左岸用水の合口と抗争
目次
野尻岩谷口と新用水の合口
左岸の上流に取入口をもつ山見八ヶ用水・新用水(七千石用水)・野尻岩屋口用水(二万石用水)は普通上流三用水(二万七千石用水)といわれていた。
開設当時は、各用水単独で取入口を持つ別個の用水であったと察せられる。山見八ヶ用水は新用水に編入されて分派用水となり、野尻岩屋口用水は新用水と合口して、この三用水を合わせた一大用水となった。新用水の取入口は、もと金屋岩黒村牧銚子口俗称赤岩付近にあった。この地点は諸用水中最も少ない費用で最多の水量を自由に導水できる地の利があった。新用水は砺波扇状地の南西部一帯へ導水するので、引水には多くの困難が伴った。宝永三年(1706年)、山見八ヶ用水を分派用水として編入したが、新用水よりさらに一段高い台地上を灌漑するので、通水には一層の苦労が加わった。 寛保三年(1743年)以来、新用水側は好取入口の合口条件を山見八ヶ用水側とともに主張しつづけ、野尻岩屋口用水側は共同取入施設の維持管理は均等賦課負担なりと主張しつづけた。このような問題は、用水の恵みを少しでもよけいに得たいという農民の切なる願いであった。新用水へ野尻岩屋口を合口する計画は、藩の庄川治水の基本方針によるものであった。
維持費負担割合の争い
新用水と野尻岩屋口用水共同の取入堰取入口水路の維持管理に関する約定では、延享元年までの一〇年問の新用水取入費用負担額の平均に相当するものを差し出せば、その他一切は野尻岩屋口用水側で負担するということになっていた。新用水は以来一〇年もの間変わらずに料米九石九斗二升一合、木材は二は合口前の間成木七五本、一丈成木四六本、ならびに俵四〇〇枚を野尻岩屋口用水側へ差し出していた。天保十五年( 1844年)、かねてからの成木・俵などを銀で差し出したいとの願いが聞き届けられ、 用水才許から二間成木一本につき一匁六分の代銀で差し出すことを承認された。単価は新用水側の希望どおりの価格であった。新用水の江高は七、〇〇〇石、野尻岩屋ロ用水の江高は二万石であるから、新用水地域は野尻岩屋ロ用水地域の三五%にあたるが、取入費の割合は約四%ぐらいである。新用水の取入費がはなはだ少ないことは、赤岩付近がいかに良好な取入口であったかを物語る。野尻岩屋口用水の取入費二番というのは、請負後、洪水その他による不測の破損が生じて追加工事したときの出費であるから、舟戸取入口は赤岩の取入口に比べて良い所ではなかったといえる。新用水取入費の年間の平均銀高三三六匁八分四厘の料米・人足は定書によると、
一、米 九石九斗弐升壱合 新用水並雇人足代、且又江柱普請水門番給米、享保拾九年より延享元年迄拾ヶ年の間平均壱年に当たる米高
一、五百七拾弐人右用水(江)下出人足右同断
となっており新用水は右の十力年平均取入費だけを負担すればよいことになった。また「是以後、高割に仕候様、野尻岩屋口用水より願申候へども、唯今迄七千石余の用水にて、入用相懸り不申付高割にては迷惑仕候」として、野尻岩屋口用水側は両用水均等賦課による高割負担にしようと申し入れたが新用水側はこれを拒絶した。藩の裁定方針は一方で新用水側の合口反対を抑え、他方で野尻岩屋口用水側の江高均等割要求を抑えた。ようやく野尻岩屋口用水を新用水へ合口したが、両用水の内部にはまだ矛盾した条件が内包されていたので争論は絶えなかった。藩は両用水の合口方針を変えようとせず、いろいろな施策で両用水の利害を調整して分離させなかった。 寛延二年(1749年)、新用水から分派した山見八ヶ用水は野尻岩屋口用水へ通水不良の故障を申し立てた。山見八ヶ用水は、金屋岩黒村藤右衛門前の新用水取入水門で分水され、新用水路よりさらに高い所へ通水する水路であっ た。新用水と野尻岩屋口用水の合口共同水路は三尺(0.9m)も掘り下げられたので、山見八ケ用水は 共同水門で取水できなくなり、四二間( 76.4m)ばかり上流で小取入口を新設した。その費用は新用水側が野尻岩屋口用水側へ渡す人足料のうち一六人分を割り当てた。しかし、取入口を上流に新設したにもかかわらず山見八ケ用水は新しい導水路の護岸が崩れ落ちたので、故障を申し立てたのである。これに対し郡内十村は協議して、野尻岩屋ロ・新用水江肝煎に次のように申し渡した。
⑴新用水へ野尻岩屋口用水が合口しない以前は、 山見八ヶ用水の旧水門から上流約五〇間(約90m)の護岸は山見八ヶ用水側の管理であって、この所は野尻岩屋口用水のために掘り広げたのだから、 今年から五年間は野尻岩屋口用水側で崩落砂石の取除きをするが、それ以後は山見八ヶ用水側ですること
⑵旧水門から上流までの江浚を新用水側総人足でせよということだが、 山見八ケ用水は、 寛永七年(1630年)に新用水へ合併したものであるから、新用水取分口までの分は当然山見八ヶ用水ですること
⑶四二間の立ち登り箇所は、 今後野尻岩屋口用水で工事をすること
この申し渡し一ニカ条は、慣行として永く実施されたが、明治になって両用水争論の要因になった。明和五年(1768年)、新用水側は田地へ川砂が多く流入して良田の地力が弱まったと、野尻岩屋口用水側へ抗議したので、砂抜き工事を行って田地から川砂をはき出す計画をたてた。明和七年、 野尻岩屋口用水側は江柱普請をしなかったので、新用水側は、「野尻岩屋口用水の儀は、過分の水下高故弐拾目を懸など多相成候に付、地方へ引請申候、然る所年々江柱普請仕旨、新用水より及断候に付、是以後は仲間より見図、地方へ普請申渡趣に詮議仕候事」と十村役人に上申した。これまでの工事は地元普請でなかったが、これから野尻岩屋口用水側の負担だけで実施する地元普請となった。安永四年(1775年)新用水側から 用水才許へ「新用水ロヘ寛保三年野尻岩屋ロ一集に被仰付、新用水横口に罷成、 石砂など多く馳込迷惑至極仕候に付、明和五年以来段々書付を以御歎申上候」と訴え、明和五年以来七年間川砂を流入させるなと度々申し入れている。天明七年(1787年)、野尻岩屋口用水側は、改作奉行へ工事費の年賦銀借入を出願した。内容は「総工費銀高七貫八六〇匁七分三厘。近年は圧川からの取水がうまくいかず、御郡用水打銀と水下勤過銀で工事していたが、この春の洪水で、岩丁場である赤岩付近取入口が大破し用水路は閉塞されてしまった。復旧には莫大な贄用がかかり、とても江下農民だけでは負担できない。赤岩付近の工事は寛保年中御納戸銀をもって行われた用水であるから、 諸郡打銀の中から借用し、
三十ヵ年賦で返済したい」 というものであった。このような例は度々で新用水側の負担は少なく、野尻岩屋口用水側の負担が大きかったことを物語っている。 寛永三年(1791年)、野尻岩屋口用水取入口は甚大な水害を被った。「野尻岩屋口 赤岩丁湯普請入用銀七貫八六〇匁七分三厘、その他の被害額も相当ある見込みである。 とても江下農民は負担にたえない。天明八年に御郡用水打銀を借用したいと願い出た。が返済もしないうちにまた被害にあったので、 銀五貫三〇〇匁諸郡打銀の中から借用したい」と願い出た。これらの願いから見ると合口された新用水側はもちろん、合口した野尻岩屋口用水側も藩の方針で合口させられたという意識が強く働いていたことが知られる。文化八年(1811年)三月二日、 庄川の洪水で赤岩付近の取入堰が 流失し、数日間用水に水が入らなかった。苗代水の必要期であったので、野尻岩屋口用水側は鷹栖口用水に野尻川原から借水したが、新用水側は借水することができないので、流域の農民は不安におののいた。文政八年( 1825年)、新用水・野尻岩屋口用水は通水量が不足するので、水路底を四尺(1.2m)掘り下げる工事をしなければならなくなっ た。しかし、これを施工すると、その上流にある山見八ケ用水は取水不能となるので、取入口を上流に新設することにした。そこで新設敷地の年貢米、取入堰の建設、江浚の人夫料など一切の費用は野尻岩屋口用水側が支弁の責任を負った。しかも一般入札では工事が粗雑になるというので、山見八ヶ用水の江下農民が銀二〇貫で施工することを申し入れた。そして今後の管理には、野尻岩屋ロ用水側の負担で、⑴新江柱が山抜けや雪崩で破損したときは修理すること取入堰には鳥足を多く入れて工事をすること⑵用水路に砂石が流入したら江浚をすること⑶取入堰には鳥足を多く入れて工事をすること⑷非常のときは元口から堰入れするエ事をすることなどを求め、 それの全面的了承を得た。 つまり山見八ヶ用水路の保存維持は全面的無期限に野尻岩屋口用水側で責任を果たすことを確約したものである。 天保十年(1839年)新設された専用水路の穴繰(トンネル)が崩壊したときも、弘化三年(1846年)鳥越山が抜けて水路を閉塞したときも、 文政年間の約定によって復旧工事が行われ、野尻岩屋口用水路の中に鳥足を造って堰き止め、水位を上げて山見八ケ用水の元口から必要水量を通水させた。そのため野尻岩屋口用水流域の農民は不意の減水に驚いて、大勢群集して堰止めを切り崩そうとしたが、藩はそれを制止して給水をつづけさせた。藩は最上流にある山見八ヶ用水側の要求を、合口に支障のない限り聞き届けざるを得なかった。また天保十年穴繰潰込の修繕に補助願いを提出したところ、郡内すべての用水は借銀しないことになっているが、「山見八ケ用水の儀は、格別の用水にて普請行届不申付」と例外の取扱いとして聞き届けられた。
弘化三年(1846年)四月、庄川の洪水で赤岩取入堰が流失し、野尻岩屋口用水は舟戸口用水から借水したが、新用水は借水できず困難した。翌年復旧工事を行ったが、工事費は郡の補助と請負人が負担している。 野尻岩屋口用水側では総工費のうち、 銀一貫五〇〇匁を出すから残額を分担してほしいと新用水側に申し入れたが、新用水側は旧慣を主張して承知しないので「此末の例には不相成」を条件に、用水才許から新用水側へ分担するよう取計らってほしいと願い出たが、 新用水側は承諾しなかった。 嘉永二年(1849年)、鳥越山が抜けて赤岩取入口付近に甚大な被害があった。復旧工事総額銀一三貫九八九匁余、そのうち=一貫六〇〇匁は改作奉行で、五貫一〇〇匁は仕法高作徳米で、残りは野尻岩屋口江下農民でそれぞれ負担した。
文久元年(1861年)、庄川ごうとう山か抜けて赤岩取入口に被害があった。 復旧工事費総額一二貫七一七匁余、そのうち七貫六〇〇匁は御郡用水打銀で、残りは野尻岩屋口江下農民か負担している。このほかの多くの例をみても、赤岩付近の合口用水取入水害復旧工事費は、藩の納戸銀または郡打銀と野尻岩屋口用水江下農民だけの負担でなされているが、新用水側は既得権の旧慣を守って手出しはしなかった。明治三年、共同大水門の建替えを藩直営工事として施行したのを最後に、藩は用水に関するすべての統制力を失った。
明治期用水施策と争いの激化
明治になると藩が廃されて県が置かれた。藩はそれまで用水を統制し用水取入れや水害復旧工事には常に多額の補助金を支出していた。しかし、新政府は用水に対していかなる統制もせず補助金制度も設けなかったので、同じ問題でもこれまでと異なった形態で処理せねばならなかった。明治八年、野尻岩屋口用水差配役(藩政時代の江肝煎に当たる)から 区会所(郡役所)へ「用水費は昨年より用水懸にて、 入用相弁候様の儀に相成候、新用水打入入費相弁申渡儀に御座候に付、示談方打合不申儀に御座候、何卒新用水の費用は、打込割付方致候様御説諭被成下候様」と願い出た。前年の七年から用水費は全額用水側の負担となったので、この機会に野尻岩屋口用水側は費用を打込割付江高割で、平均賦課を新用水側に承認させようとした。区長(郡長)の仲介で示談したが、木材・俵の代銀を現在価格に訂正したにすぎなかった。 新用水側も区会所へ「 用水取入費、 打込割付方不二会得 」と答えて、「合口以前の所へ立退きしてもらいたい」とか「用水路中に江柱相立、分口に仕候はば、双方格別の迷惑の筋も無御座・・・・」とか申し立てておだやかでなかった。 用水に対して藩の統制力が失われると、両用水は対等の立湯で争い始めた。 十五年、合同大水門の修繕は補助金なしの用水関係だけの負担で施工された。 野尻岩屋口用水は、流木業者からの入金を五ヵ年積立てした七五〇円で支払い、後で新用水側と精算することにした。しかし旧慣を主張する新用水側は承認せず負担に応じなかった。二十一二年、法律第四十六号によって水利組合条令が公布されたので、野尻岩屋ロ・新用水合同水利組合を設立しようとしたが、新用水側は野尻岩屋口を合口したのは約定を認めた上のことで、旧慣を尊重しない組合の会議には応じられないと反対した。
明治二十四年九月、共同水路(金屋小川原地内) に長さ一〇間(18m)余りにわたって江柱欠落の所があり、そこに六寸(18cm)角の木材で大枠を組み厚板を張って土石をつめ、江柱の代わりにしていたが、その大枠が破損して土石が崩れ落ちた。また、赤岩への延長の江柱に亀裂ができて修紐する必要があったので両用水側で協議したが、 野尻岩屋口用水側は江高による両用水均等負担を主張し、新用水側は共同水路の修繕は一切負担しない約定であると強く主張して不調に終わった。二十八年六月九日、庄川が増水して木製の大枠は全部流失し導水不能となったので、新用水側は野尻岩屋口用水側に修繕を督促した。野尻岩屋口用水側は水田枯渇で危急となったので、応急の箇略工事をして両用水均等負担を主張したが、新用水側は同調しなかった。
二用水の対立は水不足に拍車をかけることとなった。木製枠が破損し江柱に亀裂ができた二十四年から野尻岩屋口用水側は均等賦課を主張するのに対し、新用水側は旧慣を固守して均等賦課に応じようとしなかった。野尻岩屋口用水側は水利の点で新用水側を困惑させて主張を貫徹する方法をとった。三十一年、山見八ヶ用水の取入堰を造らず江浚もしなかったので、山見八ヶ用水は導水できず困却してその施行を促したが、野尻岩屋口用水側は実施しようとはしなかった。新用水側は灌漑の必要に迫られ、同年五月、自費で工事を施行した。その費用を野尻岩屋口用水側に諸求したが支出してくれないので、定額納入の仕入料から差し引いた。翌三十二年になっても、堰入工事も江浚もしないので山見八ヶ用水側は問題を法廷に持ち込み、野尻岩屋口用水側も受けて立つ決意をした。裁判所が実地を巡検するに至って、郡長・警察署長は事件の拡大を憂い調停に努力を重ねた。そうして同年四月、次のような和解契約が締結された。
今般野尻岩屋口用水卜新用水ノ間 二葛藤ヲ生ズルニアタリ、郡長・ 警察署長ノ調停 二依両用水カラ各と委員五名ヲ定メ、双方協識ノ上左ノ約定ヲ為ス
一、木材・俵代ハ明治八年カラ毎年三十二円九十四銭ノ処、今後六倍ノ百九十七円六十七銭ヲ毎年新用水ヨリ野尻岩屋ロ用水へ渡スモノトス
一、天災ニヨル山抜及ビ江柱破損ニハ四百円ヲ新用水が負担シ、野尻岩屋口用水へ渡スモノトス
一、天災地変ニヨル用水障害ノ費用ハ双方ノ負担トシ、各用水旧江高二応ジ割当スルモノトス。但シ工事ハ双方立会協談ノ上施行スル
一、野尻岩屋ロ・新用水合口取入堰、並二山見八ヶ用水取入堰及ビ配水ソノ他明文ナキ事件ハ総テ旧慣二依ルモノトス
一、コノ契約ハ法律二基ク組合会ヲ組織スルト同時二消滅スルモノトス
明治一二十二年五月、和解契約第二項によって新用水側は四〇〇円を野尻岩屋口用水側に渡した。
野尻岩屋用水側は、前災害の木製枠と江柱亀裂の修繕、それに伴う善後工事の見栢りによっ て、受け取った四〇〇円は枠と江柱の修繕費だけで、善後工事残は含まれていないということで、契約第三項の均一賦課を要求した。新用水側は、四〇〇円は災害復旧の全額支弁であるとして拒絶した。同年九月、 またもや鳥越山が抜けて用水路へ土砂が多量に流れ込んだ。両用水委員は現状を視察し、天災による工事として双方立会の上工事設計を協議した。野尻岩屋口用水委員は、以前の江柱修繕・善後工事を併せて設計するよう主張したのに対し、新用水委員は支弁済みの費用を繰り込む設計には反対であると主張したので、工事の設計はできないままで終わった。同年十月、庄川が増水して山抜けし、前回に倍する土砂が用水路に流れ入った。両用水委員は協議を重ねたが妥結の見通しがつかないので、野尻岩屋口用水側は単独で工事設計をして、新用水側に同意を求めた。新用水側は、設計の中には江柱修理の繕後工事が含まれており、「 和解契約第三項但し書きによる立会協議会」に反した設計書による賦課には応じられないと回答した。さらに、妥協できない計画設計を提示する野尻岩屋口用水側には、工事施行の意志がないと判断した新用水・山見八ヶ用水側は、 三十一年五月、「 用水路及取入堰修繕請求之訴」の訴状を提出した。三四年第一審判決で、新用水側の要求どおり慣行法が正当であることが立証された。野尻岩屋口用水側は控訴したが、控訴棄却となったので上告し、ここに両用水の法廷での争いは果てしない泥沼合戦となっていった。
これより先、市町村制が施行された翌年の二十三年に水利組合条例が公布され、行政庁から水利組合の設立を勧められていたので、再三再四合同の水利組合設立について協議を重ねたが、旧慣の約定を利益とする新用水側は絶対反対の立場を固守するし、野尻岩屋口用水側は、二用水がそれぞれ単独の水利組合を設けたのでは、自分たちの不利益を永久に継承しなければならなくなるので、合同水利組合の設立を主張して双方折り合わず、この問題は未解決のままであった。このような情勢の中で三十五年四月、 野尻岩屋口用水関係町村長は連署して知事へ「野尻岩屋口新用水合同水利組合設立願」を提出した。この願いの中で、藩の水利統制が失われて以来三〇年間の施設の老朽化、新用水側の主張する旧慣の矛盾について訴え、新用水側の主張する契約、約定の一定額負担は空想か虚構であると述べている。定額継続請負とは、同一の請負人(水門番)に取入工事および水門管理を請負わせるもので、野尻岩屋口用水側に管理義務がないことを示したものではない。また請負額は時代と年によって変更されることが多く、野尻岩屋口用水側の負担額は毎年のように変動しているが、新用水側の負担額は百数十年来少しの変化もみられない。この間現物を銀で代納していた木材や俵代の価格に変動があっても三回変更したにすぎない。計算の基礎となる現物数品は不変である。さらに請負人が請負額だけで工事のできない場合や水害復旧の場合に、しばしばその不足額に対する補助を野尻岩屋口用水へ願い出ているが、新用水へ対しては一度も出されていない、と新用水側を非難した。かくして同年十一月、ついに認可を得て、野尻岩屋口用水と新用水が合併して二万七千石用水普通水利組合が設立された。規約には、同組合は山見八ヶ用水を分脈とする新用水と、後日二万石用水と改称した野尻岩屋口用水との連合体で、共同用水の取入工事と保全管理に当たるものとし、一般用水と性格を異にしていた。その間、新用水側は合同水利組合設立に反対し、高瀬村長は責任を負って辞任した。三十六年二月、新用水側は「 二万七千石用水普通水利組合設置処分取消之訴願」を内務大臣に提出し、さらに同年六月に訴願追加書を提出したが、裁決がなかった。一方では、十月に二万七千石用水普通水利組合会議員の選挙が終わって事業の予算編成が進められ、翌年になれば工事を実施する運びになるので、新用水側は十一月に訴願採納の上申書を提出した。しかしまたもや裁決がなかったので、三十七年再び訴願採納を上申した。
二万石用水と新用水の和解
明治三十三年に提出した山見八ヶ用水の「 用水路及取入堰修繕請求之訴」については、新用水側が勝訴する見通しはついたが、野尻岩屋口用水と新用水との法律による合同水利組合(二万七千石用水)が結成されると、新用水側は、自分たちの主張する一定額負担の約定である旧慣の特権が保持できるかどうかについて、法律専門家の意見を聴取した。その鑑定書の大要は次のようなものであった。
⑴組合員個人の旧慣は、水利組合が設立したことによって消滅しない
⑵水利組合は土地所有者の承継人でないから、 旧慣を承継することはできない
⑶旧慣を有する組合員は、 水利組合に補償させることはできない
⑷郡長が水利組合長になっても、郡長の職又は政府に対する責任はとらなくてもよい
法律に照らすと以上のようである。 新用水および旧慣の利権を持つ山見八ヶ用水は、組合の規約によると著しく不利益となるが、法律上では適当な救済の方法がないと信ずる。
新用水側は有利な約定既得権の保持は、法律上薄弱であることがわかったので、山見八ヶ用水の取入堰や用水路をだれが修結するかといった狭い問題よりも、百数十年間保持して来た旧慣特権が、合同水利組合の設立によって永久に失われようとする大きい問題に対処しなくてはならなかった。その結果、 果てしない泥沼訴訟を早急に取り下げることが必要となり、調停を東砺波郡長に依頼し訴訟の取下げ条件を承諾した。
訴訟事件取下和順
大阪控訴院ならびに高岡支所に提出している訴訟を両用水の原被両告は連署して取り下げること訴訟費用は双方より請求しないこと
新用水のすでに支払った工事費は野尻岩屋口用水側へ請求しないこと
双方合意というが、新用水側は無条件で取り下げたものと察せられる。明治三十八年一月、県知事は新用水側に対して旧慣を参酌することを条件に水利組合規約を改正して、和解するよう勧告した。新用水側はそれに応じようとする姿勢を示したが、まとまらなかった。同年七月、郡長は双方に委員を設けて和解について協議したが、野尻岩屋口用水側は規約上で旧慣を存置する条件には一切応じないと主張したので不調に終わった。三十九年、県知事が仲裁役となって裁定に入った。
二万七千石用水普通水利組合組織に関スル訴願ノ件二付、旧新用水側関係者ト野尻岩屋口用水側関係者トノ間二、和解協議会ヲ開キ、数次ノ交渉二及ビタルモ妥協スル能ハズ、タメニ和解ノ裁定ヲ本官ニー任セラレクルニヨリ、両用水ノ主張スル点ヲ審査シ、和解条件ヲ定メクルヲ以テ、両用水ハ此ノ和解条件ノ下二、永遠ノ平和ヲ保持シ福利ヲ増進セラレンコトヲ望ム
一、訴願者ハ自ラ訴願ヲ取下グル事
一、旧野尻岩屋口用水ハ、旧新用水ノ為メ基金ヲ差出ス事
一、旧新用水基金ノ総額ハ徴収上便宜ノ為メ金参千円トシ、其徴収方法ハニ万七千石用水普通水利組合会ノ識決ヲ以テ、二万七千石用水現在ノ地租額二均一賦課スル事
一、前項基金参千円ノ内金八百円及ビ基金ヨリ生ズル利子ハ、新用水及山見八ヶ用水普通水利組合会ノ協談二依リ、用水関係ノ牧用二使用スルコトヲ得
一、基金参千円ハ、現今ノ新用水卜山見八ヶ用水トノ共有二属ス、其権利歩合左ノ如シ
新用水 八分七厘四八 山見八ケ用水 壱歩弐厘五弐
本裁定ハ正本参通ヲ作リ、サキニ和解ノ裁定ヲ一任セラレタル、両用水代表者トニ万七千石用水普通水利組合管理者トニ各一通ヲ頒ツ
明治三十九年十一月二十五日 富 山 県 知 事
和解条件は裁定項目によると、「野尻岩屋口用水は、新用水のために基金を差し出す。その基金の利子を新用水と山見八ヶ用水の費用に当てる。基金の徴収法は地価に対して均等に賦課する」ということである。つまり新用水側にしてみれば、野尻岩屋口用水側から基金が渡されたので、その利子を旧慣約定の一定額負担に充当すればよいことになるし、一方、 野尻岩屋口用水側からみれば、江高による均等賦課の方法で基金が地租によって両用水平均的賦課額で徴収されるから主張が通ったことになる。基金はおよそ一〇石に一円の割合で野尻岩屋口用水側からは二、二〇〇円、新用水(山見八ヶ用水を含む)側からは八〇〇円徴収され、総額は三、〇〇〇円であった。 費用負担は新用水側の主張を通したようだが、一時金であるから無期限の負担から脱しようとした野尻岩屋口用水側の主張も通ったことになる。 貨幣価値が変動してしまった今日では、野尻岩屋口用水側が実利をおさめたといえるであろう。
二万七千石用水と鷹栖・若林口用水
松川除築堤以前の鷹栖口用水地域は、庄川分流の中村川流域であって、現在でも庄川中学校敷地南、庄川町水道水源地辺→青島神明宮の西→勤労者住宅団地の西→五ヶの東→天正の西→筏の東→古上野の東→荒高屋で、旧川跡をたどっている。 寛保三年(1743年)庄川弁才天前にあった野尻岩屋口用水取入口が赤岩付近へ移ったので、延享二年(1745年)にその跡を改修して取入口にした。安永三年(1774年)藩は、野尻岩屋ロ新用水赤岩付近取入口ヘ、鷹栖・若林口用水の取入口を今年一カ年間合ロするよう通告したのに対し、野尻岩屋ロ・新用水の江肝煎と村肝煎は異議を申し立てた。
藩がなぜ、赤岩付近へ合口させようとしたかを推察すると、⑴松川除堤防の保全強化の方針による⑵鷹栖・若林口用水地域の灌漑水不足を補給する⑶鷹栖・若林口用水取入口が被害にあって取水不能になったので、時的に借水するための措置、などが考えられる。弁才天前川除普請は藩として庄川治水の基本方針であるから、護岸を強化する措置として当然と考えられる。また、鷹栖・若林口用水江高は明暦元年(1655年)は一万石余、 安永三年( 1774年)は一万六、〇〇〇余石だから五割以上の六、〇〇〇石も増加しているので用水量が不足したと考えられる明和九年( 1772年)「 庄川弁才天前御普諸、百間余切流入川仕、高儀新村筏村・古上野村御田地砂入人家数拾軒水付」と十村から改作奉行へ報告しているから、松川除に取入口を持つ鷹栖・若林口用水の取入施設が破損し、取水不能になったので「 今年壱ヶ 年、一所に取入候様に仰付候」ということになったものと考えられる。
新用水・野尻岩屋口ヘ、鷹栖若林口今年壱ヶ年一所に取入候様に取入に被為仰渡候得共、野尻岩屋口用水之儀、寛保年中新用水口ヘ一所に被為仰付候、其之砌定検地御奉行様方、右三口水高御勘定之上江幅並江敷御極御掘添、用水取入被仰付候、左候得共、御田地荒起切田最中之砌は、大川堰切取入候ても流末へは水行届兼躰に御座候、然所、今般被為御設之趣等、水下百姓寄合仕申聞候所、幾重にも御歎申上候は、鷹栖・若林両口過分之用水、打込一所に取入候ては、野尻岩屋口用水御高水不足に罷成、必至と迷惑仕候、尤水門之桁切上候て、水取可申旨被仰渡候えども、右桁切上候ても、壱万六千石の水は通り不申候、此の儀は鷹栖・若林用水下よりも申上る通に御座候(以下略)
後半には、新用水が野尻岩屋口用水と合口したときと同じことをいっている。合口の反対理由は、三口合ロして水高にあわせて水路が造られたが、今でも田植え季節に水不足で悩んでいる。 そこへまた新し< 二ロもの用水を合口すればなお水不足になり、五口用水ともに迷惑すると述べている。合口させる意図は用水の水不足が大きな原因であると考えられるが、一ヵ年限りといい水門の桁を切り上げることといい、藩は何とかして上流用水を説得して合口させようと努力したことがうかがわれる。安永四年(1775年)一月、新用水関係の青島村・金屋岩黒村・三清村・安清村などの村肝煎は連署して反対意見を上申した。
新用水は、野尻岩屋口用水とさえ分口にしたいといっているのに、この上新しく鷹栖・若林口との合口は迷惑が重なるばかりであると十村へ抗議している。藩はなんとかして鷹栖・若林口用水を赤岩付近に合口しようとし、新用水を赤岩付近からさらに上流ヘロ替えすることまで約束した。実施するには山見八ヶ用水取入口と合口させるか、山見八ヶ用水をさらに上流へ追い上げるか判然としないが、問題は簡易に解決できることではなかった。安永四年十二月、野尻岩屋口江肝煎は用水才許へ、鷹栖・若林口用水へは分水できないから、他用水からでも分水せられたいと申し出た。
去春、野尻岩屋・新用水より鷹栖・若林用水へ、五歩水分渡可申旨被仰渡候に付、水分渡候ては江下水不足仕、必至と迷惑の旨書付を以御願申上候処、御聞届之上にて新用水の儀は分口に仕、追付新江御掘立可被遊旨にて、今壱ヶ年之儀に候間、五分水分け渡可申旨、重ねて被仰渡候に付、無是非奉畏申候、 今年も去年通り五分水分け渡可申旨、又々被仰渡候に付、迷惑至極仕候えども、御意之趣恐入奉畏申候
安永三年と四年には鷹栖・若林口用水へ野尻岩屋ロ・新用水から分水した。迷惑至極ではあるが、藩の命令で仕方がないから分水すると命に服している。
去春以来過之水分渡申故四五日も照続き候えば、流末は水不足仕毎度迷惑仕申候、別て当年四月も流末の村々田あぜ塗中、御田地われ田に罷なり、其の上五月中旬の時分は植付申した御田地過分に干われ、 百姓難義迷惑仕候、江敷江幅其儘にて水過分に堰入申故、砂多く流れ入り村々小口用水馳埋り、当春も用水江ざらえ人足等過分に入増、其上御田地壱反水口迄砂入に罷なり、御田地土味悪しく罷なり百姓中迷惑至極奉存候
「春以来用水路の幅も広げないで導水したので、田地に砂が入って地味が低下し、江ざらえに人手がよけいかかる。水不足が激しく四、五日も日照りがつづくと田が干割れしてしまう」など不満を並べ立て、さらに「 藩は分水しても水不足にならない。人足もよけいにかからない。そのほか迷惑をかけることは一切ないと厳重に仰せられたが、私どもは大変費用がかかり、水不足となって難儀迷惑をしている。庄の河床は毎年低くなるので取入堰を高くせねばならず、それにも限度がある。秋になれば庄川の水も減ってますます取水ができなくなる。飲料水も不足するのではないかと案じられる。冬になって田地へ水を入れようにも入れようがない。以上の状態であるから鷹栖ロ・若林口用水については、どなたが仰せられても、野尻岩屋口用水は、先年のとおりにしておいてほしい」と訴えている。
一、野尻岩屋口用水・鷹栖口用水、天明三年(1783年) 二月金沢にて一所に取入申様被仰渡候
一、野尻岩屋口用水・鷹栖口天朋四年大破に付、三月十五日御手代方御見分之上牧がうとう仮口被仰付御図り銀高、但天明三年四年一ヶ年野尻岩屋・鷹栖ロ一所に被仰付候
鷹栖口取入所困難に及候間、天明三年御普請才許に御座候砌に若林口を分て鷹栖口は野尻口の中に被為成候
当時、鷹栖口と若林口は合口していた。また安永三、四年には野尻口から分水していたが、数年で取りやめになったと察せられる。天明三年七月、野尻岩屋ロ・新用水の江肝煎は連署して鷹栖口を合口するについて江幅を広げるよう次のように上申した。
昨年春取入口を合口せよと申されたのでそのとおりにしました。 今年も是非合口せよと申されるが、御見分されたとおり取入堰は申すに及ばず用水取入口に砂利が多く馳せ込んでおります。それ故に田植えをしてから田が地割れして迷惑至極です。寛保年中に新用水へ野尻岩屋口を合口したとき、藩支弁で江幅三間(約5.4m)に掘り広げ、用水農民の負担は少しもありませんでした。今度野尻岩屋ロ・新用水(二万七千石)へ鷹栖口(八千石)を合口すると、増水して水がぬまえ上がります。今後どうしても鷹栖口を合口せよと申されるならば、江幅をさらに掘り足してください。それができないようなら、鷹栖口に去々年までの所へもどって用水を取り入れるよう申し付けてください。江幅を掘り広げる工事をなされても、なかなか急にはできかねます。ご考慮くださってどのようになりとよろしいように申し付けください。 水下百姓一統願い上げ中します。 以上(江肝煎運署 十村宛)
天明六年「野尻口出可申候而又四の輪に口付申候(旧舟戸ロ一番水門と鷹栖一番水門の中内)」とあることから鷹栖口側は異議があって野尻口側から分離したものと考えられる。取入口を上流に持つ野尻岩屋ロ・新用水の二万七千石と、下流の鷹栖・若林口用水の一万六千石の力関係は地形的にも勢力的にも格段の差があるので問題は深刻化していない。だからといって下流用水の農民個人にしてみれば、水不足の悩みは上流用水以上に深刻なものであったに違いない。
鷹栖口と若林口用水
明和六年(1769年)三月「 庄川鷹栖若林用水近年川口悪罷成、水上り兼申に付、大鳥足を以水堰込申候に付、以之外荒川に御座候故、船を以鳥足入不申候而は難成御座候、猟船等借船仕候儀茂難仕必至与指閊申ニ付、大いくり船一艘水下村々より合立申度奉存候間、無役船御赦免被下候様に奉願候」と鷹栖口江肝煎二人と若林口江肝煎二人連名で、改修用の船に対する無課税を用水才許あてに上申した。このことは明和六年にはすでに両用水が合口されていたことを示している。
文化四年(1807年)「 庄川大洪水にて、取入口流失して水勢一変し、取入甚だ困雄となりしを以て、 取入口を変更し、弁才天前御普請六の輪より取り入れることとなり、取入堰を設けしに、同年五月十二日の大洪水にて、再び堰を流失するに至れり。」文化五年一月「 従来鷹栖・若林両口は合併取り入れ来りしを、江下の願により若林口を弁才天前御普請、七の輪より取り入れることとし、ここに分口するに至れり。」元治元年(一八六四)「若林口江下の申し出に依り、再び合口す」とある。文化五年に一時分離したが、元治元年、若林口用水側の申し出により、また両口の取入を合同して、ーカ所に取入堰を改築した。経費の負担は、若林口関係江高は七、 八七〇石で、栖口関係江高 八、三六〇 石より少ないにもかかわらず、経費負担の割合は若林口が六割、 鷹栖口が四割であった。 鷹栖口用水は上流にあったために、経費負担率の面でも下流の若林口用水より優位にあった。明治四十年、鷹栖・若林合口用水取入水路は土砂の堆積によって埋没し、その上、庄川の水勢を変更させるため、両用水を取り入れる上に利害が相反することとなった。こうして分離論が起こり、十数回の徹夜の協議折衝によって懇談密議を重ねた末、ついに二六年間の共同事業を解体せざるを得なくなった。この両者の利害関係は資料に明記されていないが、上流と下流の関係からおよその推察ができる。
鷹栖口と舟戸口用水
舟戸口用水の取入口は、鷹栖ロ・若林口用水の取入口の約一㎞は上流にあって、舟戸ロ用水路は、鷹栖ロ・若林口用水路を途中で横断して乗り越している。明治二十八年、洪水のため河床の変動によって、 取入口を変更して鷹栖口に近い上流に設けたことから、上流に接近して取入堰を設けられると取水量が減少すると判断した際栖口用水側の江下農民は、舟戸口用水取入口に殺到して礫石でこれを埋めたため、それに対抗して舟戸口用水江下農民も多数応戦するという事件が発生したことがあったが、明治四十二年、栖口用水は洪水のため河床の変動によって取水不能となったので、舟戸口用水側と幾多の交渉を重ね、ようやく合口が成立した。
左岸全用水の合口への動き
藩の庄川治水と農業用水路に対する基本施策は、用水を合口することにあった。前述のように砺波平野を洪水から守るために、野尻川・中村川・千保川の三川を締め切り、弁才天前に一連の堤防を築造強化して、旧河川跡を改修整備してつくった諸用水の取入口を、堤防に直接関係のない上流赤岩付近に合口することにあった。農民もまた、開拓を進めるにしたがって農業用水量が不足するので、これを解決するには、上流用水と合口する以外に方法がないとの考えに至った。上流用水は、河床の低下によって取水堰を次第に高くせねばならず、高地を灌漑しているので通水力も弱く、末端までの配水は充分ではなかった。とくに洪水時には堰は大損害を受け、用水路に土砂が流入して水路の底が高くなっていた。その上に下流用水と合口することはさらに被害を大きくすることであった。したがって、下流用水が用水量確保のために合口を懇願したが、上流用水は用水量の確保と独占有利な条件の喪失を恐れて反対の態度にでた。上流用水と下流用水の立場は全く相反し、下流用水は何らかの機会を得て合口を実現しようと努力し、他方、上流用水は下流用水との合口に極力反対を唱えるという、両者の関係には例外が見られなかった。
合口の提案は、すべて藩によって発議されたものであったが、農民の反対を押し切り藩の強圧によって実施できることではなかった。藩が主導権をとって合口に成功した場合でも、条件付き妥協策をとるのが普通であった。それには上流用水を納得させる有利な条件、つまり、用水取入れ費用の負担の割合を著しく有利にすることである。そうなると下流用水側は不利になるので、工事は藩直営で施行するとか、用水取入費に対して年々補助金を支出するといった条件を提示した。このような妥協条件によって上流と下流が納得すれば合口が可能となってくる。しかし、一時的に合口されても取入付近の河川の状態や、取入堰・用水路の状態の変化によって取水事情も変化し、あるいは水害・干ばつの発生によって、どちらかの用水が合口の条件に不満を持ったり、経済事情の変動によって負担の区分や用水取入費の補助額に不満を持ったりすると一方が再び分離しようとする。こうして離合を重ねてきたが、明治十四年、庄川八口用水水利会の初会議の席上、郡長は庄川の流水は各用水共有のもので、上流だからといって専有し、下流だからといって干ばつが当然だとする考えはなくしたい。水利会議員はよく審議討論して好結果の決議をしてもらいたいと告示したが、郡長の権能は、藩制に比べてあまりにも弱いものであったため、理想論を空転させたにすぎなかった。
(前略)ー 抑モ庄川ノ流水ハ、各用水ノ公共有ニシテ、之ヲ往古二鑑ミルニ、該川通八口用水ノ外、享保年度二開鏧シタル六ヶロ等ノ用水アルモ、幹川涸水水配ヲ要スルハ、庄内口のみ、是レ六ヶロ用水等ハ、水配ノ範囲外ナレバナリ。 而シテ、水配費割当方ノ慣例ヲ視ルモ八口等シク幹川ヲ共有シテ、敢テ共有二上下流ノ区域ナケレバ、上流ハ流水ヲ専有シ、下流ハ座シテ干魃ヲ招ク謂レナカルベシ。猶各員審識討論シ、好結果ヲ得ソコトヲ希望致ス
明治二十四年、郡長は庄川に取入口を持つ各用水へ、赤岩付近に全用水を合口する意向を示し、意見を聴取した。この年は県下各地に大水害があり、とくに常願寺川は山峡から平野部へ流出するところで左岸堤防が決壊し、扇状地の田地を押し流し宮山市内に流入したので、多くの人命を失い、多数の家屋が流出した。県は常願寺川の根本的な治水計画を立てるた め、内務省御雇工師であるオランダ人デレーケを招いた。その時彼は、「常願寺は川ではない。まるで滝だ。」と叫んだといい伝えている。デレーケは用水取入施設が堤防を決壊させた要因であり、堤防から用水取入施設を除くよう指導助言した。県は常願寺の治水費に、同年の歳出総額三、四〇万円のうち一〇〇万円以上もかけて、常願寺川左岸用水合口計画を実施した。
砺波郡長の、庄川左岸全用水を赤岩付近に合口させようとする提案は、このデレーケの常願寺川治水工事の指導助言が大きく影響していた。これに対し二十四年十二月、新用水側の意見を代表して提出した井波町長の上申書には、「 庄川治水の根本施策から考えると、合口することは合理的であるが、灌漑用水の立湯から見ると実施不可能である。下流用水側は合口を希望しても、流用水側は反対である。庄川が減水すれば水不足による損害は上流ほど大きい。洪水で取入施設が決壊すると、上流用水へは流入しなくなる。いずれにしても、合口すると上流用水は不利なことばかりであるから、合口には賛成できない」と述べている。二十九年、郡役所は庄川左岸用水合口測量費納入について野尻岩屋ロヘ「 庄川西縁用水合併測量費ノ件二付、客年十二月二十日ヲ以テ、申出之趣モ有之候処、右ハ目下測量二関シ差支ヲ生ジ候二付、来ル十日納付相成候様、取計可有之候」と督促した。このことからもすでに合口するため測量にかかっていたことがわかる。合口に反対している野尻岩屋口用水側は、この費用を支払おうとしないので、郡書記は野尻村長へ次のように請求した。
(前略)ー 此間野尻岩屋口用水測量負担金額ノ儀二付申進置候ヘトモ、未タ御回報無之、就而ハ該負担総額ノ儀ハ、左記ノ通リニ相定メ候テハ如何二候哉、乍御手数来ルニ十六日迄ニ、否ノ儀御回報相成度、尤モ同日迄二御回報無之トキハ、御異存ナキモノトシ、決算ノ下関二従事致候、且又来ル三十日ハ尚地方ノ切季二付、税及雑費ノ支払モ有之、目下ノ処之余二付、精々御注意ヲ与ヘラレ、 来ルニ十七日頃迄二残額納付之様、御取計成下度御依頼申上候也
明治三十年四月二十三日
若 林 郡 書 記
勝 田 村 長 殿
野尻岩屋口江高弐万弐千九拾七石弐斗五升四合
此当り八拾五円七銭四厘
二十九年七月の庄川大洪水で、千保川筋の高岡市街に濁流が流入して大被害にあったことなどから、 県や郡当局では、災害防止には各用水を一本に合口することが根本策と考え、測量を行い実施計画を急いだ。
(以下、 庄川用水合口事業の項へつづく)
出典:庄川町史