の兄五郎兵衛安勝、高畠定吉等と共に七尾城を守り、十三年定吉越中の神保氏張の稗将の守る荒山を攻めた時、  光重の部下能く戦うた。光重嘗て茗事に耽りて修城の課役を怠り、 為に世子利長の怒を招いたが、利家は之を聞き、その罪軽からざるも我が女婿を厳刑に処するに忍びずとして、十七年能登の律向に謫した。幾くもなく豊臣秀吉に仕へて話し相手となり、三千石を受け、尋いて亦来仕し、文禄三年武蔵守に叙爵し、前後増禄二万三千石に至り、後、 越中増山の守将となり、 又大聖寺の役に利政に従うて鐘ヶ 丸の攻撃に与った。慶長十六年二月二、退老して巨海斎宗半といひ、養老俸四千石を受けたが、十九年十一月五十三才を以て没。

中川光頂(宗半)が、増山城代となっ た年代は、『 加能郷土事藁』には文禄三年( 1594年)以後となっ ているが、「雄神神村誌』の旧記に天正四年(1576年)と見られるほか、天正十三年( 1585年)との説もある。光重は一時滅びた恩光寺に重ねて寺禄を寄進し、同寺を再典したという。 そして老後恩光寺に退き、死後同寺に葬られたと伝えられている。しかしいずれも決定的な史料がなく、宗半が没した慶長十九年( 1614年)は前述しにように恩光寺の無住時代で、同寺には何らその記録が見られない。

福野町へ移転

天正の初め、長尾為景の兵火にかかって後、恩光寺は約一四年間も無住時代がつづいた。福野の町立ての翌々年に大火があり、阿曽三右衛門が荒廃した恩光寺を福野に移そうとしにのは承応二年(1651年)のことである。金剛寺村の跡地には庵室を建て、知浄という僧を残して造跡を守らせた。この庵は宝永年中(1704年~) まであったという。いまこの旧跡には小さい薬師堂が残り、杉の大樹が二本左右にそびえている。寺跡は寺屋敷ともいわれ、付近の山林一帯を知浄と呼んでいる。こには門前屋敷もあったらしく、うち二、三軒は恩光寺の移転と同時に福野町へ移った。

出典:庄川町史

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