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草高と年貢

草高と年貢

村々の草高

高というのは、一定の土地の収益を定める根本の数量を見積もったもので、「禄高」とか単に「高」といわれていた。この禄高には古来種々の名称があって、貫高といった時代は高の数を何千買といい、俵高といった時代は何千俵と計算した。  また、 近世に至って石高で計算するようになると何千石と称した。加賀藩において草高免相の確立したのは寛永年間(1624年~)とされ、御印物に草高と記入されたのは慶安・承応の間(1648~54年)といわれている。草高に対する収益の見積もり(代積)は、加賀藩内でも 加賀国能美・石川・河北・江沼郡、 能登四郡とではそれぞれ違い、越中国は草高一石当りの歩数は二四〇歩と算定され、三六〇歩が一反であるから、ここから生ずる玄米収穫高は一石五斗高と計算された。  高を歩に直すときは、高に三六を掛け一五で割れば、高数を知ることができる。ところが村々の地味の良悪で一石高の斗代は一定でなく免相も異なってくる。そこで各村で上・中・下田のうちの中田をもって一石高の標準歩と定め、この中田を俗に親田ともいった。下田・下下田は歩を増し、上上田・上田は歩を減じて、一石高の斗代はその村一定の数量をもって「斗代何斗何升」というように計算された。故に加賀藩で定められた標準歩が、加・能は一石高二〇〇歩、越中は一石高二四〇歩とあるのは、その村の中田を指していうのである。しかし、以上のように定められていたのは村御印下付の 寛文十年(1670年)当時であるが、その後は新開地の免が上がって定免地となったり、手上免・手上高などと田地割ごとに中以下の田地は格上げされ、さらに、荒地を開墾して地味がよくなったり、畑直しなどしたりして変遷がはげしく、各村とも藩末ごろになると、高に結びつく歩の一定の率は通じなくなってきた。 「 高」の称には次のようなものがある。


極高 (きめだか)        検地(測量)によって田積を実測した結果、 何石と定めた高

分卦高(ぶんげだか) 古田のうち飛地、またはその問に河流れのあるとき、これを本村から分割してその村領としたもの

免違高(めんたがいだか)  分卦高の内、免の違ったもの

手上高 (手あげだか)      従来の村高以外に増加した草高、 手上高は百姓から上げてほしいと願い出るのがたてまえであるが、事実は十村などの強制によることが多かった

引高(ひきだか)  変池(災害)などのため、一村の地積が減少したとき、検地の結果認定した不足高

未進高(みしんだか)  村御印制定のとき寺院の寄進地を村高に編入しながら、貧寺のゆえ未進を許されたもので、 皆済状(年貢の領収書)に未進高として計算される

見捨高 (みすてだか)  新開地などが崩壊して復旧の見込みがないとき、その村の高から削除したもので、新開退転ともいう

縮高(しまりだか)       百姓の犯罪または逃走のため藩に没収された高、御仕法高ともいう

庄川町旧村および周辺村々の高の変遷を正保三年と寛文十年、 天保十二年についてみると、  周辺の村々との比較において、庄川町旧村の格付けが明瞭となり、その典亡も明らかとなる。

筏新村・五ケ新村は正保三年に古上野村へ入れられ、寛文十年、村御印下付のときに筏村・五ヶ村となって独立した。

隠尾村も右に同じく横住村に入れられたが、寛文十年には独立村として村御印を下付された。

西部金屋村・青島新村   西部とあるのは視在の西保金屋(高岡市) のことで、庄川は洪水のため潰地川崩れを生じ、その廃川地帯ほ次第に広がっていった。しかし一方、この廃川地が新開されて一村立ての村も誕生した。寛永十年(1633年)に庄川筋の川原を管理していた上野村(福野町)が、遠方のためこの川原の権利を返上して河原役を免除され、空地となっていた。承応四年(1655年)三月十六日、 西部金屋の鋳物師大工(大工はエ人の頭の息)少右衛門・藤兵衛の二人は、空地となっていたこの上野川原1,200歩を申請して一〇軒の新村を立て青島新村と称した。この青島新村は西保金屋と合併し、寛文十年の村御印では金屋村に合併された。現在の庄川辺りの金屋付近には金屋川原・井波川原・庄金剛寺川原・四ケ川原(四ケ村共同管理) ・十一ヶ川原などがあった。

金屋村・岩黒村は合併して一村を成し、村御印には金座岩黒村となっている。

庄村・金剛寺村も合併、 村御印に庄金剛寺村となっている。

示野新村・高儀新村は正保三年以後にできた村で、  村御印下付のときは新村として独立した。

水損所・庄川辺りの田畑で、庄川の洪水で潰地となった田畑をいい、復旧していない土地である。

庄川町旧村で、庄川筋にある村々は草高の増減がはなはだしい。 庄川の本流が数条に分流して砺波平野を横断、小矢部川に合流していた時代と、また分流していた庄川に堤防を築造して、支流であった東端の中田川へ向きを変えた後とでは、  次の村々の草高変遷にみられるように著しい差違がみられる。水勢で田地を削り取られた庄川右岸の山手の村と、流路が変わったことによってその廃川地が耕地に拡張された村とでは、大きな隔たりがみられる。松川除は寛文十年(1670年)に起工し正徳四年( 1714年)に完成した。この提防によって庄川本流が中田川に合流したため、左岸の青島村は、寛文の村御印に二九八石と記載されていたものが天保十四年(1841年)には730石と、約2.5倍に膨張した。また、高儀新村は御印面高五二九石であったものが、天保九年までに九〇〇石となり、約二倍になった。この二倍に膨張した村から天保十年(1839年)一〇四石の分封村、川除新村(福野町)が一村立てとして誕生した。また、同年さらに分封して四六石の高儀出村が一村立てとなった。この二村分封によって、本村の高儀新村は差し引き七五五石に減少したが、なおかつ村御印高よりニ二〇石余りの増加となっている。

一方庄川の本流が中田川に合流したために水勢を増し、平坦地が削り取られ、田畑の激減した村は庄金剛寺村と三谷村である。この現象は三谷村がとくに激しく、村御印高は1,340 石で庄川町旧村でトッブクラスであったものが、半減して六七六石となった。

また、 庄金剛時村は御印高六六七石であったか、  三回にわたる川崩引高で二七六石余が削り取られ、  残存高三九〇石と御印面高の半分に近い減高となっている。

以上のごとく川幅が拡大されたため、三谷村の川崩引高合計六六九石五斗九升六合、庄金剛寺村の引高二七六石七斗は庄川の川底に埋没したことになる。

村御印

村御印は慶安元年( 1648年)、  一村の高数やその高に対する上納米の税率、すなわち免を記し、併せて夫銀・上納口米のこと、その他、小物成銀の税額と税目などを記して、領内の村々ヘ一統に下げ渡されたものである。明暦二年(1656年)に下付されたものは、年貢の計量に新京枡の使用を命じたので、村御印の書換えを要するようになり、寛文十年(1656年)九月七日付をもって領内一統に新物成御印を下げ渡した。ところが庄川町に伝えられている物成に、慶長二年(1597年)九月朔日付の「 当村検地物成之事」という里山村・新村・とち上村・藤橋村四ヵ 村を検地(測量)したときのものがある。『砺波市史』 はこれと同年月日付の検地物成が砺波市太田の金子文書の内に伝えられていることを記している。 この物成には「 当在所御台所入御検地之事」と記されている。御台所入というのは藩主の直接知行のことで庄川町に伝えられているものとはいささか標題に相進が見られる。

この検地物成は庄川町隠尾南部家に伝えるものである。里山村は隠尾など現在の山方村々を指すが、新村はいずこを指すかつまびらかでばない。とち上村は砺波市栴檀山にある村で、 藤橋村は井波町字藤橋を指すものである。この時代は土地からの 収穫は石でなく俵で計羅されていた。一俵は 五斗入で あるから、これに俵の数量を掛けると石高が算出される。

小物成

小物成とは、村御印の物成につづいて取り立てられるので、小物成と名付けられたものである。古上野村御印には「同村小物成之事」として

一拾二匁      野    役   一 壱 匁    鮎川役 一 壱 匁    鱒    役

と記載されている。これも各村々によって税額と税目は異なるが、この御印面に記載の小物成は一定不動のもので、これを定小物成といった。定小物成は一村の責任において課せられるもので、村御印には「 右定小物成若指引於有之理り及へし」と明記されている。この記載は名目のみで、一且記載された物成銀は滅多に除外されることはなかった。

古上野村の前記定小物成に記載してある野役は、荒地で芝草も生じない場所で反別もなく、荒野原で他村との境界も不分明であり、後日境界論争の起こる場合を予想して役銀を収めさせたものをいう。また、  鮎漁についてはとくに鮎役としたが、鮭役・鯉鮒役などととくに区別せず、鮎川役として総括的に河川・漁具を対象に、年の豊凶にかかわらず一定の役銀を公納させた。

この    定不動の定小物成に対して、その年々によって移動する小物成を散小物成といった。また浮役ともいわれ、 豊凶・出来・退転(廃業)に応じて「十村又ハ取立人二吟味いたさせ可相極」(村御印)とあるようこの税は個人の商売を対象に課せられたもので、その人の訴えによって増減改廃することができた。

皆済状

皆済状についてはます金屋岩黒村のものを例示してみよう。村御印に記入された年貢を完納すると次のように別々に領収書が渡され、村肝煎はその領収書を上の方からつなぎ合わせ十村へ持参する。十村は見落しなく調べ継目ごとに検印し、最後に署名して改作奉行へ差し出す。奉行は「皆済見届」の裏書きをして署名押印する。この皆済状は村御印に対する領収証で、村々では村御印とともに大切に保管されていた。

享促十一年(1726年)六月十三日御算用場奉行は年寄列座の訓戒を諸郡十村へ布した。その中に、百姓の年貢渋滞に対し「皆済ハ不仕物之様二相心得、全ク御法ヲ取先、年来御恩沢ヲ忘却仕候形沙汰之限」と十村の怠慢をきめつけたが、幸いその年は豊作の見込みが 立ったので、改作奉行は八月諸郡十村あてに十一月晦日切りにきっと皆済させ、十二月十五日切りに皆済状印形を取り終わるよう努力せよ」「成・不成は御領国中三一人の御扶持人十村、五一人の平十村の心得次第」と厳罰を発している。したがって皆済に努力すると褒美が与えられ、延享年闇(1744年~)には次のような品々が与えられた。

御領一番皆済         例年   銀五枚紬二端                        御扶持人              例年 銀三枚宛

御郡一番皆済         例年   銀三枚紬二端       半途勤候者   銀二枚

七ヶ年続大組皆済            小判三両紬三端                    新開杯支配仕者             紬二端宛

九ヶ年続小組     小判三両紬二端      相並銀三枚宛
(以下略)

また、弘化三年( 1846年~) におげる砺波郡関係の一番皆済の褒美は次のようである。

白銀五枚代    砺波郡若林組裁許   内島村       佐次右衛門

白銀二枚宛代

一、三百四十四匁砺波郡五ヶ山西組等裁許  和泉村  彦九郎等四人

一、二拾端中紬    砺波郡若林組裁許     内島村  佐次右衛門等十人

右十村の中には庄川町旧村関係の山見組・庄下組・般若組が含まれ てい る。この皆済状を見ると 前述したように藩の給人とその知行高を 知る ことが でき る。

以上のように一村完納する ことができればこれに越したことはないが、中に一人でも年貢米に不足を 生じると、不足米の生じた百姓はまず借金を し、それで米を買って自分の責任を全う しようとし た。
天保七年( 1863年)の大不作の年に三谷村半右衛門は、庄金剛寺村仁十郎に丁銭拾貫文の借金をしてその金で米を買い年貢を完納してい る。

次に金を借りる手だてがなくなると、物を売るようになる。手放しやすいのは山であった。享保十六年(1731年)青島村長右衛門は六人共同で持っていた草山の一人分を売って年貢を完納している。草山は草しか生えぬ山という意味ではない。草を刈って田の肥料とする山である。草山の大切なことは北市騒動にも見ることができる。それは、田がやせて収穫が少なく、農民は定納米に事欠いていら立っているとき、城端の米屋が縄ヶ池へたたりをして雨を降らせ、不作を招来させて米価のつり上げを図ったし、  北市村の農民が主謀して城端の米屋の打ち壊しを行ったことがある   主謀者は処刑されたが、北市村へは一村共有の草山として院瀬見山(井波町)が与えられた。このように、草山は田を肥えさせるためには大切な山であった。長右衛門はその大切な草山を売ってまでも不足分の年貢を完納したのである。

この長右衛門などは、六人共同の草山のうら自分の持ち分を、先に三分五厘あて示野新村与四兵衛と与五兵衛に売り渡し、今又残り三分を庄金剛寺村の才兵衛に売り渡して年貢の皆済につとめたのである。  こうして売る物のある間はそれを切売りして年貢不足のたしにすることもできたが、売る物のない場合や無くなった場合は、妻子を奉公に出して給銀を前借りし、それで不足米を買って皆済した。これ以上になると高を「 切売」しなければならない。

蔵入れ

皆済はその名のように、その村全部が完納しなければ皆済とはいわないので、皆済は一村の責任において成されたものである。しかし、 これを一時に御収納蔵(御蔵)並びに給人蔵(町蔵)へ積み入れると混乱を来すので、時期的に蔵入れを調節した。こうした配慮は百姓の労力を調節し、金で年貢を納める村々をして稼ぐ時日の余裕と金策の便を与えること、土地不便の村々百姓に運搬上、時の余裕を与えること、藩の御蔵一ばいに積み入れると米の俵装を傷つけ米質を悪くすること、春の貸付米引替えに便であることなどの事由で蔵入れが調節されていた。このことを「 歩入り」というのである。歩人りの時期については変遥があって、 寛永十七年( 1640年)、 承応三年( 1654年)にそれぞれ改訂されたが、元禄十六年(1703年)の歩入りの改訂を見ると。

八月十五日迄に 二厘五毛(2.5%)

八月三十一日迄に 二厘五毛(2.5%)

九月十五日迄に 三厘五毛(3.5%)

九月三十日迄に 三厘五毛(3.5%)

十月十五日迄に 二歩(20%)

十月三十一日迄に 二歩(20%)

以上を月別に石に直すと、草高一石に対し、八月に五石、九月に九石、十月に四〇石、十一月に三〇石、 十二月に一八石を収めて皆済となった。年頁米は定められた蔵へ搬入しなければならず、藩へ収まる年貢米は藩の倉庫、給人の年貨米は町人の管理する町蔵へ収めた。井波町には御蔵町に藩倉(御倉)があり、高瀬屋与右衛門が管理していた町蔵は、井波町松島にあった。宝暦(1751年~)以前は現在の瑞泉寺太子堂敷地にあったこともある。

示野出村は津沢へ蔵人れし、 高野新・庄新・五ヶ村などは近距離の井波蔵へ人れず福野蔵へ入れたのは、二万石用水から分水している岩武用水は昔から舟運が開けていて、この用水の舟運の便を利用するためである。井波御蔵米を大坂へ搬出するにも、岩武用水を川下げして津沢蔵に集荷、津沢から小矢部川を伏木港に川下げし、伏木で大船に積み替えて大坂へ輸送された。

年貢米・給人米を納所するには、新京枡で計り、藁俵で俵装しなけばならなかった。俵へ詰める量枡は古来幾度も変遷を経ており、加越能三州でも往古量器を使用していたであろうが、その沿革は知るよしもない。『扶桑略記 一代要記』にはには舒明天皇十二年(640年)十月初めて斗升斤両を定められた、 とある。 その後一条天皇の長保年間(999年~)に長保の量があり、また、後三条天皇の御代(1068年~)には宜旨枡の仰せ出しがあり、この宜旨枡は戦国時代まで通用した。
加賀藩では年貢米を米俵に詰める量も一定していなかった。天正十五年(1587年)までは三斗俵であったが、文禄三年(1594年)豊臣秀吉が新京枡に改むべしと触れを出したことから考えると、五斗俵になったのは天正十六年以後のことであろう。事実五斗俵とすると胴張枡以外の枡で、京枡に近い枡であったろう。慶長十年(1605年)ごろには五斗二升俵と『御定書』「高免の事の条」にあるが、二升は慶長九年(1604年)口米のことが定められているので、五斗二升は口米を同一俵に入れたものであろう。元和元年(1615年)十一月七日再び五斗俵として「廻米」された。 京坂地方へ廻す米は京枡五斗俵と定められたので、以後の収納には五斗俵の必要が起こってきたのである。

年貢米を俵に詰め御蔵へ搬出するには、実量が入っているかどうか、俵を鬮(くじ)で決め検査をする。この検査することを「枡廻し」といい、鬮で俵をきめることを「鬮俵」といった。「枡廻し」の折に欠米があった場合は容赦なく代銭をもって上納させられたが、六月枡廻しの場合は一升まで容赦、七月は一升五合まで、八、九月は弐升、十月の古米になれば八升まで容赦された。

百姓が新米を収穫しても、 年貢を皆済(一村)するまでは売り出すことを厳禁されていた。しかし、百姓は夫銀など高懸り物や屎物代銀などを支払うには、新米を売らなければ金の用意かできなかった。その場合十村から「指紙」(説明書)を申し受けて、それを添えて売ることは許されていた。つまり百姓から指紙を願い出ると、十村はその者が皆済に差し支えないことを確かめて後指紙を渡す。また、 町方米商人も、百姓の皆済期までは指紙の添えてない新米を買い入れることは厳禁されていた。したがって皆済期には街道のロ々に番所を設けて新米の移動を改めた。改役は七月に申し渡され、平十村以下分役にいたるまで兼役で、一カ所二人あて番所に詰めていた。砺波郡の番所の所在は次の一七ヵ 所であった。

城端・福光・井波・津沢・鴨島・杉木新町・埴生・戸出・中田・福岡・権正寺・立野・和田新町・三日市・佐賀野・今石動・福岡

百姓が年貢米を藩倉へ、給人知米を町蔵へ搬入すると、藩倉の付近に人夫のような者がたかっていて、  車の後押しやその他なにかと世話をやいた。これは運搬する百姓か頼むと頼まざるとにかかわらず世話をやき、手数料を取ることが慣習とされていた。その世話をやく者を「 蔵雀 」といった。  世話の手数料は受け取るというより、強奪に近いものであった。これは百姓の迷惑がはなはだしいため藩政中期ごら禁止されたが、長年の慣習はなかなか絶えず、明治四年に再禁止(『井波町御用留』)され、以後その弊害はなくなった。

鍬役米・郡打銀・万蔵

鍬役米は元和二年(1616年)鍬一丁につき 米二升ずつ徴することを郡奉行へ申し渡したことに起源するものであるが、その後寛永三年(1626年)の人口調査の折、鍬一丁につき米二升あて出させ、これを十村・肝煎の給米としたし鍬米を十村給米といったのはその故である。その徴収方法は男子一五才から六〇才までの者一人に対し二升あて徴することとされた。 一五才になれば元服して人前の働き手とされ、「 人別志らべ帳」の統計にも一五才より六〇才までの者を生産年齢人口として男女に分けて集計されている。しかし、不具者・病身者・道心・庄頭・舞々・唐内(藤内)・穢多は鍬米を免除されていた。  鍬米の徴収は十四カ月の分割となっていたが、 十一月・十二月は二カ月あての割りで集められ、このことは元禄十六年( 1703年)に申し渡された。   文政四年(1838年)御仕法改革によっ て十村が廃止されると、惣年寄や年寄並の役料米は別に支給されていたので、鍬役米は十村給米の役を失って藩へ徴収され、藩の会計で取り扱うこととなった。天保九年(1838年)鍬役米取り立方の注意を諸郡の惣年寄・年寄並に向かって発せられた。この年は前記のように十村や代官の廃止されていた時代で、郡奉行が惣年寄や年寄並を奨励しても、以前に十村が直接鍬役米を取り立てた時のように厳しくはなかった。ことに天保八、 九年は凶作で切高も多く出たが、村内で取高する者も少なく、  村肝煎が苦労して他村で掛作人を探して取高させるという有様であったので、以前ほど村の監督が行き届かず、ついに天保十年(1839年)十村役が復活された。そして鍬役米は 十村・御扶持人給米として徴収し、これが明治三年までつづいて廃止となった。

河川改修・橋梁掛替・道路修理などで、その費用を一村あるいは数村の負担でできかねる工事は、郡負担または一部の補助で行うことは今の行政も同一であり、にれらの費用は村単位に十村が見計らって見積もりを立て、改作奉行の指図によって諸普請をした。これらの費用に充てられたのが郡打銀でその名称は古くからあり、元禄八年(1695年)郡打銀の内から用水打銀を分離独立させた。また、従来加越能三州 一円総括的に扱われていたのを「 一郡切り」の打銀として郡単位に独立させ、草高一〇〇石に対し歩銀何程と定めて割付するものであった。その用途は治水・耕作道路普請・橋梁普請・御蔵修理・航路燈明(灯台)などの諸費に充てられた。徴収方法は、文政四年( 1821年)十村制廃止以前は十村が取り立て役銀所へ上納していたが、文政四年以後は御扶持人見図りで高一〇〇石に大体八〇〇~九〇〇匁位を取り立てたいと願い出ると、改作奉行はそれに奥書きして藩の御算用場へ達し、その上御用場から郡奉行へ対し郡打銀徴収方を命ずる仕組みとなっていた。  天保十年( 1839年)十村復活後も この徴収方法がとられ、明治の廃藩までつづいた。明治八年七月八日、夫米・夫銀・打銀、また各地にある一歩米、堤防費用米・大川定格夫銀・郡中割金郷役米・土木高割銀・士工木役米・川役米・夫役米・闕米・堤米・竈役米などはすべて廃止された。

百姓の公の支出は草高に対する年貢米と村御印記載の口米・夫銀・小物成、その他郡打銀などを負担しなければならず、その上さらに郡や組・村の雑費用などがあった。この雑費用は「 万雑」といわれ、  郡や組・村における申し合わせ的業を行っにとき、  その被用を割付するものである。そのうち、最も重要な万雑は「 村万雑」で割付額も多額に上った。これは村内の一般費用であるから、その割付方法は高と面に割られた。 郡万雑は一郡単位の土木・用水などの費用を、組万雑は十村組一円を単位とした土木・用水などの費用を割付するもので、いずれも救済的な意味をもつものであった。村万雑の取り立て方について、砺波郡御扶持人等五人連名で改作奉行へ伺いを出している。

田地割

加越能三カ国の土地制度は、古くは地頭や領主の意見でまちまちであったと考えられるが前田氏が領主となって入国してから新開に対する土地制度をしいた。また改作法制定以前の寛永(1624年~) のころ田地割の制度を公布した。村人には村の土地支配に対し平等の権利を与え、一村共同責任の納税義務を負わせた。明暦・万治(1655~60年)のころからは、他村の土地でも開き次第その開拓主の村高としていわゆる先取権を許し、他村の百姓に開拓された「うつけ村」の百姓に鞭撻を加える奨励制度をとった。  こうして百姓各自に自村の高の多いことを誇らせた。このように加賀藩では田地割制度により、百姓の耕作とその収穫高を平均するようにした。  さらに田畑の新開墾を奨励し、古田に比べて新開田に開拓の利潤を多くする方法を制定し、その 上、一旦耕地とした田畑で天災などによって荒廃した土地は「変地起返」の制度を設け、年限を定めて村の責任でこれを復活させた。往古は一村百姓の持高数は大体平均しており、一村平等の権利が与えられていた。したがって百姓が手元不如意となっても、自分勝手に処分することは許されなかった。これは当時の土地制度の関係上、村の問題として処置するよう制裁されたからである。そこで百姓が持高を他に譲ろうとする場合はなるべく自村の百姓に譲り、高を受ける者すなわち取高する者はその代銀を礼米として支払った。しかし万一、村方百姓中に資力がなく取高できない場合は、他村へ掛作高として鍍ることができたが、このことは村方の最も不名誉とされた。掛作百姓の取高については、高の作配など一切はその切高した村肝煎が関与し、年貢の収納に間違いのないように努めた。こうして村々百姓に土地の荒廃を防がせたのである。その上、百姓をして精神上自分の村高が減少するのは、自分一人の不手前を表示するかのような感をいだかせることで、土地の保護と尊重に対する強い観念を養わせて土地制度の根底を固めたのである。田地割というのは一つに地割、または碁盤割ともいわれた。これば藩主の土地を一村の百姓が平等の権利のもとに耕作するという精神から発したもので一村の地味に甲乙ができ、  百姓の持高当たりに不同を生じると百姓の作配地を平均に割り直す、このことを田地割といい、寛永十九年(1642年)ごろから起こったと伝えられている。田地割の年限は定まっていないが、二〇年ごとに行われるのが常とされていた。二〇カ年たっても田地割をしない村は、「不埓之至」として改作奉行から割替えを督促された。しかし本来、田地割は強制的に申し付けられるものではなく、百姓が自発的に納得の上で願い立てて実施されたものである。庄川町旧村の旧地割(碁盤割)納得連判状や田地割定書が相当数伝えられているが、示野出村に伝えられている田地割定書の年号を調ぺると

享和三年(1803年)   文政六年(1823年) 天保六年(1835年)   文久三年(1863年)

となっており、享和以前のものは伝わらないが、  大体二〇年前後ごとに行っていたことが知られる。

田地割を行うには、 長さ二間六寸(約3.82m)の竹の間竿、長さ 七寸七分(23cm)・幅 一寸九分 余(約6cm )・厚さ一寸八分余(約5cm)の間を引くときの䦰箱、長さ六寸(18cm)・径一分(0.3cm)の䦰金、 長さ 二尺ーニ寸余(70cm)二五桁~二七桁の村の算盤などの道具が用いられた。田地割を行うには以上の道具の外、縄張人・分地人・竿取人がいた。縄張人は耕地の丈量算勘をした者で、測量法の技術に長じた者を選び、公正に行うという誓詞を差し出させて採用した。分地人は田地割算者と称し、縄張人の手伝いをした者である。竿取人は百姓の中から選ばれ、縄張人の下について間竿をとった者のことである。

新開

新開というのは、未開地・山崩・川崩地を開墾することをいい、新開が 行われるには、上司の勧めによる場合と、百姓方からの願い出による場合とがあ る。  また、 田を開くための田方新開と、畠を開くための畠方新開とがある。

百姓が新開をするに際しては、開拓しようとする土地の石高歩数を見計らい、あらかじめ郡の新田才許に願い出、藩の改作奉行の許可を受ける必要があった。改作奉行は現地を検分した上で、許可の沙汰書を下付する。 この沙汰書を「 下し仮証文」といい、 改作奉行の連名をもってする新開開始の許可書である。新開が所定の年限内に完了したときには本証文を下付して、先の仮証文と取り替えることとした。新聞の名目にもその内容によって名称がつけられた。作り高をあらかじめ新開高何程と見積もっ     って出願許可を得たものは「請高新開」といわれ、図免をもって納租する定めで、内検地を経ない以前はすべてこの名目で呼ばれた。天保(1830年~)以前は請高・御仕立開・仕法新開・図免・一免下なとの六等かあったが、天保の御仕法以後改められ、請高・御仕立開・仕法新開を打ち込んで請高新開と称した。内検地を経て草品が決定されると、「 極高新開」の名目で呼ばれた。すべて年限満ちて内検地が済めばこの名目で呼ばれ、図免は天保の御仕法以後「極高新開」と改められた。この極高新聞が年月を経て追々地味も豊かになると、村免一免下りの定免となり、あるいは定免で年々の毛頭で引免などのこともあり、 いずれも免相の定まった分は「 定免新開」といわれた。

古くから開拓の容易な地はすべて開拓し尽くし、難所は年限をきめないで開かせてきたが、年限がきまらないのでは勢子(農事の督励)も不行届となり、文化十二年(1815年)詮議の上、作業困難な新開地は一〇年以内に新開させ、もしその期間内に終了せねば地元(開拓地)を取り上げ、他の者に命じて開かせることを仕法をもって取りきめた。 この新開の名目を「 仕法新開」といったが、天保中この仕法新開を請高新開の中に加えた。新開地は当初から藩有とし、開拓費を改作所から支出するもので、御納所方も請高新開とかわることがなかった。古くは新川郡舟見野・砺波郡山田野開きには御納戸金が渡されたと伝えられている。「 畠方新開」はまず年と歩数を 何程として願い出、聞き届け方にはかわりないが、免図りは畠物代に直し何程と見計り、さらに米に直して免に仕出して計る。後年には有歩数をもって高何石程と願い出ることとなった。

新聞した土地が長年荒地となったため、見捨高にしようと願い出ても容易に許されなかった。地元が存在する以上復旧し得ないとは限らないからである。ただし山崩れのため断崖となったり、波浪に洗われて海底に没したようなときは、改作奉行が踏査して許可した。このことを「 新開退転」といっ た。

最初に記したように加賀藩における新開と、それらの収納関係について知らなければならない。実際には時とところによって多少の相違があって、常に一定不変の原則によることは困難であるが、 新開では初年と二年目の収穫全量を作人の作徳とし、内検地極高を定めた上、三年四年目は図免の半額を、そして五年目から図免の全額を藩に収めさせるのが原則であったようである。

新開は改作奉行の許可を得て行うのが定法とされているが、荒れ地を開いて届け出ずにひそかに耕作しているのを「 隠開」といい、そういう田畠を「 隠田」「 隠畠」といわれた。 もちろんひそかに開拓し無年貢でその収穫の全品を私得しようとする人の情は昔も今も変わりないが、例えば前掲金屋岩黒村皆済状に連記された給人五人のうち、ある一人が死亡した場合、その死亡者の給人知を返還するに際し、  その一部分の地を隠し偽って返迎せずに手作りしたり、あるいは検地の際自村の隣接の一部を他村領と偽って検地をのがれ、他村領を検地する際またある一部の土地を他領なりと言い張って、検地役人の土地不案内に乗じてその土地を横着して隠し、無年貢で作得したり、また畦畔を年々少しずつ切り開き二歩三歩あて耕地面稲を広げ、  その開き増した田畑に対する年貢を上納せず作配をつづける。 ( これは一種の隠開のようであるが、前述したように手上高となるべき性質のものである。) 加賀藩はこれらの隠田を整理しようと、 慶安元年(1648年)から万治年間(~1660年)にかけて領内一統に隠田の検地を行ったが、比較的その効が上がらなかった。それ以来前述の田地割( 碁盤割)制度と相まって自然に隠田の消滅を計ったり、また抜打ち検査を行ってその村領の増歩を増石高として、そこに大がかりな隠田があってもそれをとがめず、村高の増加分を百姓から願い出させ手上高として取り扱い、自然のうちに隠田をなくしようと努めた。この方法は加賀藩田地割制度の誇りとするところであった。

往時における庄川町の開拓は、庄川の自然流路時代と、「松川除堤防」によって本流が山沿いに流れるようになった今日とでは、各村の開拓に大きな差異が見られる。 手上高増加のトップに位する村は青島で、この村は庄川本流が変わった後、松川除堤防外側の廃川地を開き、寛文十年村御印以降十二回にわたって手上高を申請しているが、その開墾高の合計は三七九石に逹している。この開拓地に 開拓者甚三郎(斉藤)外二人をまつった無格社八幡宮が鎖座 している。 位置は青島上村三五一番地で、もう一カ所は三三四九番地に無格社稲荷社がまつられている。位置は松川除を少し下った石灰窯の連立していた地点にあり、文化年問の開拓者次右衛門(石黒)をまつってある。前者の開拓を「甚三郎開き」と通称し、祭神に応神天皇、 後者は「次右衛門開き 」と呼んで祭神に食保神がまつられている。

青島村に次ぐ開拓村は高儀新村で、村御印高五二九石に対し新開手上高、畑直し高を含むと七五五石七斗に達している。天保十年この新開高から川除新村と高儀出村が分卦して一村立てとなり、二村合わせて一五〇石六斗が差し引かれたことを前述したが、なお、五九五石の新開手上高が残っている。この村の新開は全く松川除築堤の恩恵的所産であって、 千保川沿岸の高儀新村はその廃川地を開墾したものである。近くの山頂から砺波平野を眺望すると、散居村の森が点々と散在する中に、庄川の西側を北に向かって森と森との間をまっすぐに走っている一条の幅広い地帯、それが千保川廃川地開拓の跡で、野々とした稲の葉先が風に波をただよわせている。これに反し、松川除が築堤されたことによって、庄川本流に田畑を削りとられ川崩れとなった庄金剛寺村は二七六石七斗、 三谷村が六六七石五斗の引高となっていることは前述したが、三谷村はこの川崩荒地を聞いて六三石を新開復活し、庄川左岸字西島地内に新開守護神として神明宮をまつっている。また庄金剛寺村も川崩地一八〇石を新開復活し、文政三年(1820年)に庄川右岸字下壇に神明宮を勧請し、さらに天保二年(1831年 )に左岸用水新又口付近に一八〇石を新開し同じく神明宮を勧請して、一カ村二カ所に新開守護神をまつっている。五ヶ村地内にも、与五郎なる者が開拓して 一八石の 分卦高をもち 文化十三年( 1816年)稲荷明神を勧請し守護神としている。これら開拓の守護神をまつってある宮を俗称して開宮といっている。

出典:庄川町史

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