庄川合口事業計画概要

庄川合口事業計画概要

3月 24, 2023 歴史 by higashiyamami

本事業は従来の欠陥を除却し、用水の取り入れの完備、農営の安定をはかるを目的とし、計画の中に発電事業をとり入れ、総合的効果をはかる。この目的達成のため、従来の両岸各用水取入口を併合統一して 一個の取入堰を造り、幹線導水路を新穀または改良し、適宜の箇所より各用水路に分流せしめる。

堰堤は、庄川町金屋地内藤掛橋上流100mの地点にコンクリートの固定堰堤を設置し、左右両岸に取入口を設ける。左岸は旧二万七千石用水路を利用し、上流山見八ヶ用水・新用水・ニ万石用水は堰堤前にて単独取水工事により在来の用水路に運絡配水し、舟戸口以下ロより圧力管水路により導流せしめ、旧舟戸ロニ番堤付近にて約17.3mの落差を利用して発電したる後、発電所放水路を新設して、旧中野村大島地先で舟戸・鷹栖・若林口の三用水を分流し、さらに流下して新又口を分流し、なお千保柳瀬口用水に運絡せしめる。右岸は芹谷野用水以下三用水を取り入れ直後旧来の隧道・水路を改良して、庄部落南端より新設隧道を経て三合新用水路をたどり、これを改造して雄神小学校裏の分水場より三合新用水路を分流し、さらに芹谷野用水路を改修し、三谷地内にて新設水路をたどり、砺波市安川地内にて芹谷野用水を分岐し、この分水場の新設水路による大落差工(落差11.96m)を経て庄川二番堤に向かい、流下しして改修した六ヶ用水路を流下し、県道音川線(太田橋右岸)を通過後、六ヶ用水および針山中田口用水をそれぞれ分岐し、在来水路に連絡せしめるものである。

本事業は性質上左右両岸共通事業、左岸事業、右岸事業に分かち、なお第一期事業は、共通事業の堰堤、取水設備、左岸事業のうち幹線水路始点より754.4mまで、左岸幹線発電併用に伴う付帯工事会社負担工事並びに右岸幹線水路測点4,509m地点間を施工し、第二期工事として左岸幹線745.5mより終点までとし、右岸は始点より4,509m問までおよび4,673mより終点までを包含するものである。

用水路の整備

いずれの用水においても水路を改修したいという願いは早くからあり、度々計画されたが、その予算の大部分は庄川取入堰の管理維持に費やされ、用水路の改修までに手が回らず、部分的な改修しか行うことができなかった。鉄骨もコソクリー トも現在に比べて貴重であり、石垣を築くにも費用がかさんで容易に全線改修はできなかった。

二万石用水路の改修

二万石用水の溜漑区域は、東山見  青島・種田村(以上庄川町)、山野・高瀬村(以上井波町)、野尻・南野尻・広塚村(以上福野町)、  東野尻・鷹栖・五鹿屋・中野村(以上砺波市)、津沢町・水島村(以上小矢部市)の耕地二、〇一八町歩(2,001ha)で、砺波穀倉地帯最大の地域である。用水路の改修要望は、明治以降度々あったが実現しなかった。昭和十五年、庄川用水合口事業か達成される見通しが立つと、引きつづいて用水路を大改修する気運が農民全体に盛り上がってきた。そこで管理者は、皇紀二千六百年記念事業と称し、改修決意を組合会に提案したところ、全員一致の賛成を得たので、直ちに紀元二千六百年記念事業委員会を設け、県も耕地課から技師を派遣して測量準備にかかった。しかし日支事変が拡大して戦争へ突入し、さらに技術者は次々に召集されて設計さえもできず、物資も不足してきたので中止せねばならなかった。

二十一年八月、戦後の深刻な食糧不足打開の第一策として、用水路の改修促進を臨時総会で協議し、年度内に測量を行い、翌年度の通常総会に予算を計上し、県へ請願する決議をした。県も特別な熱意を示し、風雪を冒して測量に当たり、国庫補助の陳情には、農林省へ度々意見具申を重ねた。

二万石用水水路改修二付陳情書

本用水ハ富山県東砺波郡東山見村・青島村・種田村・山野村・高瀬村・福野町・ 東野尻村五鹿屋村・中野村・西砺波郡津沢町・鷹栖村・水島村ノニ郡十ニヶ町村 二跨リ、水田面釈  二千五百余町歩ヲ灌漑スル大用水デアリマシテ、水口ハ庄川ヨリ取入レ紆余曲折蜒々トシテ、延長約三里余町二及ンデ居リマス。其間ノ各町村ノ取入レハ藩政時代ノ古イ慣行其ノ儘卜成ッテ居リマス為二管理費ハ逐年増加シ、一面水量ノ損失ハ又言フ迄モ有リマセン。其ノ結果各支流ノ末流二於テハ灌漑水ノ不足ヲ告ゲル為二年々米作ノ減収ハ数千石 二及ソデ居ル次第デアリマス

今弦二本用水ノ改修ヲ断行シマシタナラバ、実二数十町歩ノ耕地面積ノ捻出卜共二水量操作ノ経済二於テ、且祖国日本再建ノ礎石デアル食糧培産二寄与スル所実二甚大ナルモノガアルト確信致ス次第デ御座イマス。関係農民ノ本用水改修ノ声ハ、明治初年ヨリ台頭シ其ノ熱意ハ遂ニ昭和十四年富山県営トシテ、庄川合口事業ヲ完成シタノデアリマス。而シテ庄川ノ取入レ問題ハ一卜先ヅ解消ッ マシタガ、本用水路ノ甚シキ屈曲卜不完備ナル各町村ノ取入口ノ是正及充実卜、更二数十町歩ノ耕地捻出ヲ期スル根本的改修ノ声ハ再燃致シマシテ、サキニ紀元二千六百年記念事業トシテ本組合会ノ決議ヲ経テ、富山県知事閣下二陳情致シタル次第デアリマスガ、戦争ノ為二遂二実現ヲ見ルニ至ラナカッタ次第デアリマス敗戦ノ今日、農村二課セラレタル食糧増産ノ重責ヲ痛惑致シマシテ、再ビ本組合会二於テ該改修事業ノ貫徹ヲ期スルヤウ決議シ、富山県知事閣下二陳情申シ上ゲタルトコロ之ヲ諒卜セラレ、昨秋已二関係地域ノ測量ヲ完了セラレ、富山県ヨリ農林大臣閣下二対シ御許可アルヤウ御申出デアリタル次第デ御座イマスガ、本組合ハ速カニ実現スル様念願シテヤマナイ次第デアリマス

何卒特別ノ御詮議ヲ以テ御許可相成ルヤウ、玆二関係農民代表者本省二出頭シ陳情申シ上ゲル次第デ御座居マス

富山県東礪波西礪波両郡二跨ルニ万石用水普通水利組合管理者

昭和二十二年三月
福野町長欠員二付代理
助    役    斉    藤    圭

農林大臣    木  村  小左衛門  殿

昭和二十二年、改修工事は青島村下村地内俗称敷籠堰を改修の起点とした。ここに野尻ロ・岩屋ロ・苗島・岩武の諸用水を合口して、従来の用水路を改廃し、系統ある統廃合を行った。水路の幅と高さを整え、流路の曲折を正し、適正配水するための分水設備を完備することを目的とした工事で、二十八年に完了した。この改修事業の完成を祝福して、沿川の高屋(井波町) 地内に記念碑を建立、その栄光をたたえた。

出町外六ケ村用水の改良

太平洋戦争後、主として若林ロ・鷹栖口用水の灌漑区域で、種田村(庄川町)・出町・五鹿屋・鷹栖・若林・ 東野尻村  (以上砺波市) 水島村(小矢部市)の耕地一、二ニ一町歩(1,211ha)の水路改修事業が計画された。両用水路の中野分水場下流は、数条に分かれておおむね平行して流下するが、一つの水路の幅に広い狭いがあ り、また水路は上下に交差しているので、上の水路が漏水すると下の水路に流れ入り、満水となり堤が欠壊するなど、各所で毎年のように被害があった。そこでこれまでのような部分的な修理ではなく、根本的に水路を統廃合して整備する必要に迫られていた。二十三年、出町外六ケ用水改修期成同盟会を結成し、翌年十一月、事務所を出町役場内に設置して陳情運動を開始した。工事の経過・概要は次のとおりである。

昭和十六年庄川用水合口事業の完成によって、漫々たる水量を有しながら取水に多大の支障をきたし、 旱害を蒙り、加えて幅員数10mにおよぶ川淵は雑木密生し、累年収穫に甚大な影響を与える実情であった。そこで一町六ヵ村を貫流する若林口用水および鷹栖口用水の俗称出村江・中村江・狐島江・太郎丸江・鷹栖江の五水路の改修を計画した。工事は二十五年一月着工され、上流部は中野分水場から種田四つ口分水場まで1,080m、中流部は出町地内大辻(砺波市)まで下流部は神島(砺波市)地先まで三分して施工された。勾配が急なため、落差エ一五ヵ所、上流部・中流部は二五〇分の一、下流部は三〇〇分の一~五〇〇分の一とし、護岸堤は高さ〇・九mの目潰石積みとし、水路底洗掘防止のため弧形の底張り石積みの工法を採用した。分水する小用水には角落し、または捲揚機付暗渠とし、上・中・下流部の各末端には完全溢流 式水槽三カ所を設け、二十八年三月完工した。

左岸最下流三口用水の悲願

千保・柳瀬用水のさらに下流には、二塚村に取入口を持つ西八ヶ・井口八ヶ・十七ヶ の三用水があり、  現在高岡市である二塚村・下関村・野村・能町村・開発村の灌漑面積約一、四九〇町歩(1,478ha)を灌漑している。この地域は、庄川に取入堰を設け直接取水しているほかに、上流用水の余水と湧水を利用していた。干天がつづくと極端な水不足となり、降水がつづくと洪水に悩まされることは、上流用水の濯漑地帯の比ではなかった。これより先明治十九年に、十七ヶ用水と井口八ヶ用水の江下村から、県知事と郡長へ嘆願書を出した。その主旨は、

⑴庄川の水は砺波郡七用水と射水郡三用水で平均分水する権利を主張

⑵庄川用水の平均分水する規制は藩で行われたが、 明治維新から無統制になったので水不足に苦しんでいる

⑶舟戸口用水は、千保川の自然流を改修した運輸川で、旧灌漑用水ではないのに、多量に庄川の水を流入しているので水不足を生じる。これは既得権の侵宮である

の三項であるが、『 庄川下流左岸用水補給事業誌』は嘆願の内容を、次のように述べている。

庄川ヲ源トスル養水ハ、往古ヨリ砺波郡ニテハ山見八ヶ・新用水・ニ万石・廠栖ロ・若林口・新又ロ・千保柳瀬ロノ七ロ、射水郡ニテハ西八ヶ・井口八ヶ・十七ヶ用水ノ三口、併セテ十ロガ古用水ナリ。其他ハ新田養水ナリ。抑モ旧領主前田公封内養水路タルヤ、古田養水ノ余水ナラデハ新田養水へ引キ入レザルノ成規アリ。故二数十日ノ日照続クト雖モ末流ノ吾ガ三ロ投水ハ水不足セザルナリ。然ルニ御維新二際シ、砺波郡ハ旧慣習ヲ破リ、既ニ明治四年ノ日照続キノ際ハ上流ノ数口用水ノミへ庄川全川ヲ随意二堰入レ、吾ガ三口養水ハ旱魃セリ。依テ金沢藩庁へ事情ヲ請願シ、将ニ庄川平均分水ヲ為サントスルニ際シ、降雨庄川出水セリ。因テ双方立別レタリ。将タ過ル明治十六年七月七日ヨリノ日照続キニ、吾ガ三養水ヘハ一滴ノ流下ナク大二旱魃セリ、玆二於テ均シク庄川ヲ源トスル上流ノ砺波郡ノ養水ヲ窺視スルニ、養水不足セズ。庄川全流ヲ堰入レ(中略)砺波郡七口養水ノ外、舟戸ロナル新川ヲ安政年度ニ開設セリ。庄川減水毎二鎖ロスルコトヲ掛合フモ、旧来ノ江ヲ上二移転セシナリ。或ハ郡中肥物運送ナレバ用水取入時節ハ敢エテ水ヲ多益ニ入レザルナドト、其ノ湯ノ答ヲ為シ居ルモ、旧来ノ地主ハ領主ナレバ、養水ハ素ヨリ改作奉行ノ直轄シタルモノニシテ関係人民ハ安ンズル所アリテ分水掛合ハ旱魃二当リテ起コリ、而シテ是マデ概二其ノ年限リニ止マリテ、後年ノ論ヲ究メズニ過ギ来タレリ。舟戸ロハ厳然タル一個ノ自然川ニシテ、末流千保川二分カル。過ル明治十六年ノ大旱魃ニモ、日々依然卜舟ヲ通過セリ。コレ名ハ養水ナルモ該川二四ヶ所ノ荷掲場アリテ、其ノ実ハ全ク運輸川ナリ。下流ノ新養水数十ロヲ合併シ、旧水高、現今反別数二関係ナク随意ニロ幅ヲ広ゲ、庄川減水二際シ全川流水ヲ堰入ルタメ、吾ガ三口涸渇ノ害ヲ蒙ルナリ。然レバ 今、同権ノ十口養水ハ各口関係ノ反別二因リ、水引キ入レノ程度ヲ改革シ配水スルコトヲ請フ

大正九年、富山県内務部が立案した「 庄川筋用水合口計画概要」には、射水三用水を合口する計画はあった。ところが大正十三年、農林省が立案した「庄川用水合口計画案」では、庄川の全川水量と工事費の増大を理由にこの計画から除外し、三用水の合口は別途立案することとした。しかし、三用水側は是非砺波郡上流用水合口計画に参加することを熱望し、度々県に陳情した。昭和五年四月、小牧発電所の放水量に関して庄川水電側と用水側が折衝して、三用水のために毎秒六八立方を放水することになった。五年十一月さらに庄川水電側と三用水側が折衝して、規定放水に代わる施設として二万四、〇〇〇円を庄川水電が寄付する協定ができた。それは合口堰堤からの連絡水路が長く、補償金では工事ができなかったためである。

庄川河床は耕地面よりはるかに高く、扇状地特有の砂礫の堆積があるので、必要水量は伏流水から得られるとして、昭和七年庄川に隣接し長さ二九・五間(53.6m)、幅二〇・五間(37.3m)  深さ三・八間(6.9m)の地下伏流水の集水池を設け、湧水を毎秒〇・三九立方m揚水してこの地域の補給水源に充てようとした。この工事は合口事業と全く別個で、総工費は七万〇 、六〇〇円、内国庫二万九、五五七円、 県費一万二、ニ八八円、 地元負担二万八、七五五円で、県営庄川下流左岸用水補給事業として実施された。しかし予想されただけの湧水量がなく失敗に終わった。また庄川本流の流下水量は、合口完成後さらに減少したので、改めて合口事業へ参加することを願ったが、取入水量の分配はすでに決定していたので拒否された。現在建設省の庄川改修工事の付帯工事として、庄川堤防沿いに排水路を掘り、排水路の湧水を用水源に利用することで解決しようとしている。 しかし水温が低く、作物への影習は良くないであろう。

庄東用水の改良

庄東用水とは、庄川右岸の三合新用水・芹谷野用水・針山中田口用水をいい、 この 三用水の灌漑区域は、雄神村(庄川町)・般若・東般若.栴檀野村(以上砺波市) 般若野村(高岡市)櫛田・水戸田村(以上大門町)大江・黒河村(以上小杉町)老田村(富山市)まで耕地二、四〇三町歩(2,383ha)を包含している。どの用水路も享保年間(1716~)開設されたままで、部分修理は施されてきたものの土堤水路であるため漏水による損失が多く、流路は荒廃して曲折著しいものがあった。庄川からの取入れ水量は十分あるにもかかわらず、通水状況が悪いので常に下流末端は干ばつの害を受けていた。また降雨期になると、満水して耕作地に浸水し、江縁が決壊して断水すると、稲作に直接損害を与え、また水路の修理費は毎年増大するので、これを大改修して水通しをよくする工事の必要に迫られた。

昭和二十五年八月、針山中田口用水では老朽水路の部分補修費、灌漑期の昼夜連続水番費の負担など、  用水単独で負担している額も数十万円に逹し、用水路を根本的に改修する必要はあっても、とても自力ではできないので、国・県の直営工事として施工してほしい旨の陳情をした。改修理由は、

⑴針山口用水路は紆余曲折はなはだしく、江緑は全線にわたって破損し、通水は極度に悪く、降雨の際は水路の江縁が老朽しているため、低地へ濁流が流入して年々水害を受けている

⑵中田口用水は、昔の数回にわたる庄川大洪水のため、堤防が決壊して荒土化した所を通水しているので、夏期は漏水はなはだしく、年々水不足に悩み、また庄川の水量が増加すると地下から多量の冷水が湧出し、耕地を冷却するため農作物は減収するという要旨のものであっ た。二十六年七月、庄川右岸用水改修期成同盟会を結成し、用水路が老朽化して、通水困難なことは針山中田口だけでなく、芹谷野・六ヶ用水も同様の状態で、改修の必要は急務であり、県営工事として三用水路全線の改修を施工してほしい旨の陳情書を県へ提出した。県は直営事業として二十七年起工し、庄川右岸合口幹線水路のうち、  庄川町庄地内の、渗透損失がはなはだしい区間(延長九四〇m)を随道ないし暗渠に改修した。芹谷野用水路は右岸幹線水路安川分岐点から延長八、三五〇mを三方コンクリー ト開渠に改修し、六ヶ・針山中田口用水は統合して延長七、五九四mも三方コンクリー ト開渠とし、途中で中田ロ用水を分水した。六ヶ用水は下条川水路橋(小杉町)まで延長4,787mを改修した。

庄西用水の改良

庄西用水とは主として、若林ロ・舟戸ロ・新又ロ・千保柳瀬口用水路を指し、灌漑区域はへ種田村(庄川町)・砺波市庄川左岸全域・高岡市戸出町周辺で、耕地三、五三三六町歩(3,504ha)に及んでいる。
どの用水路も砺波平野の開拓が進むにつれて、必要によって掘られたものや旧庄川の氾濫跡に自然にできた原始的な水路を利用したものであった。 水路は紆曲し、通水能力や分水・配水の適正に欠け、地下滲透するため損失量が大きいので干ばつには弱く、部分的に溢水するところもあって、多くの被害をもたらしていた。昭和二十七年、庄西用水改修事業期成同盟会を結成し、県営事業として用水の改修を陳情したところ、翌年八月、用水の全面的改修を県営灌漑排水事業として採択、二十九年九月、庄川弁才天で起工式を行った。この事業費は国庫補助五〇%、県補助二五%、地元負担二五%であった。この事業は、庄川中学校前(水圧管)ー  中野発電所ー  中野排水の左岸合口幹線水路、若林ロ・新又ロ・舟戸ロ・柳瀬千保口の諸用水を統合した庄西幹線水路八、六七一mを改修し、新又口水路三、七五九m、若林口水路三、七〇四m、千保口水路三、六五二mを三方コンクリー トの開渠にして漏水を防止し、通水を良好にしたものである。

砺波中部排用水改良

この改良事業の地域は、庄川町種田・福野町・砺波市鷹栖・小矢部市津沢・石動・若林地内であって、 多くの水路は旧庄川の流路をそのまま改修利用したものであった。したがって流路の幅が狭小で勾配は不規則なため、必要とする水量の通水が困難であった。用水系統も開拓が進むにつれ随時掘削されたままの状態で複雑多岐であり、所によっては不整曲折して交錯併流していた。水路の維持には多くの労力を費しながら適正な配水ができず、水不足に悩む所が多く、江下の農民は流路を改修する必要を痛感していたが、 用水路を整理統合することは、上局の指導と援助がなくては到底実施できるものではなかった。昭和二十九年九月、砺波中部用排水改修期成同盟会を結成し、三ヵ年の促進運動がようやく実を結び、三十三年庄川町古上野地内を起点とする横江宮川(延長一万四、匹四九m)をはじめ、総延長四万六、四三ハmを、経費四億八、七七〇万円で総合的な改修工事に着手した。すべての用水路は側壁をコンクリートブロックとし、川底はコンクリート打ちして漏水を防ぎ、下流排水路区間は、空石積みして地下水を排除する工法をとった。

砺波北部用排水改良

昭和三十四年に北砺用排水改良期成同盟会が結成された。趣意書には「砺波平野穀倉地帯で、庄川左岸四用水路並びに砺波中部用水路が県営改修事業として改良されたことは、誠に喜ばしいことである。しかし、その末端を受け持つ砺波北部地域の水路は、依然として旧来のままである。」など、次のように述べている。

⑴上流水路の改修が進んだので、取入口から半日も経たないと水が到達しなかったのが、今は二時問もかからないで通水できるようになった

⑵用水路は極めて不備であるから、降雨時は直ちに洪水となって冠水し、睛天になれば直ちに干ばつに見舞われることになる

⑶耕地は地下湧水する湿田地帯なので、冠水すると黄化萎縮病が発生し、防除策がないままに損害を受けなければならない

これらのことから、耕地の区画整理事業計画に先立って用水路を整備する必要がある。是非県営事業として工事に当たってほしいと要望した。受益地は戸出町・砺波市・福岡町・高岡市の三、七二三町歩(3,692.4ha)が 、改修総工事延40,766m、経費6,000万円に達した。

南砺山麓地帯用水の補給

庄川町( 金屋)・井波町・井口村・城端町の山麓地帯は高地のため、用水の補給水を得ることは長年の念願であった。庄川町 は、小牧ダム築造当時から用水の補給ができたが、ほかの町村は実現できなかっ た。  御母衣ダム建設によって増加した水量を灌漑用にさいて、灌漑可能地を開発 し、水不足に悩む農民の待望にこたえる目的で、南砺山麗地帯用水補給事業促進期成同盟会が昭和三十五年五月に結成された。

南砺山麓地帯用水補給事業趣意書

富山県の穀倉地帯である砺波平野の南部は、東は庄川左岸三用水の逐次の改修事業が実施されつつあり、また近くは更に庄川の水を流入せしめて、和田川の綜合開発を企画され、西は小矢部川綜合開発事業が労手されていることは、関係農家のため益するところ実に大なるものがあり、誠に喜ぶべきことである。しかるにこの両綜合開発事業の中間地である南砺の八乙女山・大寺山・赤祖父山・高清水山等の山麓地帯には整備された用水路がなく、これ等の山々の渓谷より流れる東・西大谷川、 旅川上流の馬取・中江・干谷の三川及び赤祖父川・利波川・別荘川並びに池川等により灌漑しているが、いずれも急勾配で水量僅少なるため、降雨時や晴天続きには洪水と干魃の被害が交々襲来するありさまである。また古来からの排水路があるため、この山麓地布に併行する低地域の各用水路に及ぼす影響極めて大きく、その被害甚大である。

なおこの山麓地帯には井波町において約50ha、井口村において約70ha城端町において約25haの開田可能の増産地帯も標高度高位なるため、水源に乏しく遊休化し、食糧生産を不可能ならしめている悪条件地帯で、せっかく生産意欲に燃えたった農家も現在以上の増収は不能であり、常にその情熱を後退させ当地方農家の上に多年濃い暗影を投げかけている次第である。以上のごとく種々の事情か累積しているが、今日まで関係町村では水源確保のため関係土地改良区は、土地改良事業をそれぞれ計画しているが、扇状地にして渓谷多きため関係面積少なく利害相殺し、経済的にも困難であり地域農民の不安が絶えない状態で、一日も早くこれらを除去して安定した明るい姿をぜひともつくりたいと念願するものである。これがため明年完成する御母衣ダムにより水量増大する庄川の水を、庄川町地内より導入しこの山麓地帯に流水せしめることが水不足を補い、耕地の増大を図り得ることができ、なおこれに関連する用排水路の整備によって各種の災害を防止し、生産効果を挙げ、今後の農業経営の合理化を図ることができうるものである。よって両綜合開発事業により最後に残されたこの地帯に一挙に綜合した、しかも科学的に合理的な用水補給事業を実施しなければならぬ状態にたち至ったのである。これがため農家の負担を少しでも軽減し、しかも安定した農業生産の基盤をなす土地条件の整備を一日も早く完遂せんがために、南砺山麓地帯全域にわたる補給用水路を綜合した県営事業として施行されるよう、われ等関係地域全農民の総意を結集し、協カ一致して本事業の促進貫徹を期せんとするものである。

昭和十五年四月十九日

南砺山麓地帯用水補給事業促進期成同盟会

出典:庄川町史

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA