加賀藩の農政

加賀藩の農政

天正十一年(1583年)前田氏が加賀藩主として入国した当初は、前領主の旧来の農政をそのまま引き継いでその慣習を重んじ百姓を仕つけ農耕に努力させた。しかし十五、  六年ごろになると百姓と一部の庄屋や名主の間にわだかまりが生じ、年貢の収納に支障を来すに至っ た。そこで藩は知行所付が武士で、軽輩の者を知行地の村に移住させ、または時々関係の村々を見回らせて庄屋や名主の不正を監視させた。 ところが、世は泰平となるにしたがっ て、知行所付の武士、いわゆる給人は自然農民と親しくなり、ついには銀・米の貸借をなすことが一般に行われるようになってきた。その借り貸しは最初は慈悲心で無利息であっても、次第に事になれると利子がつけられるようになっ た。当時民間の利率は、20% から40% の高率であったので、慶長十年(1605年)ごろ藩は借銀米の利率制限の高札を立てるに至っ た。

このような貸借において借り主である百姓は元利の償却がおぼつかなく、利子は積算されて負債は増加の一途をたどった。そのうえ給人は、藩主から与えられた権限以外の雑役米を徴収し、あるいは人夫として使役するなどしたので、百姓は終生元利の返済の見込みがたたず、ついに自暴的となって夜陰に乗じて逃走する者が続出するようになった。藩はこの窮状を救済しようと士分に対し百姓との貸借を禁じ、一方百姓を保護しその取締まりを厳にした。その任に村役人を当て、もし村役人がそれを知りつつ百姓を逃 亡させるようなことがあると、その村の越度として一村を折檻する意味で一作手上免、 あるいはその村の屋別一石あての過怠米を徴するなどの令を下し、仲問同士で厳重な取締まりをすることによって百姓の逃散防止を図ろうとした。この過怠米などで最も困難する者は百姓で、中には士分に抵抗し、あるいは愁訴するものが出てくるようになった。そこで藩は収納の軽重を正し、百姓の申し分をないようにしようと、元和年間(1615年~) 領国一般の検地を行い租米を改めた。しかし、その租米の率は実際とは程遠く実行困難のものであった。これに引き替え、知行を受ける士分は先祖の戦功をたのみ、それを口実に与えられた知行所付の百姓は、自己の権限内にあるなどといいふらす者も現れたので、藩主利常は慶長の晩年から寛永の初年にかけて度々布令を出し、百姓と武士の間の平穏を保つよう手段をめぐらした。

改作法

北陸の農民は長禄二年(1458年)から天正七年まで ごニ二カ年の久しい間、一向一揆の歴史を有し、 百姓とはいえ必ずしも武士に畏服せず、ある程度の我儘根性が養われてきた。そして貢租の納入を怠って未進に終わらせ、その収穫を自分のものにしようとし、  給人は皆済させようとしてこれを督促し、時には呵責をもってし、給人と百姓間の争いがしきりに起こり、中には愁訴する者すらでてくるようになた。  百姓のこのような風潮は慶長末から元和・寛永に至っても依然として改まらず、百姓は給人から不相応の負債をなし、給人はまた、百姓から貸物の利子を取って喜び、身分に不似合の心意気を持つようになった。利常は このような弊害を除こうとして改作法を実施した。当時の百姓には公儀百姓(藩主の百姓)と、給人百姓(藩臣の百姓)の別があった。給人は毎年暮れに自己の知行地へ手代や下代を遣わして、その村の扶持知行米を受け取るならわしであった。そのため私的交わりが複雑にからまり、 物の貸借関係が結ばれるようになった。そのため相互間に申し分が起こり律儀を失う結果となり、  精神惰弱の百姓は再起不能の負債をするに至った。この事態を看破した利常は、領民の精神作典を図れば必ず更生できるとの確信のもとに、領民の負債を調査してそれを藩が肩代わりし、それ以後の貸借関係は厳禁し、領民更生の具体案を作製した。その要点は次のようであっ た。

1、村々の百姓に、その村所における権利を与えて村所の統御にあずからせ、戸数を限定し、これに伴う義務を負わせる自力更生を図るため改作主附をおき、百姓を耕作労役に努力させ、その上、信教によらせ、自分の天職を重大視するようにし、粗衣粗食に恥じず、その分に安んじさせる

1、村々の百姓に、その村所における権利を与えて村所の統御にあずからせ、戸数を限定し、これに伴う義務を負わせる。

1、自力更生を図るため改作主附をおき、百姓を耕作労役に努力させ、その上、信教によらせ、自分の天職を重大視するようにし、粗衣粗食に恥じず、その分に安じさせる。

1、村々の百姓や頭振りの健康増巡のため、角力・盤持ちを奨励し、その鍛錬と相まって勤労を尊ばせる。時に娯楽として村踊りや歌謡の興行を一村一郷を限りこれを許し、労働・遊休の規律を守らせる

1、百姓の生活を改善、冠婚葬祭の冗費を節約し、百姓方へ役人が出勤しても一汁一菜の賄に定め、村所における商売にも栄耀(ぜいたく)がましい物売はこれを禁制する

1、改作主附の指図によって、耕転肥培、土地の開墾、用水工事、道路改修など、すべて競技的に行わせ、心身の労を尽くして、よろず家業、農事とも精励させ、余念をなくさせる

1、村々在所の不良の徒を追い出し、善良の思想者をその村へ範として引き入れ、あるいは懲刑的に徒 者を厳格な村百姓の下に移し、 善良な村を仕立てる。なお命により他の村に引越す百姓には、精神的・物質的に満足を得るよう、身分相応の待遇法を立てる

1、村々の耕作地面積と人数(労力)とを計算して、人数が少ない時は他所から百姓を迎え、人数過多の村には新開村あるいは人数の少ない村在所へ引越百姓を命じ、いずれの村々も耕地面積と労力を均等にし、 領内を競技的に進展させる

1、従来給人は、知行所付の村々へ年暮に年貢および貸物の請求を行ったが年貢は藩がとりまとめ、 知行給人へ支給し、給人は直接百姓に接しないよう申し付け、なお借り物は藩から百姓に貸し与え、以後給人を知行所へ猥りに出入させないよう にする。かつまた貸物のため給人が百姓を奉公人として使役する場合、一々上司の許可を得るようにして、給人と百姓との疎遠を図る

1、百姓自身相応に立ち働けば必ず予期の自力更生はでき得るものなりとの自信を持たせるまでの救与と援護をなし、その信頼と安堵の心意を善用し能率増進に資する

以上は利常が、長い歳月にわたって工夫をこらした農民更生の基本方針であって、その成功成就は疑いなしと、強固な自信をもって計画を決行した。

百姓を「 かじけ」させず、「侈二なれ」させず、「 富過ぎて奢に流れ」るようだと「 手上免」を課し、その村々の草高に定った年貢を請けさせ、年の機凶にかかわらず定免(定められた年貢)を納めさせる、というのが改作法の基本政策であった。凶作の場合はその度合を調査して、 年貢の不足分を「 御貨米」としてその村に貸し付け、次の豊作年に返済させた。

安永二年(1773年)示野出村(庄川町)が 不作で年賀の完納に差し支えたので「 御貸米」を申請して「 八斗壱升」を借り請け難渋老へ配分して皆済させた。

同じく示野出村は 天保四年(1833年)の 凶 作に引免二〇石六斗五升九合と、 御貸米二石九斗八升八合をうけ、合計二三石六斗四升七合を、定免御収納米八八石五斗三升六合の内から差し引いた六四石八斗八升九合を、この年の示野出村一村の御収納年貢として蔵入れしている。なお、この天保年間は不作のつづいた年で、四年に引きつづき五、  六、  七、 八年と辿年にわたり「御貸米」を申請している。

しかし加賀藩が苦心研究を重ねた農業政策改作法も、その施行に当たって年を経るとともに測らざる弊害が発生し、これを防ぐことは容易でなかった。  改作法こそ「聖人天心の仁政」であるとして賛美した『理塵集』の編者も「御改作の箇所箇所高免と成故、 百姓わらの出目もなく(中略)、内福の百姓は一村に壱人か二人有レ之、百姓へ貸付利潤を得、宜しきものは年毎に宜しく、 貧なる者は次第に行詰りし也」と説き、農村における貧富隔絶の傾向をいかんともし難いと嘆いている。また一方、給人の側においても問題があった。定免法を定めて、年の豊凶にかかわらず年貢を納めさせると同時に、給人に対しても幾凶にかかわらず一定の給与を与えたことは、

農民と給人との直接的反目の機会を少なくしたにはちがいない。けれどもその反面、給人の田地や農民に対する関心を弱くするおそれがあった。 凶年になって米が高値を呼ぶことは、一年の年貢を納めるべき農民にとっては苦痛であるが、豊凶に関係なく一定の石高を給せられる給人にとってはむしろ歓迎されることであった。 給人のうちには凶作を心ひそかに期待し、米価の値上がりを喜ぶ者が生じたのも、 またやむを得ないことであった。『理塵集』のいわゆる「 国主の損もかへりみず、悪を好み申す」輩といわねばならない。他藩から特色ある農政として注目された改作法の施行にも、こうした避け難い弊害が伴ったことは否定できなかった。

郡・改作奉行

加賀藩は前田氏が入国して以来、 慶長ごろ(1596年~)になるとようやくその基礎が固まり、その要所に奉行を置いて政務を執らせた。奉行の名は数多くあったが、  農民に直接関係が深いのは郡奉行と改作奉行であり、このほか山奉行・川除奉行・御塩奉行があった。郡奉行は一郡あるいは数郡を区域として監督の任に当たるもので、初めて設けられたのはいつか明らかでないが、砺波射水御郡奉行は承応二年(1653年)に郡勘三郎が、新川御郡奉行は寛文元年( 1661年)に改作奉行の山本清六郎が命じられていた。

加賀藩の御郡奉行は御算用場奉行の統轄下に慨かれた。

御郡奉行は郡方の人事・租税・土木・治安・軽易な裁判 (ただし 殺人・盗賊・博打は盗賊改奉行の所管)などのことをつかさどった。御郡奉行は、はじめはその任地に在住したが、万治元年(1658年)に十村代官の制が立てられ、郡方には御郡付足軽を置き、御郡手代に事務を補佐させた。この制度は藩の痛く心を用いたところで、奉行はひたすら監督官として裁決した。日常農民に接してその利害を共にし、加賀藩およびその領民の幸福を図る者を郡中の百姓のなかから十村役に任じ、御郡奉行から十村へ申し渡して郡方の行政を行わせた。ついで文政四年( 1821年 )に郡方制度が改正され、万治三年に常置した改作奉行が御郡奉行を兼務という名目に改められた。従来の百姓十村代官は指し除かれ奉行の直支配となったが、天保十年(1839年)また復元されて御郡奉行と改作奉行を振り分け、職務も分離して何郡御奉行と「 仰付」られ、地方在任を命じられた。しかし同十四年、越中の外は任地在住を廃し、  以来明治の廃藩までつづき、金沢藩の戦名改革と同時に御郡奉行は郡宰と改めその名を絶つに至った。

改作奉行は、改作所に常勤して農政関係の業務に専任した。土地・勧農・年貢徴収などの 民事を取り扱い、上申下達を行って民心の安定を保つことをその本務としたが、農村の一般行政をつかさどる郡奉行と併置したことは、加賀藩独特の戦制であっ た。慶安二年に、改作法施行推進のために生まれた臨時職で、改作成就の明磨二年(1656年)に廃止された。  ところが、万治元年(1658年)利常が病死し、同三年秋、多雨のため凶作となり、その収納をめぐって各所で紛糾が発生した。収納米の品質が悪く、代官・給人は、百姓が米に水をうってはかるなどと申し立て、農民は代官・給人の収納米吟味が過酷であると訴えるなど、まさに改作法施行後、 最初の危機に当面したので、その対策として、改作奉行を常置して事に当たらせるという処置がとられた。そして改作奉行には、収納や免相指引についてかなりの独断が許され、 十村や百姓たちの賞罰、   給人・百姓間の隔離、 郡奉行との業務区分を明らかにして、  互いに相犯させないことが 任務とされた。

村役人

加賀藩に十村役を協いたのは、慶長九年(1604年)能登国鳳至郡でその土地の大百姓を取立て、数村の政務に当たらせたのをはじめとし、これを十村肝煎といい、これが加賀藩の郷村制度の起こりとされている。これ以前の天正(1573年~)のころは、その村の長百姓が上の命を下に達し、村内の諸務を統べていた。当時これを単に肝煎といっていた。

十村の名称については諸説があり、『石崎民事誌』は村の首長を十村と称すといい、また、十村は十力村を一円として支配することにより起こったとされているが、要は肝煎は一村に限られ、十村は数村を一円として統べる者を指して名付けたものである。十村のうちにも御扶持人十村というのがある。藩から御扶持高を賜り、担当の組や村々を管轄する点では十村と異ならないが、同時に郡内の十村の監督に当たった。また別に無組御扶持人という役があって、御扶持高を藩から賜るけれども、自ら管轄する組や村をもたず、ときには藩府へ出勤して、諸郡の十村の監督の任に当たり、また、施政についての諮問をうけた。

ところで組というのは、村々の集合体の名称である。『御定書』によると、享保十六年(1731年)の藩内の組分けは、越中国では砺波郡10組、射水郡7組、 新川郡 13組で、落全体としては七八組であったが、その外に新川郡の浦方一組を合わせて七九組とされていた。そこで十村が、どういう範曲の組や村々を管轄し、 どういう種類の事務を管卒したかについては、『越中諸代官勤方帳』が151カ条の条文によって詳細を極めている。この書の添書に「俗に十村勤方帳と云ふ大切の旧記也」とあるほどで、十村勤方の状況を知る上において重要であるが、この書の目次を見ただけでも十村勤務の状況を推測することができる。

出典:庄川町史

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