用水路の発達
用水路の系統
用水の取り入れ口
庄川から導水している九つの用水路は、用水ごとに取入堰を築き、庄川堤防に門で用水量を調節する取入口を設けていた。それらの堰の働きをなす川倉は、 材木を組み立てて造った 高さ数mから十数mにおよぶ聖牛または鳥足(サンケ)を堰の拠点として連ね、 蛇籠・結柵・土俵をその間に並べて水勢を止め、 そだ・むしろなどを用いて砂礫を堆積し、長さ数十mにわたり庄川を斜めに横切って築かれていた。 しかし、これらの取入口は永久的に固定したものではなく、庄川左岸では、舟戸口は取入口を下流に築きなおし、鷹栖口はこれまでの取入堰を放棄して舟戸口と共同堰を作り、柳瀬口は上流の千保口と合口して千保柳瀬口と改め、右岸では、芹谷野用水は上流の三合新と合口し、中田口は上流の針山口と合併するなど、安心して現状を維持してゆける堰はなかった。庄川は融雪期・梅雨期・台風期の洪水ごとに河床が変わり、川幅や水深が違ってきて、今までの流路が川原に変化することも度々であり、川の流れの状態によって堰を延長したり、方向を転じたり、高さを調節したりして築きなおさねばならなかった。その上、洪水で堰が大破されると、導水量は不足して水田が枯渇するので、困難を極めながら復旧工事を急がねばならなかった。時として河床の変動が大きく、いかに工夫しても導水不可能な事態となって、取入口を根本的に変更せざるをえなくなった例さえあった。
二万七千石用水取入口
庄川筋用水取入口のうち最上流に位置し金屋赤岩にあった。この付近の庄川筋は、幅七三間(約133m)ばかり、 河床の勾配約二〇〇分の一で、東から流れてきて北に向きを変える屈曲部に当たり、 赤岩付近に木枠および川倉を組んで導水堰を設け、内法六尺五寸(2.0m)のもの一個、 五尺(1.5m) のもの六個の取入水門を作り、の90度の屈曲を利用して二万七千石用水へ直線導水した。水門の上約一五間(約27m)の右方には、岩石にはさまった幅七間(12.7m)のくぼ地があって、自然に余水を吐くように形作ってある。そこに丸太組二段構えの堰を作って、余水をその堰から庄川へ流し、用水取入口の保全を図っているが、大洪水の時はその堰が破壊され、用水へ流れ込む全水を庄川へ吐きだし、水門が保護される仕掛けになっていた。また導水堰上端に当たる山腹は山抜けの危険があり、明治三十七年十一月、数百間にわたって崩壊したので、県費による護岸工事を施しその危険を免れるようになった。この用水は庄川取入口中、比較的に砂礫の流入が少なく、取入れは極めて容易な状態にあった。
舟戸口用水取入口
庄川筋取入の第三位堰で二万七千石堰の下流五五〇間(約1㎞)の所に位置し、中野村畑野新(砺波市)庄川 中学校グランド北端にあった。この取入口の本流は川幅一一七間(約213m) ばかり、 河床の勾配約一〇〇分の一で砂礫の堆積が多く、平時の流路は偏在していて、比較的狭い部分に木枠および川倉で上流に向かって斜に堰を造り、内法四尺(1.2m)の水門五個で導水していた。洪水時には用水の取入堰の工作物がよく破壊された。 この流れは別名を千保川または新又川と称し、以前は高岡に通じる運河であったが、鉄道開通とともにその必要がなくなり、用水に改修利用したものである。明治二十九年以前は金屋舟戸付近に取入口があったが、同年の庄川洪水で取入堰が全部流失し、河床状態から見て復旧の見込みが立たなかったので、下流にあった分口を本取入口に替えた。
鷹栖口用水取入口
庄川筋取入口第四位堰で、舟戸口堰下流約三〇〇間(約545m)の所に位置し、中野村畑野新弁才天西方にあった。この付近の庄川の川幅は二二三間(約405m)ばかり、砂礫の堆積が盛んで、流路は洪水ごとに変化して一定せず、導水堰の築造には困難が伴った。内法四尺三寸(1.3m)の水門六個を有していたが、毎年のように変わる河床に応じ切れず、 舟戸口用水と共同で堰を造ることになった。
若林口用水取入口
庄川筋取入第 五位堰で、鷹栖口堰下流約三四〇間(約618m)の所に位置し、雄神村庄地内(左岸西領)にあった。川幅約二〇六間(約375m)で河床勾配は約一七〇分の一、取入堰中門に砂礫の中州があり、流路の水勢は取入口の反対側へ流れるので、全川一ぱいに取入堰を設けねばならす、取入口が高いところにあるので三〇尺(9.1m)以上の川倉を建てて水位を保たねばならず、堰は破損されやすくその保持には困難が伴った。
新又口用水取入口
若林口堰下流約三八〇間(約691m)の所に位置し、雄神村庄地内(左岸西領)にあった。付近の川幅は 二五〇間(約455m)ばかり、河床の勾配約二〇〇分の一、砂礫の堆積が多く、流路は洪水ごとに変化して一定せず、長大な取入堰を築造していたので破壊されやすかった。取水口は内法五尺三寸(1.6m)の水門六個と五尺二寸の水門一個から導水していた。
千保柳瀬口用水取入口
新又口堰下流四〇〇間(約727m)の所に位置し、雄神村庄地内(左岸西領)にあった。 流路が乱流している所で、川幅約ニ一四間(約389m)、河床の勾配は一〇〇分の一ばかりで、明治四十四年まで千保口単独で堰を設けていたが、河床状態が悪化したので、柳瀬口と合口し、内法五尺四寸(1.6m)の水門7個から導水していた。流路の変化が激しいので堰の方向は常に転換せねばならず、その苦労は大であった。
芹谷野用水取入口
取入口は庄川右岸にあり、左岸二万七千石用水取入口対岸のすぐ下流に位置し雄神村庄地先にあった。 この付近の川幅は約五〇間(約91m)で狭いが、取入口は河床から一〇余尺上部にあって川水の逸水にはなはだ困難であった。 堰は取入口から上流を斜めに二万七千石堰の余水吐に向かって設け、 二〇〇間(約364m)ばかりの川倉を配置し、 粗朶でこれを連結して藁筵で瀬水を防ぎ導水していた。渇水期はさらに上流に向かって四〇間(73m)ばかり延長して全川を締め切り、所要水量の確保につとめた。 内法五尺三寸五分(1.6m)三個の取入口を持ち、下流左側に幅一二尺(3.6m)の余水の吐水門を備えていた。堰は急流部を締め切るので、洪水ごとに破壊流失を免れず、修築には多額の出費を要した。
用水路
庄川左岸には、 金屋地内赤岩から下流一里六町(約4.58㎞)の間に、二万七千石 ・舟戸ロ・鷹栖ロ・若林ロ・新又ロ・千保柳瀬口の六ヵ所の取入口かがあり、右岸には、赤岩から二里二〇町(10.04㎞)の間に芹谷野・六ケ・針山口の三ヵ所の取入口があって、それらが個々別々に庄川の自然流を導水して一定区城を灌漑してきた。
二万七千石用水路
取入水門下流の導水路は、庄川左岸に沿いに二三七間(約431m)下流で山見八ヶ用水へ水車で揚水して分水し、それより一一四間(約207m) 下流で新用水を分岐し、この二用水の外は二万石用水路となっていた。
山見八ケ用水路
古くは 二万七千石用水の大水門の上流 五〇間(約91m) の所から別口で取水し、二万七千石用水路と乎行して専用穴繰を通っている。後になって二万七千石用水取入水路の二三七間(約431m)下流の左岸金屋地内で、水勢を利用する水車二連を用い、高さ約七尺(2.1m)の高所にある本用水に水をくみ上げて導水した。 ここから二万七千石用水路と平行して流れ、現在の合ロダム付近で西流し、庄川小学校グランドの北端から庄川本通りを暗渠で横断し、金屋田圃の下段(河岸段丘端)に沿い井波中学校グランドの北側、井波高校敷地の南端を通って井波駅前道路を横切り、 東洋紡績(株)敷地から山見八幡宮境内を抜けて東大谷川を越え、戸板(井波町)神明宮境内の上を通り、西大谷川を越え、田屋川へ排水している。 用水路の勾配が緩く押水で送水している所もあるので、減水すると逆流することもある。通水量は少なく干天が数日つづくと水不足に悩まされていた。井波町山見は毎日夕方六時から 翌朝五時まで 高瀕村高瀬、南山見村戸板は一日、同村沖、川原崎はほかの一日、高瀬村北市、南山見村今里はさらに他の一日、すなわち三日ごとに一日ずつ送水し、高瀬村三清(一部福野町域)には干ばつでない限り分水しない旧慣があった。
新用水路
二万七千石取入水路の左岸山見八ヶ用水分水口の下流一一四間(約207m)の 金屋地内で、内法五尺五寸(10.0m)の水門三個で自然に流入させ、青島村ほか旧九ヵ町村を灌漑する用水であった。水路は、水門下流の金屋地内で分岐する主なものは、示野・三清用水の二水路である。示野用水路は分岐後三五〇間(約636m)下流で東北方に流れ、四ヶロの水路に分水しさらに西流して青島・山野両村を通っている。三清用水路は金屋地内で分岐し、金屋・青島・示野・山野(井波町)・南野尻・野尻(以上福野町)・鷹栖(砺波市)の各村を西流して津沢町に至っている。岩武用水補給路は山野地内で分岐し、山野・高瀬両村を西流して南野尻村に至っている。山野地内で坪野口用水を北方に分水して井波・山野・南山見(井波町)の各村を西流し、高瀬村を灌漑して西南へ流れ、江田水路を分けて広塚村(福野町) を通り旅川へ入った。配水は 旧石高に応じて小口分水し、干ばつのときは委員裁定による旧慣があった。
二万石用水路
二万七千石取入水路の末流で、水路幅八間(14.5m)もあり、 前記山見八ヶ用水・新用水に分水した地点から下流が二万石用水で、 青島村ほか三ヵ町村に及ぶ庄川各用水の中で最も広い耕地を灌慨区域としている。幹線水路は、今の合ロダムの西から金屋を通り、青島甚左橋から一本橋へ流れ、ここで五ヶ・青島江を分水し、庄川町役場の裏を流れ、示野の町営住宅敷地となっている敷籠で善右衛門用水へ分水し、鹿島・荒高屋両用水を青島で分水して、清水明橋の上流青島・高儀新(現在の天正地内)付近で苗島・八塚・野尻の三水路に分流している。苗島用水路は、幹線と分岐して山野村岩屋(井波町)から南へ八塚・軸屋・飛騨屋の三用水と平行して流れ、約五〇〇間(約909m)下流で八塚用水を越し、北流して山野地内で寺家用水路に分水し、それから一五〇間(約273m)下流で多数の細い流れとなって、山野・南野尻・高瀬・広塚の各村に配水されている。野尻用水路は青島から天正(庄川町)を通り、五鹿屋村(砺波市)に入って多数の小分流になって、東野尻(砺波市)・南野尻両村を灌漑し、北流して国鉄福野と高儀、高儀と東野尻駅間でそれぞれ城端線をくぐり、野尻・鷹栖両村に入って細い流れをなしている。これらの配水は、各口に堰または樋を設け、旧石高に応じて分水し、減水のときは配水委員が協議して 水量を裁定するが、配水条件が錯綜しあっていて、用水配分に不便が多かった。
舟戸口用水路
庄川左岸中野村畑野新地内、庄川中学校グランド北端付近から取り入れ、雄神村ほか旧九ヵ町村を灌漑してきた。取入口から松川除第二堤防を暗渠で通し、中野発電所前を経て稲田・中野両村境に沿い、鷹栖ロ・若林口両用水を越えて若林ロ・新又口両用水路の中間を流下し、中野村の北端に出て新又ロ用水路を越え、庄下・油田(以上砺波市)の両村を経て戸出町(高岡市)の東南で 北般若に向かって一分流をなし、本流は射水郡境を流れて千保川に入っている。 用水路が通過する各分水口に胴木または蛇籠を伏せ込んで配水し、干ばつには委員立会の上で適宜水量を裁定していた。
鷹栖口用水路
庄川左岸中野村畑野新地内の砺波市水道水源地付近において取り入れ、雄神村ほか旧九カ村を灌漑してきた。水路は、取入口から中野村を北流して舟戸ロ・若林口の中間を流下し、舟戸口用水路をくぐって西北に向かい、種田村に 入って数流に分岐し、 五鹿屋・出町・東野尻(以上砺波市)の各町村を経て国鉄砺波・東野尻駅の間で城端線をくぐり、鷹栖村を通過して若林村(小矢部市、 一部砺波市)に至り、 灌漑後は小矢部川に排水している。 配水の方法は旧慣によって、各分水口には相当大きな樋管を埋め込み、または堰を作って旧石高に応じて分水している。
若林口用水路
庄川左岸中野村中野新の東南、雄神村庄(西領)、雄神橋下流五丁(約545m)付近に取入口を有し、 雄神村ほか旧八ヵ町村を灌漑してきた。水路は、取入ロ下流約七〇間(約127m)を下って中野村に入り、鷹栖口用水路と相接し、北流して舟戸口用水路をくぐり庄下村(砺波市)南端を経て出町を流下 し、さらに国鉄城端線をくぐって二流に分岐している。一流は林村(砺波市)に入り、同村中野を経て高波村(砺波市)に至って細流し、他の一流は出町大字林を経て林村に入り、さらに高波村地内を灌漑し、正得村(小矢部市)その他の町村を経て小矢部川に入っている。配水は、分口ごとに旧石高に応じて樋管水門または堰を設けて分水し、干ばつのときは委員協議のうえ適宜配水している。
新又口用水路
庄川左岸雄神村庄地内(西領)中野村大島の東方から取り入れ、雄神村ほか旧九カ町村を灌漑してきた。水路は取入口から松川除第二堤防をくぐり、中野村中野を貫流し、太田村(砺波市)西端を経て庄下村で二流に分かれ、一つは出町と庄下村との境界に沿って流下し、油田村(砺波市)に入り国鉄城端線をくぐって是戸村の束端、是戸と戸出の(以上高岡市)境に沿ってその付近を灌漑している。以下排水となって小勢村の東端福田村(以上高岡市)の一部を流下し、五十玉用水路に落水している。配水方法は旧慣によっているが、干ばつのときは委員において適宜配水している。
新保柳瀬口用水
庄川左岸の雄神村庄(西領)において取り入れ、 雄神村外旧八ヵ町村を 灌漑してきた、取入口以下の水路は太田村に入り、庄川第二堤防前において千保ロ・柳瀬口の二用水路に分岐している。 千保口用水路は、 庄川第二堤防を通過して太田の西方を北流し、北方の耕地に分水しつつ庄下・南般若・油田の三村(以上砺波市)境界付近に出て、戸出ロ・ 総戸口の二用水に分かれている。戸出口用水は、本用水と分岐後油田村に入り、油田駅の北方で城端線をくぐり鉄道と平行して流下し、戸出町・出町間の県道に沿って戸出町市街地を貫流し、同町内を灌漑した後排水となって五十玉用水路に入っている。 総戸口用水路は、本用水と分岐して戸出口用水路とほぼ同様の経路をたどって城端線をくぐり、戸出町・出町間県道西方において新又口用水路の一部水路と合流し、さらに北流して是戸村・戸出町方面を灌漑している。柳瀬口用水路は千保口用水と分岐後、庄川第二堤防の東側に沿って北流し、太田村の中央を流下しながら数流に分かれて柳瀬・南般若・北般若(高岡市)の各村を灌漑し、末流は千保川に落水している。配水方法は千保口用水が有利に決められていて、ニ用水分流後は、各下流において旧慣によりそれぞれ適宜な規定で処理していた。
芹谷野用水路
庄川右岸の雄神村庄地先赤岩付近の下流で取り入れ、取入水門から五間(約9.1m)余り下流で長さ一九間(約34.5m)余りが暗渠となり、第一隧道三三五間(約609m・隧道内の崩れた部分には木巻または石巻を施工)をくぐり、そこから開渠となって約六一〇間(約1,109m)下流の地点で三合新用水路を分岐し、第二隧道約一〇〇間(約182m・隧道内は砂岩で、断面・勾配ともに不整)を経て雄神村庄地内雄神橋東詰付近に出て、以下全部開渠で庄地内を貫流し、三谷地内山麗に沿って迂国、谷内川を越えて東北方に進み、般若村を経て栴檀野村(以上砺波市)・般若野村(高岡市)の東方台地を通り、般若村小泉新の北方郡境に達して射水郡水戸田(大門町)方面に至って、江幅約八尺(2.4m)のものと、同郡櫛田村(大門町)方面に至る幅約四尺(1.2m) のものとの二流に分かれ、その末流は和田川に入っている。 途中、用水左岸の土堤下には無数の不完全な小口の暗渠を伏せた分水口があった。水路は中流・下流は勾配が極めて急であるが、上流山腕部は地勢上迂回しているので緩勾配の所が多く、かつ余水吐の設備が不完全なため、降雨時は渓谷から出水したり土砂が流入したりして水路を破壊することがあり、危険箇所にはコンクリー トで護岸するなど防破につとめた。
三合新用水路
芹谷野用水取入口から一六町(約1,745m)下流の第二隧道入口において、芹谷野用水路の右岸から幅三尺の水門二個で取水し、水路は芹谷野用水とほぼ平行してその上方山服をたどり、芹谷野用水路の右岸山手にある耕地を灌漑して東北方に向かい、般若村三合新(砺波市)に至っている。
六ケ用水路
庄川右岸般若村安川地先において庄川から取り入れ、般若村耕地を東に向かって横断し、同村徳万および東般若村の東端の崖下(河岸段丘)をたどって北方に向かい、般若野村西方、櫛田村(大門町)の東方を経て和田川を掛樋で横断し、水戸田村(大門町)の南部を通過して橋下条村(小杉町)に入り、一部は橋下条村を灌漑しつつ大迂回して下条川を掛樋で越え、太閤山山麓をたどって途中小杉町方面への水路を分岐し、なお東方に向かって黒河村・老田村(以上小杉町)の耕地を養い、本流は鍛冶川に入っている。この水路の上半は山手台地の承水溝のような位置にあるが、下半は概して山麓傾斜地を通っているため、 降雨時は途中高位部の悪水を受けて、ややもすると水路は満水し所々破壊することがあった。平時は上位を通過する芹谷野用水の落水を受け、取入口付近で渇水のときでも、比較的多くの水を下流で利用できる利点もあった。
針山中田口用水路
般若村安川の庄川堤防尻にはじまり、約三〇〇間(約545m)を下り、針山および中田の二用水路に分流していた。針山用水路は、般若村頼成から北流して東般若村八十歩・東保(以上砺波市)、般若野村今泉・滝・常国(以上高岡市)地内を経て射水郡櫛田村に入り、同村串田 ・ 布目沢(以上大門町)に至っていた。中田用水路は、般若および東般若両村の西方庄川に並行して北流し、中田町に入り細い流れに分岐して中田町の耕地を灌漑している。
灌漑地域
圧川から取水し灌漑している地域は、 砺波平野の全域と射水平野の一部にまでおよんでいる。 その感慨地域は用水末端地域である交渉地を除くと左岸三二、右岸一二、 合計四三ヵ町村となり、その灌漑面積は左岸七、二九二町歩(7,232ヘクタール) 右岸一、七八七町歩(1,772ヘクタール)、総面積は九、〇七九町歩(9,004ヘクタール)に及んでいる。交渉地とは用水の余水をうける地域や、二つ以上の用水から濯漑水をうけている地域をいい、多くは用水末端地域に位置している。したがって干天がつづくとたちまち水不足するが用水費の負担は少ない。 用水末端という地理的条件が悪いだけでなく開発の遅れた地帯でもある。左岸の旧北般若村徳市から下流に西八ヶ・井口八ヶ ・出口十七ケ・十七ヶの各用水などがあり、これらは主として上流用水の余水を利用して流域一、四〇〇町歩の水田を灌漑している。また、五十玉・玄貞川の用水などは主として湧水地帯の湧水を用水源とし、流域約一、〇〇〇町歩の水田を灌漑している。さらに庄川右岸には中田ロ・七ヶ ・八ヶ・九ヶの各用水などがあり、右岸上流諸用水の余水をうけて五五〇町歩の水田を灌漑している。
取水量と用水の慣行
用水源である庄川の流水量は豊富で、各堰ともたいてい取り入れる水は不足していなかった。しかし、その流水量が少なくなると、山見八ケ用水・新用水の灌漑区域内で井波町・南山見村(井波町)、高瀬村(井波町、一部福野町)の約七〇町歩と津沢町(小矢部市)の約五町歩ばかりと千保柳瀬口用水の灌漑区域六五〇歩はいつも水が不足し、芹谷野用水灌漑区域の末流、水戸田(大門町)方面に至っては全く欠乏し、ことに最下流の六ヶ・針山中田口両用水においては枯渇の状態となる。また、針山中田ロ用水灌漑区域中、芹谷野用水の落水を受ける区域以外の般若村、東般若村(以上砺波市)の一部、中田町・櫛田村(大門町)の大部分、および六ヶ用水灌漑区域の橋下条・黒河・老田の各村(以上小杉町)は いずれも 水不足を訴えた。各分派口はそのつど水番を設けて間断なく見回り、あるいは上流取入口に向かって分水を乞い、危急を免れようとした。千保柳瀬口用水ならびに六ケ・針山中田口用水のように、末流に取入口を有するものは、水が意のごとく流入しないので著しい干害を被り、中田町の一部などは時折収穫皆無の惨状を呈することもまれではなかった。それで干天がつづいて庄川か渇水すると、江下関係者は期せずして各所に集合して分水策を講じ、各取入口に委員を派遣して昼夜交代で配水量の公平を期し、 盗水を警戒した。しかし、それでもなお不足してくると、収穫量が減収するだけてなく、分水や被分水区域共通の水ほかに、山見八ヶ・新用水の灌漑区域内の井波町・南山見村・高瀬方面の流水途中で漏水による損失が大きいこと、津沢方面は水路の配置や分水口の位匠や構造が適当でなく、六ヶ・針山中田口ならびに千保柳瀬ロ用水取入口は最下流に設けられているので、上流から分水を受けてもその水量が十分でなく、庄川の熱砂の中を流下する間に水が損失して、実際に取り入れられる水量が至って少ないことなどに起因していた。用水取入口から下流の分派口における分水量は、各水利組合管理下に限定しているが、庄川から取り入れる水量には一定の制限がなく、事情の許す限り取り入れることができ、上流に取入口を有するものほど有利で、下流に至るにしたがって不利となる。庄川の流量が減少するようになると、下流ではたちまち水の欠乏を訴え、上流に哀願して一定期問だけ分水を受ける慣行があった。灌漑を終わった余剰水は、地勢に応じて、それぞれ旅川・小矢部川・千保川などへ排水し、さらに他の用水へ流れる。二万七千石用水取入口の対岸直下に芹谷野用水取入口があり、千保柳瀬口用水取入口の下流にはなお西八ケ・ 井口八ヶ・十七ケ用水の三取入口があり、さらに千保柳瀬口用水と西八ヶ用水取入口の中間の対岸には、六ケおよび針山中田口用水取入口がある。このうち、千保柳瀬口用水・針山口用水の取り入れに対しては、庄川が減水する湯合にはとくに上流用水から分水することもあるが、 分水量についての規程は別にないので、臨機に協謡して定めることになっていた。針山口用水においては、谷水を受け、途中六ヶ取入口を通水するが、これには一切分水しなかった。また西八ヶ用水以下の用水灌漑区域は、庄川用水の北端に位してその余水と北般若村地内の涌水を利用したり、または千保川から取り入れたりしたが、上流から分水を受けたことはなかった。
出典:庄川町史