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古代・中世の村々

古代・中世の村々

6月 22, 2022 歴史 by

雄神川と雄神神社

万葉集と雄神川

雄神河くれなゐにほふをとめらし淑附とると瀬に立たすらし

この歌は『万葉集巻十七』に「砺波郡雄神河の辺にて作れる歌一首」とあり、越中万莱歌の代表的秀歌とされている。大伴家持は、その若き日に越中の国司に任じられた。

それは天平十八年(七四六)六月二十一日、彼が二八オのときであって、 天平勝宝三年(七五一)には少納言に昇進、 それまでの万五年問越中に在任した。  大伴氏は代々武将として禁衛の任に当たった名族であり、家持は、旅人の子として和歌に長じていた。

さて雄神川の歌意は「 見渡すと雄神川では赤裳の色が美しく水に映えている。 あれは少女らが葦附を採るため川の瀬に下り立っているのであるう」というもので、天平二十年(七四八) 春の出挙で諸郡巡行の旅に出て詠んだ九首の歌の中の第首である。 当時の国司の業務は地方民の勧農、 収税の督励のほか地方の神社などに参拝することが重要な任務となっていた。 当時の砺波郡には、 後に延喜式内社となった雄神神社や古刹、あるいは郡家があり、 その周辺にはすでに集治が発逹していたと考えられる。

そのころ庄川の主流であった雄神川はどこを流れていたのであろうか。 万葉集の歌枕としてあまりにも有名な雄神川であるが、残念ながら全巻四、 五百首中、 ここを詠んだ歌がただ一首とはさびしく、この歌を詠んだ場所を指定することはむずかしい。庄川は、砺波平野で幾多の分流を伴って谷口の庄川町辺から放射状に流れていた。  それらは高瀬川・野尻川・中村川・千保川・中田川などに分かれ、 そのうち水量の多い流れが本流であったわけである。一説には大昔、谷口から北西方に流れて、いまの小矢部市の東端付近で小矢部川に合流していたといわれる。しかし、庄川はその後次第に東方へ流路を変えていった。ここで問題になるのは、万葉植物といわれるあしつきである。現在あしつきの自生しているところは、高岡市中田地区の上麻生、北つづきの大門町西広上付近、いまは絶滅したが旧北般若地区の石代が最初の県の指定地であった。いずれも庄川中流で清水の湧出するところであった。すなわち、あしつきの現存地を証とするならば、万葉時代の雄神川とはつじつまがあわなくなってくる。記録によると、応永十三年(1406)六月の洪水で雄神川の流れが初めて庄川弁才天前(庄川町)から東方へ決し、 天正十三年(1575)十一月、飛越の大地震で、庄川の流路を決定的にしたという。応永十三年の大洪水は、天平時代から680年後のことである。このことから、庄川の扇状地の末端がちょうど中田ー  戸出を通る中田道に合致し、30m内外の等高線の付近から庄川の伏流水が湧き出して清水川の源となっており、これらの湧水地にあしつきの生脊は可能であり、  家持の見た情景の庄川は、現在より以西にそのころの本流があったのではないかとの説も生まれた。この越中産のあしつきは、当時県立砺波中学校御旅屋太作教論によってその植物学上における正体が解明され、大正八年、同教論と京都大学教授の小泉源一理学博士の共同研究によっ て「 葦附苔」と命名され、以後定説とされてきた。しかし近年になって富山大学和田徳一教授が『 越中萬葉植物考』で異説を唱え、学会の注目を浴びた。この説の中で、現在中田地区などで保存に努めているあしつきは、家持が詠んだ葦附と全く違うというもので、多くの著名な植物学者の賛意を得、今や定説にとってかわろうとしている。和田教授は次の四項にわたって疑点をあげている。

この歌は、「右件歌詞者、依春出挙、  巡行諸郡、当時当属目作 之」と左註の付けられた九首中の第一首で、家持は射水郡の国府を出て、砺波・婦負・新川の各郡を巡回して、いったん国府に帰った出直して能登四郡を巡行したのであるが、この巡行に要した日数は、 短く見積もっても十日以上かかると思われ。 この巡行の歌群は、天平二十年春一月二十九日の作と、 三月二十三日の作との中間に収められていることから、現行暦の三月中句から四月中ごろまでの期間に作られたものと考えねばならぬ。 しかるに今日のあしつきのりと呼ばれているものは、桜の花の咲く四月の中ごろにようやく米粒大となり、六月中句から七月にかけてが最盛期で、大きなものはまれに卵大となるという。したがって家持の歌の作られた 頃には、いわゆるあしつきのりの発育状態は、ようやく肉眼で見られるばかりで採取の時期ではない。原文には「葦附」の下に「水松之類」という割註がある。 水松は海苔の見るで『和名抄』に「水松、状如松而無葉、和名美流」とある。いわゆるあしつきのりは、ミルとは似ても似つかぬもので、その形状における相違点は皆無である。

強いていえば水中に成育して石に付着していることと、 食用になることが共通点として挙げられるにすぎなし。いまいうあしつきのりの発生地帯は中田町から西へ戸出町を連ねる一帯の地に限られて、清水と呼ばれる伏流水の湧き水と、これが流れる清水川と呼ばれる細い灌漑用水とに限られ、その線から八  ㎞も上流にあたる家持の渡河地点の付近にあしつきのりの発生の可能性がないようである。

明治天皇が十一年の北睦巡幸の際に天覧に供したあしつきにつして、当時、随行の国学者近藤芳樹は目録の解説を行った。それによると今のあしつきのりのように思われるが、  山口県で「川ミル」と呼ばれ「 いづこにもあるもの」で「葦の根などにまつはれつきたる」とあるを考えると、  天覧に供した「葦附」なるものが、 果たして現在のあしつきのりと呼んでいるものと同じものであったかが疑問である。 むしろ川モズクに近いように見える。この和田説の中で特に注目すべきことは、万葉のあしつき川モズクの類で、家持の渡河地点にあたる庄川辺にも発生の可能性は十分に考えられると言うことである。この説に意を強くし、庄川町理科センターやその他専門家に庄川町における分布状態をを調査してもらった。その結果、中田地内に発生するあしつきのりは発見されなかったが、川モズクの類は、雄神地区金剛寺下壇の庄川辺で発見された。これらのことから和田説に全面的な賛意を表しなければならない。

家持の巡行路

さて、家持が「雄神川くれなゐふ・・・・」を詠んだ天平20年(748)春の管内巡行路について、和田教授は次のように記している。

家持は射水郡の国府を出て、射水川から小矢部川の左岸を南に進み、古刹、安居寺の近くにあったと推定される砺波郡の郡家藪波の里に一泊し、 翌日はおそらく高瀬神社に参詣した後、雄神神社に近い圧川本流で徒渉したものと思われる。この歌ができたあと、砺波郡から山越えで婦負郡に出て、郡家で宿り鵜坂神社の近くで神通川を越えて「鵜坂川」徒渉の歌が生まれ、 神通川の右岸を下り、 その夜「婦負川(神通川)」で鵜川を見せられて歌を作り、翌日は「延槻 (早月)川」を渡って「 立山の雪」の歌を作り、 新川郡の郡家で出挙の仕事を終えていったん国府に帰った後、出直して能登半島の四郡を羽昨・能登・鳳至・珠洲の順に巡行したのであった。

むかしの砺波郡の地形・交通網・開墾の進み具合などから考えて、 前述の家持の巡行コー  スはおおむね理解される。砺波平野において庄川の本流・支流の流路が定まらなかった当時、 藤懸の渡し(庄川町金屋)の辺りは、  庄川の大河を徒渉する南砺地方唯一の地点であったと考えられる。このことは、とりもなおさず庄川町辺か南砺地方の交通の要衝となり、後述する雄神神社を中心に、奈良時代にはすでに一般住民が山龍や庄川辺に住みついていたことを示すものであろう。

出典:庄川町史

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