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藩の創始と砺波郡

藩の創始と砺波郡

7月 28, 2022 歴史 by higashiyamami

前田氏の領土

越中は、 天正八年(1580年)以来佐々成政が領有し、富山に居城した。成政は秀吉の天下統一を快しとせず、徳川家康と 織田信長の遺子信雄 を擁して反抗しようとした。十二年、秀吉方の前田利家は成政と能登末森で戦い、翌年、秀吉の援を求めて富山で成政を降した。この功によって利家は羽柴姓を許され、  長子利長には婦負・射水・砺波の三郡が与えられ、以後砺波郡は長く前田氏の領有するところとなった。

天正十三年、前田利長が越中三郡を領した時点における前田氏の版図は、

越中国        新川郡は佐々成政領有           射水・砺波   船負三郡は前田利長の領有

加賀国  石川・河北両郡は前旧利家の領有             石川郡の内、  松任在は般臣秀吉の所領、  江沼・能美両郡は堀左衛門督秀政が領有し、 大塑寺の溝口秀勝と小松の村上義明を与力とした。

能登国  天正九年、信長は利家に能登一国を与え、長連龍を与力として領知させた。

文禄四年(1595年)  七月、新川郡は成政に代わって利家が領有することとなったが、慶長三年(1598年)、射水郡は利家の養老領(隠居領)、他の三郡は利長の領地とした。加賀藩の領知高 ば、  寛永七年(1630年) に加賀国では44万2,507石4斗5升6合、 能登国では21万6,891石3斗5升4合、越中国では53万3,361石1斗9升で、合計119万2,761石であった。

寛永十六年(1639年)六月、三代利常は隠居して封を光高に譲り、二男の利次を越中富山に、三男利治を加賀大堂寺に封じ、ここに前田一家の領土が確定した。正保三年(1646年)八月、加賀藩が徳川幕府へ書き上げた加賀一門の高数を見ると、寛永年間畠直新開を申し渡し開墾を奨励した結果、加賀で約1万6,400石、能登で1万5,100石、越中では実に6万8,300石強の新田開発が行われた。

村と組み

加賀藩が村御印を下付した寛文十年(1670年)の砺波郡の村数は四八四ヵ村で、石高20万2,111石8斗4升であった。 一四年後の貞享元年になると新村が20ヵ村増加し、新開された高は8,444石8斗8升で一村平均422石余となる。これを加算すると、砺波郡の石高は21万 556石7斗2升、村数は504ヵ村となり、新川郡の511ヵ村に次ぎ、 加越能3カ国中第二位、石高においては第一位となっている。

元和五年( 1619年)に調査した砺波郡の組と村の内、庄川町域の旧村で当時存在していた村と家数、 並びにその付の起源を記してみよう。

戸出村又右衛門組

こんこうじ 11間(戸)金剛寺という寺があって、それを村名とした由。正保・寛文・貞享の高辻帳には庄村と金剛寺村のニカ村に記してある。天保三年(1646年)合併して庄金剛寺村となった。

庄村 15間 庄村について『越中志徴』は次のように伝えている。「旧名は雄神庄村であった。村方の伝えに、古く雄神庄村・金剛寺村とて両村のところ、天和年中(1681年~) 検地の折、両村合併し、庄金剛寺という村名になったと伝えるが、  今に庄と金剛寺と、村落ニカ所に成っている由。按ずるに天和(1615年)の誤りか」

つぼの組

前 山   三間    山手の前の村、すなわち前山と名づけられたと伝える。前山は井波瑞泉寺の開基、本願寺五世綽如が五ヵ山布教の折、度々通過した古い村で、綽如が杉谷村に草庵を結んで布教に恵念したと伝えてい る が、『瑞泉寺記録帖』に、杉谷は天正のころ、前山村と改名したと註記してある。

かなや組

明ケ( 原)   元和五年(1619年)の調べでは「 明ヶ 」となっている。名ヵ原村のことである。茗荷が繁茂した一面の原であったので、茗ヵ原村と名づけたと伝えている。明応二年(1493年) 砺波郡東保村の 人によって開拓されたと伝える。寛文十年の村御印に村名の頭に小さく東保とつげられているのはそれを意味するものであろう。

おとし     八間        落シ村と書く。古く村民が生業として、庄川の川原へ材木や薪を落として(鎧壁付近からか)金歴・岩黒村など下流の村へ出していたところから、あるいは合戦に破れた落武者が住みついたので名づげられたとも伝える。

ゆの谷    六間        湯谷村と書く。 庄川の谷間から温泉が湧出するところからこの名がある。 湯谷温泉の泉源にその名残がみられる。 同名の村が郡内にニカ所あったので、明治になって一時「東湯谷村」と称えていた。

ゆ山    九間       湯山と書く。温泉が洒き出していたので、名づけたものであろう。『郷村名義抄』に「湯山・湯谷右二ヶ村の山の下を庄川流れ申候、川の内に湯出候に付、湯山村・湯谷村と申由、 申伝候」とある。

横住    四間       鍬崎山(牛獄)の北側の斜面に居住していたので名づけられたものであろう。この村は二本杉峠を越え富山藩領へ抜けられる間道として利用されたという。この村の人家の密集地は、平安の昔牛嶽の修験行者が闊歩した土地で、あたかも宿坊でもあったようなたたずまいをみせている。

かくれ丸    一間        隠尾村のこと、隠れ追うという意味か。   天正六年(1578年)上杉謙信に攻められた南部源左衛門が住みついたといわれる。南部家系の一節に、元和元年(1615年) 五月、大坂の役に豊臣方の南部源三郎は戦い破れて主従七人で庄村広谷から谷つたいに二の平に隠れたるをもって隠尾と称す、とある。二の平は往古、庄村領であった。

小    牧    七間        庄川左岸の村。村内に水の渦巻く所があったのであろう。上流利賀村大牧(温泉)村に対し小牧と称している。 また同村内に、北牧という所があり、さらに下流赤岩付近左岸に牧という地名が残っている。

いわくろ    八間       岩黒と書く。 山麓の傾斜地に出来た村のため、岩や石がゴロゴロした畔が多かったのでこのように呼ばれたとも考えられる。「 老翁古碑」に「・・・・今を去る七百年以前、大河急流に幅二十間、  長三十間余の平坦黒色の大岩あり、金矢を以て一部を穿ち鏧り、この急流を堰上げ、この支流は穴田島を経て川上村荏再開拓せり、その後党文年間(1661年~)大洪水の際、 奔流変遥東方に移れり、 即ち今葛掛の渡口猶存せり、......」とある。

かなや 二十三間 古くから金屋岩黒村と呼称されてきたが、元和五年(1619年)以前は、かなや・藤かけわたり・いわくろの三村からなっていた。後に藤かけわたりを吸収し、さらに岩黒村と合して金屋岩黒村となった。金屋は庄川の咽喉部にできた村で、 飛騨からの流木で材木の集散地として栄え、街道筋は古くから町を形成していた。中世のころ、鋳物師が住みつき、戸数も1,000戸を数えて繁昌したが、 疫病大流行で四散したという。 今も緞冶屋橋という小字があり、西部金屋(高岡市)はこの村人の移住した村と伝えている。

藤懸け渡り    四間   庄川を右岸・左岸へ渡る交通の要衝、 藤の網を掛け、その網をたどって舟を対岸に渡した舟渡場があった。 付近一帯を舟戸と称している。

三谷   ニニ間    嘉応二年( 1170年) 西行法師が巡錫の折、お伴の西住(三谷出北)の知能を試そうと、「折り焚かん無明の山の柴枝を」と口ずさんだところ、すかさず「ふた谷の奥三谷川まで」と下句をつけたので、西行はいたく、西住の才能を賞讃し、このことを村人に語ったので、この村を三谷と呼ぶようになったという。三谷とは、一の谷・谷内谷・尾の谷の三つの谷を総称していう。

以上村数一四カ村、一二七間(戸)であるが、 一六年後の寛永十一年( 1634年)の『 砺波郡拾弐組村名附帳』によると、庄川町旧村関係の村は、江田次郎兵衛組が前山・金屋・岩黒・小牧    青島の五カ村

青島村       庄川には、古くから野尻川・千保川など数多くの分流があった。その中に、本流に近いところでほとんど一つの島を形成し、地味肥沃で青々とした草むらが生い茂っていたところから、 青島と名づけられたと伝え る。『郷村名義抄』に「この村に先年庄川の中の島と申す所あり、元和七年(1621年)新開仕り、村立申すにつき青島と申候」とあり、二万石用水から南の地区を今も中之島と呼んでいる。

高堀与兵衛組が古上野・五ケ新のニカ村

古上野村 『郷村名義抄』に「この村は昔、上野村といったが由来が知れない」とある。しかし、かつて千保川の洪水で居屋敷や田畑が流れたので上野村を立ち退き、高堀 (福野町)・長源寺(福野町) ・墓浦(井波町)の領内へ引越し、 別に上野村を立てた。その後、千保川の洪水もなくなったので、元和三年(1617年)、それら百姓のうち元の村へ帰った者は荒地を開拓して一村立てとし、古上野村と呼んだ。

五ケ新村 『郷村名義抄』に「 この村、寛永(1624年~)のころ五ヶ山の内、大牧村与市郎と申す者新開仕り、村立申すに付、五ヶ村と申す由に御座候」とある。 寛永十一年『砺波郡拾弐組村名附帳』には「五ヶ山新村」となっているが、正保三年(1646年)『利波郡高物成田畠帳』には五ヶ新村」となっている。

東保吉右衛門組が三谷・落シ・湯山・横住・隠尾・名ケ原・金剛寺・庄村・湯山新・ニつ屋の             カ十ヵ村

二ッ屋村 古来、 家が二軒であったことから名付けられたもので、奥山によくある地名で、砺波郡内にニヵ所あり、時は東ニッ屋村といって区別したこともあった。
明治になって以上の十七ヵ村で、元和五年( 1619年)から寛永十一年までの一六年問に退転したと見られる村は「 藤懸け渡り」の一村で、「 湯山新村」は「ゆの谷村」のことであろう。この間新しくできた村は「青島」「 古上野」「 五ヶ山新村」「ニッ屋」の四ヵ村である。

正保三年(1646年)加賀藩は幕府へ高物成帳を提出している。金沢市立図内館にその物成帳の下書と、 それに添えて差し出す越中国の絵図控がある。その高物成帳の下書をみると、領内村々の統廃合を行っていることがよくわかる。 庄川町関係では、筏新村草高二六石七斗八升と、五ヶ 新村二〇石一斗五升の二村は古上野村へ編人され、三村合わせて一〇五石四斗となり、隠尾村四五石七斗一升は横住村へ編入され、二村合わせて一〇四石四斗八升、青島新村四〇石四斗三升は西部金屋村へ編入され、合わせて七三三石七斗四升となっている。金剛寺村四二五石九斗は庄村四二五石八斗五升を合わせて一村となった。  したがっ て、正保三年の庄川町地区関係村名は

(筏新村)  古上野村  ( 五ケ新村)落シ村    横住村    湯谷村    ニッ屋村  ( 隠尾村)  西部金屋村    金屋村 岩黒村 三谷村  (青島新村)  金剛寺村    湯山村    名ヶ原村  (庄村)  小牧村    前山村    青島村の一五ヵ村で、編入された村(括弧内)は五ヵ 村を数える。

寛文十年、年貢を新京枡によって計ることを命じたので、明歴元年(1655年)の村御印を書替える必要を生じ、寛文十年九月七日、改めて村御印を下げ渡した。この時点で金屋村・岩黒村が合して金屋岩黒村となり、庄村・金剛寺村が一村となって庄金剛寺村と称えた。 また、新たに示野新村・高儀新村・筏村の三村ができ た。

示野新村        示野の地名の起源は明らかでない。この村は明麿三年(1657年)に村立てした村で、比較的新しく開拓され、二万石用水左岸上段のいわゆる第三河岸段丘の原野を開墾したことから野を示しているものであろう。

高儀新村        この村は、高儀村(福野町ー当時高堀与兵衛組)の村人が移住して開拓した、いわば出村である。 旧千保川筋を開拓したため比較的に細長く、飛地の多い村となっている。

筏   村    筏村は字のごとく筏に乗って移住し、開墾した人々によって村立てして名づけれられたと伝える。

降って幕末の天保十年(1839年)の砺波郡の組数を見ると ニハ組あ り、 村数は六六一ヵ 村を数え、前記貞享元年の五〇四ヵ村に比し五七ヵ村の新村が増加している。庄川町関係では示野出村・庄新村・高野新村の三ヵ村ができて、寛文十年の一八ヵ村がニーカ村となり、前に述べた元和五年の一四ヵ村に対し、天保十年までニニ〇年間に七ヵ村が新しく誕生したことになる。

示野出村        示野新村の出村、延宝元年(1671年)同村領内において、草高 一一五石余を新開一村立てしたものである。

庄新村 寛文十年(1670年) 青島村領内において草高一八石余を新開し、「 村立てしたものである。同年さらに五ヶ村・高儀新村領において一六石余を新開したが、この村に藩内一統の村御印が下付されなかったのほ、同年の九月以降に村立てされたためと考えられる。なおこの村の新開は庄村の住人によってなされたと伝えている。

高野新村 文政七年(1824年)野尻野新村の住人が、示野新村領内の開拓地(草高二〇石)をもって唱え替え、一村立てしたものである。

出典:庄川町史

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