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庄川町の始まり

庄川町の始まり

6月 21, 2022 歴史 by

縄文のふるさと

生活の舞台

わが国が、 まだ火山活動の激しかった洪積世のころには、  氷河の影想を幾度かうけ、 気候や動物の種類も現在とはかなり違っていた。この時代に、人々が生活していたと考えられる遺跡は、ロー  ムとよばれる赤土の中に現在も埋もれ、 さらに黒色士の下に堆積している。 黒色土はその後の沖積世にできた土壌で、そこには縄文時代から現代までの遺跡が含まれている。縄文時代は、  日本において最初に土器が使われるようになった時代で、その土器は縄文土器と名づけられている。 この縄文式の土器が現れる以前、 人類は石器をつくることを知っては い たが、土器をつくることは知らなかった。  そのような時代は先土器時代と呼ばれ、 そのころすでに人々の生活が始まっていたことが、 昭和二十四年の群馬県岩宿遺跡の発見以来明らかになっている。

富山県下にも、この先土器時代の石器類が出土しており、 その遺跡は約三十ヵ所にのぼっている。 県下におけるこれらの造跡は、おおむね古い時期に形成された河岸段丘の末端や、 山麓丘陵の先端近くにあり、  いずれも川に面するか、 あるいは豊富な湧水地が近くにある場合が多い。ことに分布調査の比較的進んでいる県西部に造跡がかたよっており、 今まで発見された遺跡のほとんどが、 洪梢世中期ごろに形成された一番高い河岸段丘や、 また河岸段丘の残されていない場所でも、 それ以前の砕屑物層や岩石基盤のある台地面に限られている。 しかしながら、 現在のところ庄川町の段丘面や沖積面には発見されていない。  したがって、 原始時代にいまの庄川町地内に人々が生活を営むようになるまでには、その他の地城と比較してかなりの時間的な空白があったものといわねばならない。砺波平野の東南端、 庄川の扇頂部において、 歴史はいつごろ、 どのようにして始まったのであろうか。

庄川町の南には、 高清水山地と呼ばれる1,000m 前後の山が立ちはだかっている。 高消水山地の北端には八乙女山があり、ここから北東へ行くにしたがい急に低くなって庄川の谷となる。五ケ山地方の狭い谷間を流れ下ってきた庄川は、  これらの山峡を抜けると急に開放されてみごとな扇状地を形づくっている。 庄川町はこの扇状地の要にあたる。 悠久の昔から、 庄川は荘・白        五ヶ 山の河谷を削っては砂礫を送り出し扇状地をつくりつづけてきた。  この扇状地が断続的な陥起で盛り上がり、 また、 庄川の変らぬ砂礫の送り出し作用とともに、 盛り上がった    扇状地を削って新しい扇状地をつくってきた。  このような運動が何度か繰り返され、 庄川の左岸には、 現在三つの段丘崖を見ることができる。  上の段丘ほど古く形成されたもので砂礫堆積層の上に赤土が位置しているが、 また、 最も低い示野から野尻野につづく段丘には赤土が見られない。これは、 より新しい地形であることを示している。  より新しい地形部分、ここが最初に庄川人の生活した舞台であり、この高さ3~5mの段丘面に「松原造跡」が広がっている。  原始庄川人の生活の舞台、 集落形成の時期は、地形の成り立ちと密接なかかわりがあり、 縄文時代に人々が松原地内に生活を営んだころは、すでに、今日見られるような地形がほぼできあがっていたものといえよう。ただ、 畑や水田として切り開かれた現今とは違った景観を示し、また、 庄川も今のようにダムや堤防によって統制されていなかったので、 定まった流路をとることなく、 時には松原の崖下をも洗っていたに達いない。

文化と生活

縄文時代の文化は、 紀元前一万年ごろから始まり、 その後かなりの変化があった。 しかし、 それは弓矢をもって狩猟をし、 銛・釣針をもって漁撈にいそしみ、 また水辺の住居では貝を捕食して貝塚を残し、あわせて食用植物を採る生活文化であり、 採集経済の段階を出ることがなかったこの点で一貫した文化を保ち得たものといえる。  住居の規模や形状に多少の変遷はあったが、 竪穴住居を主とし、時には平地住居も用いた。その最も古い時期には、山間の川の近くにある岩陰や洞窟の中で生活を営んでいた。そして、死者は住居の近くに埋葬された。主要な利器は石器であったが、 その発逹の初期からさまざまな製作技術を経験した。一方、狩猟によって得た骨角をもっ て、漁具を作ることも盛んに行われた。また、この時代の土器については、その研究がとくに進んでおり、文化を編年的に細分する直要な手がかりとなっている。この時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六つの時期に大別され、さらに、各時期は数型式の土器群で細分されている。時期により、  また地域によってかなりの変化はあるが、その全期間を通じて、縄文の手法は断続しながらも消失しなかった。長くつづいた縄文文化も終末を迎える時期がやってきた。それは、九州方面からの稲作栽培、金属の精錬、機織りなど高度の技術を備えた弥生式文化の普及である。 この時代は、社会的には部落的な集まりが中心であった縄文時代とは違い、特定地城を単位に小国家が群立し、次いで古墳時代における全国統一まで激動を重ねる。

松原遺跡

遺跡の発掘まで

庄川町の縄文時代追跡は、早くから考古学界の一部に知られていたものの、その調杏・研究は案外に遅れ、 地元民による組縁的・体系的な取り組みは皆無に等しかった。  そしてごく最近に至るまでポ

ンポソ野造跡・金屋遺跡・青島追跡・松原遺跡などその呼称も一定されることなく混同し、 実際にはその所在および分布範囲さえも調査・確認されていない状態にあっ た。  なかでもポンポン野遺跡については金屋の岩黒・京坂・中道中屋敷    清水・南部野地域とともに、 以前多くの土器・石器などの出土をみたと伝えられている。しかし、昭和初期の電源開発に伴う金屋耕地整理事業により、 金屋大反保一帯の開墾事業が著しく進捗した結果、そのほとんどが水田化し、現在では、遣物の発見はおろか、昔のよすがをしのぶなにものもない状態となっている。また、庄川右岸でも、庄の広谷地内および三谷地内の谷内川の沿岸に、縄文期の造物が出土したと伝えている。さて松原追跡は隣接地区の造跡と同様、  旧庄川の段丘上に成立した遺跡で、現在新用水の南に広がる段丘上に細長く延びる地域一帯である。この遺跡については、大正の初めに行われた砺波鉄道(加越線)敷設の際に数多くの出土品を見、注目された。

大正二年、 砺波鉄追線路工事二着手セル際、坪野松原ノ桑園ヲ開紐シテ其土砂ヲ線路二巡ペリ、 而シテ斯ル桑湖ヲ発掘スルヤ、石器時代ノ逍跡クル土器ノ類、 地中ョリ発見セラレクリ(青島村郷土史)

なお、  大正十五年刊行の『 越中石器時代民族遺跡遺物』において、早川荘作が次のように紹介した以外には、  この遺跡に関する記録はごく最近まで皆無の状態に近かった。

東砺波郡東山見村金屋

砺波鉄道の終点青島駅より二、 三町、 井波町の北約一里、俗にボンポン野と称する場所で、近く庄川の消流に接して居る。

発見遺物(摘要)

大石棒 異色片麻岩製で頭部のみであるが一見鍔の頭部に似て、両側面に文様のあるもの

疑問の石器    人類学雑誌第三十三巻第八号にある 同郡平村田向発見の石器の破片の如く思はるるが一見櫛形、内面は刃部で脊部ほ四、五分の厚味で側面に線状の模様のあるもの

石斧    打・磨共普通のもの                   

土器    発見少なし

戦後、 一部の郷土史家・美術愛好者、あるいは好事家などによって無計画な発掘・採集が行われ、  資重な埋蔵文化財が、なんら調査記録の公開されることなく雲散する状態となっていた。

なお、  完全に近いまでに復元され たいくつかの土器のうち、秘蔵されたままになっていたものが、近年富山県史などによって紹介されている。しかし、この遺跡に当初から存在したと推定される遺物の総量に比ベ、現存するものの数は極めて少ないといわねばならない。しかも土地利用の急激な進展に伴う道路の新設や拡張、あるいは住宅地の造成、水路の改修などによりいまもって荒廃・破壊の危機にあるのが現状と言える。昭和四十三年夏、  庄川町文化財保護の気連の高まりと相まって、町美術協会・庄川中学校ならびに町内有識者らが、富山考古学会理事岡崎卯一の指導のもとに、初めて本格的、かつ組織化された発掘調査に着手した。つづいて四十八年七月、富山県教育委員会と庄川町教育委員会によって、同遺跡の試掘調査が実施され、徐々にではあるが、遺跡の概要が解明されてきた。

範囲と分布

庄川町示野神宮前の国道156線から、 庄川 郵便局へ 抜ける 町道二五号線を横切る新用水に沿った河岸段丘上、すなわち現在の松原墓地あたり一帯がこの遺跡の包含地として確認されている。この地帯をさらに三つに分けて考えることができる。第一地点は墓地を中心にした地域であり、東西60m南北100m
ほどの広さがある。こは従前から土器が豊富に採集されたところで、四十三年夏の発掘調査地があり、 その調査時に住居址が発見されたところでもある。またこの西方もこの地点に含まれ、いま個人所有となっている大多数の土器が出土した地点である。  なお、北西方に一段低く表土の削り とられたところがある。これは大正の初め、  加越線敷設の際の採土地で、  この付近からも多数の出土品を見ている。第二地点は、 墓地西側の付近である。  昭和四十年ごろ水田として低くされたところであるがこのあたりの断面にも土器片が含まれ多く出土している。しかし、 遺跡は一部が残るだけと推測される。第三地点は、低地南側の町道二五号線と三九号線の間で、住宅の建設がかなり進んでいるとこらである。住宅建設の折に多量の遺物が出土しており、約100m四方の広さの地点である。

昭和四十八年七月、県と町の両教育委員会の試掘結果が県教委文化課から発表され、当遺跡に関する今後の方策を含む前述三地点についての報告があっ た。 概要は次のとおりであ る。

第一地点    この地域は、 良好な包含層の残っていることから遺構の存在も確実であり、また過去に貴重な資料が発見されているなど、本遺跡の中心地点と判断される。本遺跡保存のため、この地域での各種開発行為を差し控え、公有地化などにより遺跡保存のための措置をとるものとする。なお、将来は学術調査を行い、 歴史公園などとして復元整備をなし、保存することが望ましい。所属時代は縄文時代中期中業と推定される。

第二地点    今回の調森では包含層や遺物が発見されず、おそらく遺跡の中心地点は消滅したと思われる。現在の畑地が地形替えされる時には調査を行う必要がある。以前に採集した遺物などから、 縄文時代中期前葉のものと推定される。

第三地点 とくに個人住宅などの進出が激しく、遺跡地は既に虫食い状態になっている。ついては、 急に発掘調査を実施し、追跡の内容を明確にする必要がある。 縄文時代中期中薬と椎定される。

遺跡の時代的位置づけ

縄文時代中期は、遺物の面での変化だけでなく、 遺跡の数も縄文時代全期を通じて最も多い時期であ り、規模も大きくなってい る。さらには、河岸段丘を占居し、大きな集落がつくられ、平野部低地へも生活圏が広げられていっ た。しかも、それは一様のものではなく、長い時間の流れに沿って動きがあったと思われる。

朝日貝塚( 氷見)の主体や大境洞窟( 氷見)の始まりもこの中期であ り、他に愛本新(宇奈月)・天神山・大光寺・石垣・(以上魚津)・牛滑(婦中)・  北代(富山) ・ 串田新(大門)・小竹薮( 高岡)追跡など、  県内にも著名な遺跡が多い。  この中期の土器は豪壮で雄大なものが多い。  文様は半裁竹管も太くなり、太い粘土の帯を貼りつけて文様にアクセントをつけたり口縁部に大きな突帯を配置したりして前期とはかなり違ってくる。ことにこの期の中葉には半隆起線文を器面全体に曲線で展開し、 繁雑なまでに飾りつけている。県内では現在、この中葉が天神山式と牛滑式の二型式に設定されており、 松原遺跡の主体をなすものは牛滑式と考えられている。松原を含むこの牛滑式の時代には、小形の土器や台付の土器が一般化し、浅鉢も多く使用されている。有孔鍔付士器も、それに引きつづき、櫛形のものが作られるようになった。なお、この時期のものとして、 炉址が確認されている住居址は、松原のほかに大光寺・牛滑などがある。中期中葉の時代、 牛滑期には石器として打製石器が多く、石錘の量も急激に増加している。自然界が採集生活に適する好条件となり、人々も自然の変化に適応した道具を改良、その多量な製作によって繁栄し、人口も増加し始めたことを物語るものであろうか。なお、松原遺跡の所属時代は、縄文時代中期に位置づけられる。採集した造物・土器文様などの比定によって、 さらには中期前業の終わりごろの上山田古式より始まるものと推定される。 隣接する井波町の閑乗寺遺跡もこの時期に属する。 そして、天神山式が一部含まれはするが、中期中葉の集落跡として主体をなすのはやはり牛滑式であろう。  串田新式については若干出土してはいても、ほとんどないものと考えざるを得ない。

出典:庄川町史

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