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金屋の鋳物師

金屋の鋳物師

7月 13, 2022 歴史 by higashiyamami

鋳物師の起源

中世における庄園制の発達は一方で産業の分化をうながしたが、原始工業も営まれ、なかでも金属業と織物業は、その主要な部分を占めるものであった。交通・運搬の思うにまかせぬ時代において、ことに金属工業は原料の産出と流通の状態に大きく制約された。

鉄は古来中国地方が主要産地として有名であるが、 伯耆(鳥取限)・美作(岡山県)・備中(岡山県)・備後(広島)・筑前(福岡)などの諸国では、調・庸に鍬・鉄をあてたことが延喜式にもみえる。日本海側の地方では出雲産が名高く、また『新撰類聚往来』には「能登・越中利鉄多鋳大器」とも記されている。鉱山に産する鉄は大部分砂鉄であり、市場に商品として流通するようになるまでには、 野炉と称する竪穴式溶鉱炉で精錬しなければならなかった。 それは好天の打ちつづくときに地を掘り固めて平炉とし、これに砂鉄を盛り、その上を木炭でおおい加熱して錯融還元し、鉄を炉底に集める原始的で煩雑な方法であったという。これに加えて鋳物・鍛冶の作業は特殊な技術を要するため、需要の増加とともに他の手工業に先んじて分化し、独立して専門の鍛冶屋・鋳物師などとして庄園内に分かれ住んだ。鍋・釜など日常使用する生活用具や鍬・鋤などの鉄製農具をはじめ、刀剣などの武器を製造する点において、鍛冶・鋳物業は農民にとっても領主にとっても必要欠くべからざる工業として、 庄園経済の中に高い地位を占めたことはいうまでもない。例えば平安末期、河内国日置庄の鋳物師らは蔵人所供御人として、多くの農民が負担に苦しんでいた諸雑役を免除され、諸国往還の自由を与えられ、通行税を免除されるなど数多くの特権を与えられていた。しかし、はじめは需要も限られていたため各地に遍歴流浪して、鍋・釜の類を販売するとともに注文に応じて鋳物を製作するのが実際の姿であった。

砺波郡の鋳物師

今日でこそ鋳物と言えば、すぐに「高岡」と言われるほど高岡の鋳物業は有名になった。 しかし高岡に鋳物師が定着し、 鋳物の生産が集中するようになったのは近世以降のことであった。中世における越中の鋳物業は『東寺百合文書』によって、 射水郡と砺波郡にその中心があったことが知られている。

応永二十年(1413年)室町幕府は諸国に棟別銭を課した。 これに対して蔵人所燈炉供御人年預定弘は東寺法輪院に、綸旨をもって、越中国鋳物師などの棟別銭を免除し、勅役の勤仕に専心できるよう要求して申状を提出し、それとともに建暦三年(1213年)および貞応元年(1222年)の牒案、玉堂殿施行案三通、 富樫方施行案一通を副進した。これらの史料が一部『東寺百合文密』の中に保存され、また『松雲公採集造編類纂』に収録されて、今日砺波郡の鋳物師の実体を知る貴重な手がかりとなっている。

永和二年( 1376年)五月十四日伊豫守(斯波義種)あての斯波義将の書状は、諸国七道市津関渡津料、  つまり通行税徴収 や、地頭・守護所神人先達らの妨害の禁止を伝えている。富樫宗直はこの密状の旨をうけて同年七月十一日、二宮信狼入道に対して砺波郡の鋳物師らに公事を課することを禁じている。  義将施行案にせよ富樫宗直施行案にせよ、停止命令の根拠となっているのは、勅裁・院宜・御牒あるいは、 武家下文などであるが、 最初に掲げた牒案はおそらくその最も基本的なよりどころとなったものと思われる。ところがこの牒案は、文書形式および内容において不審な点がある。「内裏蔵人所燈櫨供御人越中国野金屋鋳物師等申」の書き出しは 私文書ならともかく、蔵人所という公的な機関から出された公文書としては考えられない形式である。また二宮入道の公事宛課を嘆いているが、 二宮氏は南北朝期にあらわれる斯波氏の被官であり、この時期に砺波郡の公事徴収にあたったとは思われない。さらに文書の末尾には蔵人「蔭子」の署名があるが、蔭子とは蔭位をうける資格のある親王や五位以上の者の子をいうのであって、一つの制度であり署名の際に忠くべきものではない。 また蔵人所の役人として署名した人々が藤原とか中原とか姓のみを買いて名前を書いていないのは、省略としても有り得ないことである。つまりこれらの点はいずれも今日数多く残存している鋳物師偽文書の例にぴったり合致するものなのである。だからといってこれは決して砺波郡の鋳物師の存在を否定するものではない。特殊な技術者として鋳物師は古くから諸役免除・通行税免除などの多くの特権をもつものであったところが産業の発達とともに各地に鋳物業がおこり、新たな鋳物師集団ができてくると、彼らのうちにはにわかに蔵人所牒をふりかざして、特権を占有するものがあらわれ、必然的に多くの偽文書が生まれたものと考えられる。砺波郡の鋳物師もこうした新興鋳物師集団であったのであろう。一通の偽文書の陰から、新興集団なるがゆえに既存の特権の獲得に血まなこになって、 あらゆる手段を駆使した彼らの姿がうかがわれるのである。

庄金屋と鋳物師

古い時代の砺波郡の地域には、 庄金屋(庄川町)・西部金屋(高岡市)・金屋本江(小矢部市)・高宮金屋(福光町)などの地名が見える。では、史料にいう砺波郡の金屋とは一体どこを指すのであろか。  この現地比定 に『 高岡史料』の次の一文を考え合わせなければならない。

金屋町に住せる金屋職人即ち鋳物師の祖先は、往昔河内国丹南郡狭山郷内日置庄に在りしが、元暦元年(1184年)  狭山より越前の府に移住し、未だ幾ばくならずして建久年中( 1190年~)加賀国倶利伽羅の辺、毛利の里(今の幡町河内)に転居し、更に越中国砺波郡落合開発に移り、又転じて同郡即ち西部金屋村に住居し、氏を森と称し、分戦せし者は林と称せり。慶長年中(1596年~)前田利長高岡在城の時、 西保金屋より特に召されて高岡に移住す。是れ後来高岡金物職人の濫觴なり。

落合開発ー  西部金屋ー  高岡と、 この鋳物師の移動が現地比定の一つの鍵である。  これについて、  従来からいろいろな説が述べられてきた。  林喜太郎は小矢部市金屋本江村から高岡市西部金屋、そして高岡に転住したとし、 中川弘泰は高岡史料の落合開発を庄川町金屋に、 西保金屋を高岡市西部金屋にあて、 天正年中には落合開発に居住した鋳物師が、慶長年中に西部金屋に移り、さらに高岡に移ったとしている。 また豊田武は『東寺百合文書』の都波郡野市金屋を庄川町金屋にあて、その鋳物師が北般若村西部金屋へ、 そしてさらに高岡市金屋町へ移っていったとしている。ところがここに木倉豊信は新しい史料を提示した。高野山宝亀院所蔵の『 疏論義』奥忠である

越中国於般若野々庄金屋談義所書了

正長元年十一月   日                    「 宥義」

この史料は正長元年(1428年)の当時、  般若野庄に明らかに金屋の存在したことを示している。 般若野庄金屋とはいうまでもなく西部金屋のことである。 これが現存史料で見られる砺波郡の最も古い金屋であり、先の庄川町金屋・小矢部市金屋本江からの転住に疑問が投げかけられている。 つまり、庄川町金屋については残念ながら史料によって裏付けることは困難なのである。ただ『 東寺百合文書』にあらわれた二宮信濃入道は寛政六年(1465年)九月山斐郷を押領しており、このあたりの代官であったことが注意をひく。今でこそ、庄川は幾多のダムや堤防により整然とした流れを見せているが、かつては人の手も及ばず自然の勢いのままに奔流していた時代にあっては、この水系のあちこちに砂鉄を産する州が存在したであろうことは想像にかたくない。そして近くに川と大量の薪を産する山々を控え、南方の井波には天台宗止観寺や浄土真宗瑞泉寺の需要先がある。現在の庄川町には確かな文書もなく、金屋とか鍛冶屋橋とかの地名しか残っていないが、この地に中世は鑢の煙がのぼり、鍛冶屋のつち音が響いた情景を想像することも、あながち的はずれなことでもあるまい。

出典:庄川町史

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