隠尾城と里山

隠尾城と里山

7月 19, 2022 歴史 by higashiyamami

隠尾城

長尾為景の跡を継いだ晴景に代わり、頭角をあらわしたのは上杉謙信(為景の子景虎=輝虎)である。小田原城(神奈川梨)の北条氏を攻撃していた謙信は、急きょ軍を越中に進めて椎名氏を援助した。  永禄三年 (1560年)三月三十日 富山城を攻め、さらに 増山城に逃れた神保氏を追撃して、五ヶ山に敗走させた。この時の戦火に巻き込まれたのが隠尾城主南部源左衛門尉尚吉である。尚吉の戦死した鉢伏山山頂に建っている石碑には、当時の合戦の様子が記されている。

「隠尾村南部氏元祖南部源左衛門尉尚吉は、この鉢伏山に築城(詰の城)数代居城たりしが、中典の祖南部源左衛門尉尚吉の代に至り越後国長尾景虎が近国に武威を振るいて越中増山城主と合戦、遂に増山城を攻略し、景虎それより隠尾城を攻めんと広谷道より大軍攻め寄せたり。この時、尚吉は広谷の要害に迎撃せんと防戦したるも寄せ手の大軍ますますしょうけつを極め、戦い我れに利なきを悟り、家臣小原作蔵に命じて子息源右衛門を山中にのがれ隠れせしめ、尚吉自ら城に火を放ちて孤軍奮闘、遂に壮烈なる討ち死せし処なり。この時紀元二千二百十八年三月なりっ 氷慰世霊の為此地に建立す」

この鉢伏山の合戦は、その楊所が秘境でもあり、史料も隠へいされていたため諸書に記載されていない。詰の城があったという鉢伏山頂付近は、近年放牧場に開墾されたが、現在は県の指定キャ ンプ地となっている。したがって詰の城の遺構は見られないが、開墾の際、土まんじゅうなど無数の塚が発見されたという。 すべてつわものどもが夢の跡である。この頂上の詰の城に対し、山麓の居館の跡はわずかであるがその名残が見られる。

この隠尾館跡は南北29m、 東西21mの台地からなり、北側を除く三方が深い谷の断崖に臨み、天然の要さいとなっている。 北側は現在水田となっているが、 台地に沿って池となっているところは、 明らかに堀跡と考えられる。南側の崖を約20m下ったところに、 籠城用の飲料水にしたという湧水跡がある。苔むした立石に「城清水」と刻まれている。この文字は、南部家所有の南部正胤の記録のよると、宝暦十三年(1763年)五月二十日以前のものである。隠尾村は、 牛獄(987.1m)の北方に延びた尾根の一画にある鉢伏山(510.3m)の麓の小村であるが、不動明王の建つ鉢伏峠は、古来越中(富山藩)と加賀とを結ぶ間道として要衝であるばかりでなく、稜線の道は五ヶ山地方・飛騨国を結ぶ重要な道でもあった。  鉢伏山頂からは栴檀山(砺波市)を脚下に、長沢(婦中町)から遠く 富山方面が望まれ、西方は井波・井口・福光などのほか、はるかに加越国境が望まれるところである。

南部家祖

『 南部家賭』によれば、  祖先は南部遠江守宗継の含弟次郎左衛門宗治で、足利直義に仕え源平時代諸戦に活躍したが、観応二年(1351年)直義が滅びた後、郎党を伴い越中の鉢伏山麓に逃れ館を構えた。  永禄(1558~)のころ、中興の源左衛門尚吉は上杉謙信勢に攻められ、息子の源右衛門を長臣小原作蔵に託して山中へ逃がした後、自ら城中に火を放って討死した。源右衛門主従は飛騨国金森出雲守に内縁があり、助けを求めてそこで一時を過ごした。 そのうち越中の戦乱も静まったので主従は本国に帰り、  隠尾の地に隠れ難をさけていた。その後源右衛門は百姓となって九左衛門と名のり、それ以後この地に永住した。 そして代々里山村役人となり、住民の世話をして今日に至った由緒深い家柄である。かつては古宝遺品が多くあったが、家運の消長とともに血統も切れ散逸してしまった。残存するものば次のようなものである。 (昭和十年ごろ)

古仏 丈一尺三寸木像   慈覚大師の作という(樋口長の検証あり)

古画幅 獅子に牡丹    対輻    法印探幽六七才筆

歌書幅    正四位度會常観書

「くれ竹のひと夜をなれし旅ころも 今刺たち出るかくれをの里」

居屋敷は広く、旧館跡の一部を残し、そのうちに旗の台石、なき石、  南部祖先の墓などがある。
その他同家の最も古い建物(土蔵)の扉の上方に 鉄の菊形御紋章がある。また、同家には、慶長二年(1597年)里山村などの検地状があり、藩政時代初期から村役人を務めていたことがわかる。

次に南部家譜をあげるが、これは天明八年( 1788年)に作成されたものである。

文中「景虎が永禄元年三月大軍を・・・」は、前述永緑三年の誤伝か。「慶長九年(1604年)初代百姓の弟六兵衛、 高瀬の郷焼野に居住仕る。・・・」とあるが、高瀬郷に焼野はなく、現在の焼野および焼野新は野尻郷である。 高瀬郷の野尻野新村(現在の野新)に堂前野というところがあり、南部六兵衛の子孫と称する人が現在も居住しており、  同様の記録を所持しているという。

里山七カ村

里山村は、前述の南部家譜によると慶長九年(1604年)に里山を七ヵ 村に分けたとある。慶長九年は、  前田利家が加賀藩主になって初めて領内の村々を総検地した年である。 その七ヵ村とは隠尾・横住・名ヶ 原・落シ・湯山・湯谷・ニッ屋をいい、それぞれの村へ検地状が下付された。したがってこれ以前の里山村は、この七ヵ村一帯の地名の総称と考えられる。この地域は庄川の右岸で、南は牛嶽を、東は牛嶽が北方へのびている尾根を境とし、北は雄神の庄と隣り合わせた広いものであったと考えられる。しかし、隠尾八幡宮の境内社で十箇総社となっている級長戸辺社は、前述七カ村のほか河内・伏木谷・五ノ谷の三ヵ村(いずれも砺波市)の風難除守護神であることから、あるいは、里山の範囲はこの三ヵ村のある峰の東の谷も含まれていたとも考えらる。この里山村と隣接村、あるいは里山の村々の間で山地境界争いが後々にも起きたらしく、『加賀藩史料』にも、 里山と庄金剛寺村、隠尾村と湯山村の山地争いが散見される。

里山村の歴史については、それを朋らかにする史料は見当たらない。初出は、慶長二年(1597年)の検地状である。これは豊臣秀吉の家臣であった前田氏が、加賀・越中を支配して初めて領内の一部を検地したときのもので、いわば後の総検地の初の試みでもあった。この中に里山村が記載され、草高一六九俵二斗九合、この物成(年貨)は100俵につき60俵(60%)とある。これを石単位で換算すると、84石斗9合となる。これをもとに里山村の閲墾の歴史を推定してみる。

里山七ヵ 村の合計が84石余であったとすると、 約五年後の 正保三年(1646年)には、約四倍の345石余となり、さらに24年後の寛文十年(1670年)には 約74石(約二割)増加している。  しかし、 それ以後は全く増加していない。以上のことからこの里山村一帯は、戦国の兵乱が治まって藩政時代初期に急激に閲墾が進められたものといえる。また、里山村の名称については、寛永十年(1633年)の資料に「里山村半右衛門」の名が見られる。寛文十年の名ヶ原村の高物成(村御印)に「 東保名ヶ原村」と 記されているが、あるいは名ヶ原村は東保村(砺波市東般若地区)の人たちによって開墾されたことを示すものかも知れない。

次に、慶長二年から約20年後の元和五年(1619年)の利波郡村々家高帳より里山七ヵ村の家数(33軒)を示す。なお、この家数には年貢を納めていない者は含まれていない。これによると、里山七ヵ村の合計数三三、金屋地区三五、雄神地区四八となり(野島・種田地区は由上げされていない)、その歴史のおおよそは推定されるであろう。この里山七ヵ村各々のさらに古い歴史については諸説があるが、いずれも推測・伝承の域を脱しておらず、それらについては「 伝承」の項に記そう。

出典:庄川町史

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