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各用水の沿革

各用水の沿革

12月 1, 2022 歴史 by higashiyamami

山見八ケ口用水

庄川の諸用水の中で、最上流に取入口をもつ山見八ヶ用水の特権は、下流の諸用水から十分尊重されつづけてきたが、最も高い所を灌漑しているので通水量は常に不足し、合ロダム建設までは俗に貧乏用水と呼ばれてきた。この用水は、鎌倉時代末期に金屋銚子ノロの赤岩付近で庄川を堰き止め、取入口を開設したと伝えられている。新用水も同地点で、同時代ごろに開設したと伝えられ、いずれが先かは判然としないが、八ヵ用水は宝永七年(1710年) から新用水の分派として所属するようになった。理由は、 八ヶ用水と新用水の取入口はもともと別であったが、この年の改修工事で二用水が合口したことによるものと察せられる。名称を「 山見八ケ」というのは、山見・北川・高瀬・戸板・今里・沖・川原崎・三清・北市の九ヵ村を灌漑していることによるもので、山見村外八ヵ村を意味しているのである。

延享三年(1746年)、山見八ヶ用水・新用水・野尻岩屋口用水の三口を合口する工事を完成させたが、 寛延二年(1749年)、三口共同の取入口では通水が不十分なため上流で山見八ヶ用水に取水させ、長さ五〇間(約91m)、 高さ一丈(約3m) の専用取入堰を設け、工事費は野尻岩屋口用水で負担することにし、さらに、安永五年(1776年)取人口水門を特別に新調し、江柱も改修した。寛政十一年(1799年)、八田村八郎右衛門が山見八ケ用水に灌漑水を求めて、示野・金屋岩黒・坪野などの林野の開墾を願い出たが、「 今でさえ江下農民は水不足に悩んでいるのに、ほかへ分水することは迷惑なことである。新田聞発願いを取り下げてほしい」と、奉行所へ断り書を提出した。この八ヶ用水の改修工事の歴史をたどっ てみると、

文政八年(1825年)  金屋地内で「用水立揚底掘普請」を御郡奉行へ願い出て、銀商二十貫の補助を得て修結した。

天保十年(1829年)用水の一般工事費に、補助(郡打銀)が廃止されたが、特別の補助を得て取入口を穴繰浪込(トンネル式)にした。

天保十一年(1840年)金屋地内で用水才許検分のうえ、特別補助金、銀高七〇貫余を拝領して他用水に見られない普請を行った

明治三十八年 底が浸食され、必要水量が不足してきたので、自然流入のほかに水車一台を設けて揚水する方法をとったがそれでも通水量が少なく、江下農民はいつも水不足に悩んだ。

大正五年    さらに水車二台に増加したが、水不足は依然として解消しなかった。

同五年    水車を電カボンプに改めた。

昭和七年 さらに電カポンプを増設したが水不足は解決しなかった。

同十七年    用水の通水をよくするため取入口から数百mにわたって用水路をコンクリートで改修した。

同二十一年 合ロダムが完成すると、八ヶ用水取入付近を改修した。

同二十八年 ポンポン野付近の大改修を行った。

同三十一年    東山見小学校付近の暗渠工事を行い、これで山見八ヶ用水路の庄川町地内の工事を完了させることができた。

明治三十八年からのこの一連の工事は、高い所へ通水する必要上、山見八ヶ用水だけの特殊施設を施し、野尻岩屋口新用水の共同取入堰より五〇間上流に専用取入堰を設け、共同水路の西側に併行して導水路を掘り、水車で共同水路から揚水して必要な水量の確保に努めた。用水管理は、新用水分派であるため、藩政時代は野尻岩屋ロ・新用水合同管理の下に置かれていたが、明治三十五年三月、共同水路を管理する二万七千右普通水利組合が設置されると、同年十二月、山見八ヶ用水普通水利組合を設置、管理役場を南山見村に置いて、組合長には南山見村長が就任した。昭和二十七年八月三日、さらに、山見八ヶ用水土地改良区に改組された。

新用水

開設年代は明確ではないが、大体、鎌倉中期ごろと伝えられている。取入口は開設当初から「金屋岩黒村合渡牧銚子 」付近で、川の中程にある赤岩によって、自然流下水を巧みに取り入れていた。庄川諸用水の中で初めて掘削工事を施して開設した用水路であるので、新用水と名づけたといわれている。江高六、〇〇〇石余りの地帯を灌漑していたが、 宝永七年(1710年)山見八ヶ用水江高一、〇〇〇石余りを分派として編入したので、七千石用水ともいわれている。寛文十年(1670年)「 金屋赤岩用水丁場、寛文十年堀入、但村田久右衛門と云奉行也」という旧記があり、藩が新用水江敷として三石余りを引き高にしていることは、他の用水に類例のない特典であるから、古い証拠だともいわれている。ちなみに金屋赤岩丁場は金屋岩黒合渡牧銚子と同一場所である。

新用水は寛保三年( 1743年)藩の治水と農政水利の立場から、改作所の強い指導と十村などの勧誘によって、金屋岩黒地内舟渡の旧舟戸口用水古口(現在の合口堰堤魚遊付近)に取入口を持っ ている野尻岩屋口用水と合口することを強要され、延享三年(1746年)、⑴用水量に不足させない⑵同上費用は一定額以上の負担はさせない、という条件で合口に応じた。野尻岩屋口用水が新用水へ合口するに当たって新用水の水路を広げる工事を延享元年(1744年)に着工し、総人足五万六、〇〇〇余人、費用銀四五貫余り、松材五〇〇本、それを切り出すため大鋸職人(きりこ)を井波付近から強制的に就労させた。さらに安永三年( 1774年)同用水と鷹栖ロ・若林口用水との合口も提唱されたが、山見八ケ・ 新用水・野尻岩屋口の三用水江下村民は、迷惑であるという理由で拒否し、その翌年、分水の提案があったがそれにも反対した。また、用水管理上の諸問題(用水敷の建物・水車設置など)にも相次ぎ関係住民との確執が多かった。

明治十二年新用水分口調べ

山見八ケ用水

金屋岩黒村地内二於テ分ロヲ以テ取下シ、井波町・坪野村ヲ経テ北川村・山見村・高瀬村・北市村・戸板村・今里村・川原崎村・沖村ヲ流通シ三清村二至リ旅川二注グ

金屋用水

 金屋岩黒村地内二於テ分ロヲ以テ取下シ青鳥村ヲ流通シ舟渡口用水へ注グ

示野用水

金屋岩黒村地内二於テ分ロヲ以テ取下シ示野新村・示野出村・松林村ヲ流通シ岩屋(口)用水へ注グ

岩武用水

金屋岩黒村地内二於テ分ロヲ以テ取下シ青島村・岩武新村ヲ流通シ野尻用水分口岩武口用水へ注グ

三清五ケ用水

示野新村地内二於テ分ロヲ以テ取下シ坪野村井波町・北川村・山見村・高瀬村・戸板村ヲ経テ、 北市村・三清村・森清村・安清村・江田村ヲ流通シ旅川一注グ

坪野用水

示野新村地内 二於テ分ロヲ以テ取下シ松崎村・松林村・高儀新村・庄新村・坪野村・高瀬村へ分派シ、 野原村二至リ旅川へ注グ

新用水旧慣遺法

一、新用水ノ儀ハ堀立年号不詳、庄川通リ金屋岩黒村地内字ゴホトウ牧チヨシト申ス所二於テ庄川ヲ新二堰上ゲ、山見八ヶ用水・金屋用水・示野用水・岩武用水・三清五ケ用水卜六ロニ分派シ、江下流末二至リ旅川等へ注グ

一、右用水江敷ノ義ハ官地ニシテ、取ロヨリニ番水門野尻岩屋口用水取分ケロ迄へ、幅四間有之単立ノ用水二候処、寛保三年野尻岩屋口用水ヲ合ロノ義申立、延享三年十二月新タニ合口相成、野尻岩屋ロヨリ金屋岩黒村地所ヲ受地二仕、江敷三間増、当今江敷七間ニシテ取入費用ノ割当ハ、享保十九年ヨリ延享元年迄十ケ年入費平均ヲ以、野尻岩屋口用水へ左ニ書載セシ米金年毎相渡、其他如何程入費相掛リ候モ、新用水江下ニハ割当不致、野尻岩屋口用水江下ニテ支弁スべキ事二相極相成居候

一、九石九斗弐升壱合 新用水取入料米並雇人足代 江柱普請水門番人給米 享保 十九年ヨリ延卒元年マデ十ケ年間ノ平均一ケ年米高

一、五百七十二人 右用水下人足同断

一、六十九本一歩八厘 長二間成木同断

一、四百八十四本二歩 長一丈成木同断

一、四百八十四俵 同断

但前記ノ米等野尻岩屋口用水へ相渡来リ候処、天保十五年ヨリ米ノ外、成木俵ハ代金図リヲ以テ、当今三十二円九十四銭ニ取極、年毎右口用水江下へ相渡来リ候

一、堰入一番水門口坪    六坪四タ

一、野尻岩屋口用水取分ケニ番水門口坪    二坪

一、水門伏替等ノ節ハ、江下村総代並差配人立会協識ノ上修繕仕来リ申候

一、二番水門口堅メ左長一間五尺六寸

一、堰上ゲノ義ハ耕地用水及飲用水二付、秋季切払不致、併江筋二於テ損害ヶ所等有之節ハ、江下村総代並差配人協議ノ上、修繕中堰切払可申候

一、用水差配人及水守給料ハ、年給ヲ以米穀ヲ給シ、其他該用水二関スル諸費ハ、江下水当リ高二応ジ徴収仕来リ申候

水門等諸修繕ノ節ハ、差配人及江下村総代立会協議ノ上、出来致シ費用割当ハ、水当リ高二応ジ徴収仕来リ申候

一、干魃ノ際野尻岩屋口用水減流候トモ、新用水二於テハ分水不致取極ヲ以従来十分水堰入来リ候

一、新用水分口山見八ヶ用水ノ義ハ、宝永七年新用水へ新タニ相加リ、 金屋岩黒村領地大曲リト申処ノ下手ョリ分ケ入来ル候処、新用水へ野尻岩屋口用水相加リ候後、右用水下シ方減水致シ流末村干損候二付、底堀リ致シ山見八ケ用水高ロ二相成、寛延二年同村領字ゴホトウ牧チヨシト申所へ山見八ケ用水取入ロヲ立揚ゲ、古元ロヨリ上ミ現今取入ロマデノ江筋敷地ハ、金屋岩黒村ヨリ野尻岩屋ロヘ受地卜致シ、江敷代並修繕費及取入費用ノ義ハ、悉替野尻岩屋口用水ヨリ支弁スベキ事ニ取極相成候得共、万一古ロヨリ上ミ手江筋修繕方等閑二相成用水指支候時ハ、  古ロヨリ堰入可丘中事二取極相成申候、且古ロヨリ下モ江筋修紹方ノ義ハ、江下村総代並差配人立会協議ノ上修繕仕、費用割当ハ水当リ高二応ジ徴収仕来リ申候

一、右用水江敷ノ内、金屋岩黒村地内反別三町六反七畝十七歩、古ロヨリ上ミ野尻岩屋口用水卜同調ノ江敷ニテ相謀リ不申、古ロヨリ下モニ反別七反一畝二十四歩、井波町地内反別二反二畝二十五歩、山見村地内反別四反二十四歩、戸板村地内反別六畝五歩、今里村地内反別一反十二歩、五領村地内反別一畝二十一歩、川原崎村地内反別一反八畝十四歩、其ノ他官有地二御座候

一、右用水取入一番水門口坪    五合ニタ五オ

一、干魃ノ際養水減流スルトキハ、差配人並江下総代協識ノ上、旧江高ニ応ジ時水割ニ致シ来リ申候

一、新用水分口三清五ケ用水ノ義ハ、往古北市村・三清村ニケ村ノ用水ニシテ、坪野村領地字十割坪卜申所ヨリ取分ケ来リ候処、尻高用水ニシテ流末干損候二付、元禄二年示野新村領地三ツ屋卜申所へ取分ケロヲ立揚げ、其後森清村・安清村・江田村相加リ申候

一、該用水江敷ノ内坪野村地内反別三反一畝三歩、山見村地内反別五畝十九歩、北市村地内反別四反四畝八歩、三清村地内反別一反五畝二十五歩、森清村地内反別二反三畝二十七歩、安清村地内反別六畝二十五歩、其ノ他官有地二御座候

一、該用地水配ノ義ハ、北市村・三清村ハ常水ニシテ、外森清村・安清村・江田村ハ時水割 二仕来申候

一、干魃ノ際養水減流スルトキハ、差配人並江下総代立会協議ノ上、分水仕来リ候

右ハ新用水関係村村旧慣法如斯二御座候 以上

江下総代二十九人連署

二万石用水

二万石用水の名は、米作二万石の収穫がある水田を灌漑している用水路であることから名づけられ、明治三十三年、野尻岩屋口用水を二万石用水( 普通水利組合)と改称したときにはじまる。用水江肝煎 は、寛永十三年( 1636年)に岩屋口用水側、明暦二年( 1656年)に野尻口用水側と別々に任命されていた。また「 庄川筋用水江高書上げ」には、明暦元年( 1655年)のものには野尻口用水と岩屋口用水が別々に記録され、寛文十年(1670年 )のものには「 野尻岩屋ロ用水」と両用水口がまとめて記録されている。このことから野尻口と岩屋口は、もとは別個の用水であったことが知られ、このころに共同で取水施設を造って一つの用水にしたものではないかと察せられる。開設年代は不詳であるが、二万石用水灌漑地域は旧野尻川流域であることから、開田が進むにつれて部分的に改修していた野尻川の水路を、系統的な水路としてつなぎ合わせていったものと考えられる。

庄川本流の流路は、 応永十三年(1406年)の大洪水で高瀬川から野尻川に移り、天正十三年(1585年)

十一月の大地震で中村川・千保川に移動したと旧記にある。応永( 1394年~)のころから徐々に開田が進められ、 天正(1537年~)のころから「用水路が整備されて新田が開発され」、「新田開発を進めるために用水路を整備する」といったことが繰り返されたものと察せられる。江高が明暦(1655年~)から天明(1781年~)までの約一三〇年間に急増した大きな原因は、弁才天前川除普請(松川除築堤)によって用水路を整備固定することができ、開発した新田が安定したためと考えられる。天明以後はもはや開発し尽くされ、未開拓の土地がなくなったものと察せられる。なお天保十年(1839年) ごろの高方仕法(税法改正)によって砺波郡は一割方増徴さ れているが、開発による増収というより行政施策による増徴を考慮の中へ入れなければならない。

野尻岩屋口用水の取入口は、寛保三年(1743年)までは松川除堤防の最上流、今の庄川合ロダム付近に設けられて次のように維持管理されていた。寛永六年(1629年)五月、用水取入堰の維持管理をするため専用のいくり舟二艘の新間を御算用場へ要望し「岩屋野尻口用水、水取入堰は、他の口と違い庄川一番口は以之外の荒川に御座候故、舟を以て鳥足入不申候得ば、大いくり舟二艘無役舟にて御赦免被成下候」と述べ、許可された。松川除が完工する直前の正徳四年(1714年)九月、野尻岩屋口用水の川除が破損したので、御納戸銀で普請できるよう願い出て許可されている。 正徳五年、取入口が洪水で破損したので、普諸用の松材ニ八〇本を坪野村有林から拝領して伐採する願いを出し復旧工事を 行った。寛保元年(1741年)、赤岩付近で新用水が藩の補助で用水路を改修した。この工事の成功は、藩が寛保三年に野尻岩屋口と新用水を合口させるのによい判断資料になったと考えられる。

野尻岩屋口と新用水の合口は、寛保三年、藩の強力な庄川治水方針によって実施され、その指導保護で存続してきた。明治三十年、両用水の利害関係が対立するようになり、紛争は行政庁間で解決されず法廷で争われたが、三十九年県知事の裁定で和解した。争点は合口に際して臨時費・経常費とも、新用水は旧慣による一定額より負担しないという条件を、無期限に約定していると主張したことに基因していた。

シッカゴのドンド(敷寵の分水堰)     敷籠に関する史料としては、「 安永七年(1778年)敷籠前に鳥足始めて築造せり」とあるのが初見であろう。敷籠とは、割竹で編んだ長大な籠に石を詰めて護岸に使う蛇籠を、敷きつめたとこるから呼称されたものと考えられる。 馬足は木材を三角錐に組み、互いに連結して川の瀬を堰き止めるか、流路を変更させる堰を造るためのものであるから、この年に蛇籠を敷き詰めていた所へ鳥足で堰を造ったということになる。敷籠は変動する用水河床を一定の高さに保って一定量をここで分水していたものであろう。そしてこの年初めて鳥足に改めたのは、高い所へ多量の分水をするためである。当時青島・種田地区は、松川除築堤工事後急速に旧川跡地帯を新田開発し、残された所は配水困難な高所(微高地)であったと考えられる。このことから敷籠で水位を三~五尺(0.9~1.5m)高めることによって、さらに残された高地に送水して新田を開発することができたと察せられる。

「 天保十一年(1840年)十二月野尻ロ・岩屋ロ・苗島口取分敷籠普請見図り覚、十村見届、郡打銀を以て申渡旨申渡さる」とあることから、敷籠は野尻口用水・岩屋口用水・苗島ロ用水に分水している所で、その分派用水路網は複雑なところから、この年の八月に三つ巴になって相競い、十村の裁断を仰いでいる。そんなこともあってかこの暮を期して敷籠分水場の大整備をしたと考えられる。郡内十村が協議の上設計した蛇籠は直径二尺(0.6m)だが、長さは二間(3.6m)を標準とし、九尺(2.7m)から四間(7.3m)までいろいろあり、数は一〇七個、人足八五人、総費用約三二貫文であった。工事費は藩費負担であるから農民に問題はなかったが、開発が進むにつれ各所に水不足が発生し、分水量の多少による争いがみられるようになった。そこで公正な配水が必要となり、計画書にも野尻口ヘ向かう分、十兵衛江口分、岩屋ロ分、苗島口分と分水口を明記している。とくに十兵衛江口分については六尺杭ニ〇本を留柱とし、筵一〇束を七間(12.7m)懸延べ、苧縄四〇本で籠と留柱を寄りかけると記していることから、十兵衛江口は高所で取水していたようである。  次に、「安政七年(1860年)正月、敷籠は従来籠にてエ事せしも此歳始めて木材に変更せり」とあり、 これまで籠で普請していたが以後木材で工事することに変更され、これは前年の暮までに用水関係農民で相談して決定したことであるから、分水については木材で工事した方が狂いがなく、籠分水より安心できるというのがその理由で、竹籠による適当な水量の配分では満足できず、厳正な配水のため木枠を組んでもらおうということであろう。「 明治七年五月九日敷籠改築につき、青島村野村伝九郎へ請負を命じたり」とあるのは、分水地点の敷籠工事は安政七年に杉材で施行したが、老朽して建替えの必要が生じたのであろう。 水門は幅六尺(1.8m)、  高さ六尺のもの二個と、 幅四尺(1.2m)、  高さ六尺のもの二個が造られ、合口幹線水路ができるまで踏襲されたものと考えられる。

一本橋水門 松川除堤防の築造が完工した正徳四年(1714年)には、二万石用水(野尻岩屋口用水)取入口も一応安定して、本橋付近に水門を設け水量を調節した。もとは藤右衛門前にあったが、宝暦九年(1757年)一本橋付近へ移し新しく水門を築造した。その後、宝麿十三年(1763年)の洪水で、水門の爪掘入留わくが破損したのを修理するなど、数度の修理改築を行った。合口堰堤で分水された二万石用水は一本橋付近でさらに五ヶ用水に分け、旧青島・種田から中野・五鹿屋の各村へ通水し、青島用水は青島・種田・中野・五鹿屋の各村へ通水していた。

岩武用水 松川除の補強工事が逐次施行され、庄川の洪水が野尻川へ流入する危険が少なくなるにつれ川跡が開田されていった。岩武新村は野尻川河身を開拓した村で、中心部は野尻村と隣接しているが、 南北に長く東西は極端に狭い。南は青島上村から下村、種田地区にはじまり、北は津沢近くまで河身を開拓した飛地が点々と連なっている。

岩武用水は庄川町役場裏の俗に浦口分岐といわれる所から取り入れ、 青島・山野・福野・津沢の各町村を通って小矢部川へ注いでいたもので、青島一本橋から律沢まで最短距離を、ほぼ直線に流下する延長8,300mの素掘りの水路であった。水路輻は上流部では4.5m、 福野からは2.8m、途中で高屋用水・川除新用水に分水していた。開設が遅いのに取入れは二万石用水の中で最上位を占め、取入水量も耕地面積に比べて他用水の二倍も認められていたのは、この流路は各所で二万石用水の分流と交錯していたので、用水壁に一定の潜孔を設けて渇水時には分流へ自由に取入れできる、いわゆるカニノアナ権利を認める慣行があったからである。この用水は供業用水路だけでなく、物資運送水路としても利用されていた。  弘化二年(1845年)「 屎物通行」、「井波年貢収納御蔵から津沢御蔵まで、秋から春土用三日まで通舟」が許可された。弘化四年に三〇般の新しい舟が造られ、野島一本橋から岩屋口波止湯を経て津沢まで通い、役銀は一艘につき銀三匁とされた。嘉永六年(1851年) の舟賃は米一石について銀一匁一分八厘で あった。文久二年(1862年)に流材使用規定が設けられ、それには「 金屋岩黒村薪木呂引取之節右用水筋から津沢町迄舟積を以引取候    福野行之分は、木呂場から川流いたし示野村領字坊主野と申す所にて岩武用水から苗加口ヘ移し」とあり、薪・木呂の運送は津沢へは舟積みし、福野へは流材することになっていた。上流の新用水はただでさえ水不足なのに、すぐ下流水路で通船することは矛盾していると反対している。理由は農業用水であれば一時期だけ水を流せばよいが、通船すると年中多量の水を流すことになり、取入口の川底が低下して取水がしにくくなるというものであった。明治二十年ごろから道路の改修、交通機関の発達などにより舟は次第に姿を消し、今は浦口分岐の取入口さえも埋め立てられ、庄川町域では新用水から分流し麦田島を経て敷籠堰に至るごく短い流れに、わずかに岩武用水の名残をとどめているにすぎない。しかし、敷籠堰で二万石用水と合流はするものの、福野町北部からは本来の岩武用水として二万石用水から分岐し、灌漑用水として活用されている。

野尻口用水          天正十三年(1585年)から庄川本流になったといわれる野尻川を、部分的に改修して作られた用水路と考えられる。二万石用水中最大の水路で、青島地内俗称敷籠堰で高さ4.5mの落差をもつ分水堰より下流の本用水は、石積みまたはコンクリー トで補強されている。断面は下幅7.3m、上幅8.0m、 直高1.5mから2.4mで、 下流になるにしたがって縮小され、最下流の野尻村では下幅1.0m、上幅1.5m、直高1.2mとなっている。野尻口用水は二万石用水の五割以上の面積を灌漑しているため支流も多く、最上流の荒高屋用水をはじめ大小七カ所に及ぶ取入口を有している。延長は7,500mに及び、流速を調節するため各所に大小の堰堤を設けていることは 岩武用水と同様であ る。用水路は荒廃未整理のため必要水量の流入は困難であるが、岩武用水の「 カニノアナ」でようやく救われている。その開鑿起源は最も古く、新旧の新田開発による田地が入り乱れて広がっているため、用水路が互いに接近し交錯して不経済な流路が多い。鹿島用水と荒高屋用水、宮川用水と野村島用水など、水路の統合整理が必要となってくる。

岩屋口用水 青島地内敷籠堰の野尻口用水と同所で分派されている。延長5,300m、断面は取入口直下で下幅6.5m、上幅7.5m、 直高1.5mの素掘りで、コンクリートまたは空石積みで護岸を補強している。

灌漑区域は、青島・山野・高瀬・南野尻・広塚・野尻の各村であるが、支流が多く小岩屋口用水以下八ヵ所の取入堰を有する。その主なものは杓子をもって敷を固定し、それぞれ必要水量に応じて取水口幅を決定し、他は自然的な放任取入れをしている。 岩屋口用水は、 応永十三年(1406年)まで庄川本流であったといわれている高瀬川を川を、 部分的に改修して用水路にしたものであろう。

苗島用水 苗島村河辺次郎左衛門系図に「野尻野之内新開畠直し被仰付 貞享四年八月村名を苗島村と願上候」と記されているところから、用水も貞享四年(1687年)に開設されたものと考えられる。岩屋ロ用水とほぼ並行した水路であるから、高瀬川の自然流路を改修して用水路としたものであろう。青島地内敷籠で分水し、取入口直下の水路断面は上幅2.73m、 下幅2.1m、 直高1.5mばから1.0mである。灌漑区域は青島・山野・福野の各町村で延長6,300m、末流は旅川へ排水している。水路は曲折交錯し二本三本と並行して流れており、用水量は常に不足してい る。 山野村地内で新用水・山見八ヶ 用水の排水を受けるため、土砂が流入して江浚に要する労力と費用の負担が多額となり、そこで水路の統合整理に迫られ、昭和二十二年から県営事業で整備された。

二万石用水の管理責任者は前述のごとく、 藩政時代に野尻ロと岩屋口のそれぞれに任命され、江肝煎の所在村は、野尻口では野尻村・苗加村・ニ日町村、岩屋口では八塚・戸保家・岩屋・寺家・高堀・焼野新・野尻新の各村であった。この江肝煎は明治七年以来、用水差配役と称したが、管理区域は藩政時代と変わらなかった。明治三十三年十二月十八日、野尻岩屋口用水を二万石用水と改称、二万石用水普通水利組合規約を制定し、野尻村長が管理者に任じられた。 昭和三年八月規約規定を修正し、二十七年八月三日、土地改良区に改組した。

用水守護神井堰神社はその創始は不詳であるが、赤岩から取水したころから奉斎し、現在赤岩の頂きに桧の柱を立て、水天宮をまつる祠は井堰神社の源流をなすものである。寛政年中(1789年~)に洪水で社殿が流失したが、文政十年(1827年)九月、庄川右岸の庄金剛寺村領の山裾を選んで社殿を建て直し、 遷座祭を行った。今も杉林の中に石段や平坦な社地跡が認められる。当時の例祭は六月十日で、対岸の金屋岩黒村側から川舟数十艘をつなぎ留め、舟橋を架けて江下民が参拝するのを例としていた。しかし豪雨増水の際は危険であったので文久二年(1862年)六月、現在の庄川左岸金屋岩黒村鳥越山の地を選んで遷宮し、例祭日は太陽暦実施のころから七月十日に変更された。大正十五年に大改修を行って現在の社殿ができた。杉の木立の中を、百余の石段を数えて登りつめた高所に、庄川の清流に座す赤岩を見守るように鎮座されている。

鷹栖口用水

水松川除築堤以前の鷹栖口用水路は、中村川の自然河川を部分的に改修して流域の田地を灌漑し、開発が進むにつれて改修が加えられ、 明暦二年(1656年)弁才天前で中村川を用水とする工事が行われた。松川除築堤エ半中の寛文十年(1670年)、野尻岩屋口用水(現二万石用水)の取入口が弁才天前から上流金屋地内の舟戸へ移されたので、延宝六年(1678年)、野尻岩屋口用水の旧取入口へ用水路を掘り進め翌年整備された。以後、昭和十六年庄川用水合口事業が完成するまで長く鷹栖口用水取人口としてつづいた。

鷹栖口用水と新用水・野尻岩屋口用水との合口について、藩は松川除堤防を強化するため、一連の堤防体系の途中に用水取入口のような弱点は排除するという方針を立て、寛保三年(1743年)、舟戸の野尻岩屋ロ用水取入口を新用水取入口である赤岩へ合口させ、安永三年(1774年)、弁才天前付近に取入口を持つ鷹栖ロ・若林口の二用水をも庄川赤岩の取入口ヘ合口させるよう、藩は野尻岩屋口用水・新用水へ交渉したが、江肝煎・村肝煎は「三口で二万七千石の灌漑水でさえ荒起こし期になると用水末端は水不足しているのに、この上、二用水を合口してさらに一万六千石の濯漑をせよといわれてもできないことである」と、異議を申し立て、 藩の交渉を拒否した。安永四年(1775年)、再び鷹栖ロ・若林口用水は野尻岩屋ロ・新用水に対して分水してほしいと願い出たが、前年と同じ理由で拒否された。天明三年(1783年)二月の洪水で鷹栖口用水が取入ロを大破し取水不能になったので藩は本年一カ年だけでも鷹栖口と合口せよと命じた。やむを得ずそれに応じたが合口条件として、(1)前年鷹栖口と合口したが、  用水路に多量の砂利が人って通水がうまくいかず、水不足で迷惑した(2)本年も鷹栖口ヘ合口せよといわれるならば、用水路を広げる工事をしてもらいたい(3)康次費は全部藩賀で支弁されるべきである(4)将来の維持管理費は一定額以外の負担はしないこと、などを申し出た。鷹栖口用水としては、のめない条件を出されたので合口をあきらめ単独取入口を新設したが、嘉永元年(1848年)、またもとの弁才天前に取入口を造った。

若林口用水とは立地条件が酷似しているので、  合口離合は再三にわたった。  明和六年(1769年)、材料運般用船一艘を建造する費用負担について、鷹栖ロ・若林口用水の江肝煎が連名で関係各村へ通達していることから、明和のころは合口していたと察せられる。文化四年(1807年)三月の大洪水で取入堰が流失し、流路が変わってしまったので、翌年鷹栖口は御普請(松川除)六の輪から、若林口は下流  七の輪から取水することになって分口したが、元治元年(1864年)には若林口用水の請願によっ て、また合口した。明治十四年四月、若林口用水は数年前から河身変更のため取水困難となっていたので、鷹栖口用水に合口を申し入れ、双方協議の結果、取水翌用は鷹栖口四分    若林口六分の負担とし、水量は取入水門前で折半することを条件とした。また四十年四月庄川が大洪水となり、取入口が土砂の流入で埋没し、河身も変更した。取水については相互が利害関係で対立し、十数回の協議を重ねたが妥協できず、分離せざるを得なくなった。

舟戸口用水との争議の問題点は、舟戸口用水の取入口が鷹栖ロ・若林口用水の上流にあり、この二用水を途中で横断してその下流地域を湿漑していることと、舟戸口用水路は農業用水路以外に、舟連に使われているという二点にあった。 底栖ロ・若林口用水側にしてみれば、 取入口が上流にあるということは、 庄川の水を先取りされることであり、 下流地域を灌漑することは、 分水余水の恩恵が全くないということである。また舟運水路に使っているということは、農業用水以外に通船に必要な多量の水を常時取られているということである。しかも開設年代は舟戸口の方がずっと遅いので、取水の既得権は鷹栖ロ・若林口用水が優位の立場にあるはずである。こんなことから舟戸口用水と鷹栖ロ・若林口用水との関係は、対立する条件が揃っていた。明治二十九年舟戸口用水が取入ロを変更し、鷹栖口用水取入口上流に接近して設置する工事を始めると、鷹栖口用水江下農民総員が殺到して、舟戸ロ用水路に礫石を投げ入れて埋めてしまった。これに対抗した舟戸口江下農民との間に石合戦の騒動を引き起こしたが、四十二年の洪水て鷹栖口用水は 取水不能と なったので、喧嘩相手の舟戸口と共同堰入堤から取水せざるをえなくなった。四ッロ古上野分水堰(庄川町古上野地内)は、正徳二年(1712年)に築造され、庄川から取水して 中野江と古上野口に分水していた。通称石水門の下でさらに縦口と横江に分水し、縦口はさらに高堰の上で出村口と上町ロ・向島江に三分水した。古上野の四ッロ分水堰ができてからは、苗加江・五郎丸江・鷹栖神島江・西中江に分水した。苗加江・鷹栖江はともに東小口で各江に分水し、横江は古上野で柳川島下江に分水し、鹿島で三郎右衛門江に分水し、二万石用水路下をくぐって俗称「十一間貫樋」を設けて、東野尻村野村島虎岡で各江に分水している。

明治十六年、松川除堤防の小さい丘に「 用水守護所」と刻んだ石碑を建て鷹栖口用水守護所とした。  祭日は当初七月二十四日であったが、大正ごろから四月十四日に変更した。

若林口用水

開設年代は不詳であるが、 松川除築堤以前は現在砺波市・福岡町を流れる岩渡川・山王川・大江川の上流であった。中村川・千保川の自然流を漸次改修して農業用水路としたものと推測される。松川除築堤後は流路を締め切って、廃川となった中村川・千保川跡を開拓したので、 若林口用水の名称は、 若林郷の大半を灌漑したことから名付けられたと伝えられている。古くは用水取入口を西中野村に設けたという記録はあるが、どこの場所か判然としない。松川除が築堤されると、取入口を堤防線上に開口して庄川本流を直接導水せねばならないので、用水路を庄川まで延長するため、用水敷地を西中野領で借り受けた。その後、長く若林口用水側から中野の地主へ用水借地料である江代米を支払っていた。松川除堤防は庄川洪水に対して決して万全ではなかった。とくに弁才天付近は旧中村川・千保川を締め切った所であるから最も破損しやすく、その不安定な所から取水している若林口用水と鷹栖口用水は極めて維持管理が困難であった。

同憂の両用水取入口の利害関係は、状況によって同調したり反発したりした。その経過は前記鷹栖口用水の沿革で述べたとおりである。 明治四十年に、若林口用水が取入口を分離してからは、他の用水も同様に川底は年々低下する一方で、取入堰を高くするため上流へ上流へと新しく増設するので、庄川本流を階段状に堰堤を造らねばならなかった。小牧の高堰堤が築造されてから は、上流から土砂の流下がなく、川底はますます傾斜が急になるばかりで、全川にわたって蛇籠を並べ、鳥足を連ね、川倉を組み、  型牛を設けて長さ五〇〇間(約900m)にわたる堰入堤を造ったが、庄川が増水すると必ず大なり小なりの損害があった。例えば、昭和九年の洪水で下流域は大被害を受けたが、用水関係者の懸命の努力と適切な処置によって用水の被害を最小限度に食い止めることができた。

江肝煎は太郎丸村・東中村から選出されていたが、明治二十九年九月、若林口用水士功会を設置し、砺波郡長が管理者となり、出町町長が主任となった。三十五年四月、若林口用水普通水利組合に組織を変更して、出町町長が管理者となり、次いで昭和二十七年八月三日に土地改良区に改組された。守護神は元雄神神社弁才天社である。

新又口用水

庄川左岸庄金剛寺村地内弁才天社付近に取入口をもつ用水であるが、開設年代、当時の場所は一切不詳である。新又口用水は松川除堤防の中で最も締め切り工事が遅れた地点に取入口を設けていたことら、 庄川の洪水ごとに取入口に支障を来し、転々と変動を余技なくされたようである。文政四年(1821年)の「 庄川七口用水江高調」に、 新又用水七、 八七八石五斗九升九合となっており、灌漑(江下)村三四ヵ村と朋記されている。 下村には藩政時代以前から村立てしたところが多いので、相当古い歴史を持つ用水と考えられる。現在の下流高岡地方での祖父川、戸出地方の東新又  、西新又川の自然流の上流川筋を改修して用水路とし、取入口は前述庄川弁才天社付近であると考えられる。この場所は松川除堤防のうち最も洪水にもろい所で、明治・大正期においても取入口付近はしばしば破堤の損傷を負っている。 明治二十一年八月三十一日の洪水のときは、取入水門は残らず流失して一面の川原と化してしまい、 新又口用水は導水できず、下流住民の飲料水まで差し支えるようになった。こうした度重なる洪水のため庄川流路が変動してしまい、今後大洪水になると構造上や耐久力の点で欠損流失する恐れがあった。

大正二年五月まで大聖牛二組を設備したが、同月の十五日の洪水で取入堰ニカ所が破壊したため、水流は新設の聖牛に集中し破損してしまった。洪水になると、庄川の流れの中心は雄神橋上流で方向を急に西へ向け、取入水門に激突する水勢となり危険な状態に陥る。果たして翌三年三月六日の台風がもたらした大洪水は、新設の聖牛一七組のうち三組を流失し、さらに前年設備した大聖牛二組と中型牛三組をも流失したので、取入施設は最悪の状態となった。さらに六年九月の大洪水で、数万本の木材(流木)が上流から流れ出し、聖牛に激突して大部分を流失させてしまった。このように前後三年間に川倉や聖牛は五〇組以上も流失する結果となったが、幸いにも水門や堤防は破壊を免れ、災害を最小限に食い止めることができた。この用水の江肝煎は古戸出村から任命されていたが、明治二十二年一月、新又口用水水利土功会が開設されたので、郡長が管理者となり、油田村長が主任となった。昭和二十七年八月三 日、土地改良区に改組され、理事長に庄下村長が就任した。

明治二十一年五月、庄川の河床が低下したので、取入堰を上流へ移さないと必要水量が確保できない状況になった。  新しい堰を庄金剛寺村字五郎淵の渡船場付近に予定し、渡船営業者と協議したが承諾は得られなかった。江下農民は田植えをしようにも水不足でできずに騒然としており、六月八日、渡船場を管轄する中田警察分署長を交えて再び協議したが、渡船業者は渡船湯の上流は庄川激流の二瀬が打ち合う所で、船内に流水の浸入する恐れがあり、乗客に危険が及ぶと主張し、用水側は渡船場まで堰上げしないと必要水量が確保できないと主張した。七月十六日、関係戸長や県吏員が現場で双方の意見を聞き、取入堰を上流へ移し、渡船場は安全な別の場所を選ぶことで妥協した。この用水の水神碑は、旧新又用水取入口付近に「水神」と刻んで建てられている。

舟戸口用水

用水記録に、「文政三年(1820年)千保川ノ跡ヲ新シク開キ、用水ヲ掘リ立テ仕リ、追々二勢子仕リ、 近来ハ五千石余リノ御高二相成居リ候」とあり、理由として「千保川ハ手堅ク御堰キ留メニ相成リ、寛政年中二弁才天前ノ松川除ナド、 追々丈夫二仰セ付ケラレ候二付キ」と ある。野尻村の十村文書江高帳では、文政八年(1825年)の開設となっているが、いずれにしても庄川諸用水の中で最も新しい用水でありこれを「新川」と称し、その灌漑区域を新開(小字地名)と称した。松川除築堤以前から、千保川の自然流域を部分的に開拓していたと思われるが、松川除が完工しても馳越の状態である千保川流路へは、洪水ごとに庄川が分流し、したがって完全に締め切った野尻川・中村川・新又川流域のように開拓はさほど進展していなかったようである。文政のころになると、庄川本流の河床は千保川河床より相当低くなっていた。また、度々松川除が補強され、庄川か洪水になっても本流が千保川筋へ流入するという危険が少なくなってきたが、千保川流域の開拓は他用水地域より遅れていた。灌漑区域は旧雄神(庄川左岸)・中野・種田・太田・庄下・油田・北般若・是戸(高岡市)の各村に通水して戸出(高岡市)市野瀬まで、用水幅は狭いながらも長い旧千保川の河川跡へ導水していた。

舟戸口用水の名は、嘉永年代(1848年~)から取入口が金屋岩黒村舟戸島地先にあったことから呼称されたものである。千保川跡を利用した当初の取入口は、畑野新の六次郎口と称する芥入口を広げて元口を造り、寛延二年(1749年)に野尻岩屋口用水が新用水と庄川赤岩で合口した後、 古取入口(舟戸庄川合ロ堰堤付近) を改修して本口を造った。明治二十九年の大洪水で本口の水門をはじめ取入口施設が流失し復旧困難となったので、本口を廃して元口を改修し取入口とした。このときすぐ下流の鷹栖口用水の江下農民は前述のごとく大反対を唱え、舟戸口用水江下農民と対抗しての石合戦騒動を起こしたのである。明治十九年、庄川下流の十七ケ・井口八ヶ用水は灌漑水不足に苦しみ、舟戸口用水の舟運について次のように抗議した。

元来の既設庄川沿岸諸用水の外に、新しく舟戸口という新川が安政年間にできた。庄川が減水したとき取入口を閉ざすよう申し込んでも、砺波郡中の肥料を運ばなければならないとか、灌漑季節には舟は通っていないとか、その場限りの返答をしている。明治十六年の大干ばつの年も毎日舟を通していた。現に荷揚げ場を四カ所も設けている。名称は用水路でも実際は運送川にして勝手に川幅を広げ、庄川が減水すると全川の水量を堰入れて利益をむさぼっているので、下流の用水はそのため枯渇の苦しみを被っている。

用水の経費は当初通船料と木材流送料などで支弁し、江下農民に徴収金を課さなかったが、十七年ごろから県道の整備が行われると舟は次第に姿を消し運営が困難となったので、二十年、用水灌漑区域六、〇〇〇余石へ反別に割り当てて負担するようになった。江肝煎は高儀新村(庄川町)、吉江村から選出されていたが、水利土功会が設置されると庄下村長・太田村長が管理者となり、明治三十八年五月、普通水利組合に組織替えされ、以後は中野村長が管理者となり、昭和二十七年に土地改良区に改組した。

千保柳瀬口用水

明治四十四年、千保口用水と柳瀬口用水が合口して千保柳瀬口用水と称するようになった。 千保口用水の開設については明確な資料を欠くが、もともと庄川の旧本流であった千保を主体とし、庄村(庄川町)から流出する広谷川と、三谷村(庄川町)から 流出する谷内川の水を導入していたものと考えられる。現在の千保口用水分派である秋元ロ・金屋口は、旧千保川から取水した用水路である。庄川本流に直接取入口を設ける用水となったのは、松川除築堤前後のことであろう。千保口用水の取入口は、千保川と中田川(現在庄川本流)の分流するところであるから、庄川の河身は洪水ごとに大きく変化し、取入口もそれに応じて造り替えねばならなかった。

柳瀬口用水地域は、千保口用水のさらに下流で、庄川左岸諸用水中最も末端の地域に当たる。取入口は特定せず、庄川に芥入用水を各所に設けて新開田地を潤していた。芥入(用水)は 庄川沿岸各所に散見されるが、名称の起源はよくわからない。この芥入は庄川の自然流下水に極めて簡易な作事を施した小規模な用水取入口のことをいうのである。柳瀬地方の芥入口は、出合ロ・分口・中村ロ・地獄口・吉住口などの七カ所あったが、晴天がつづき庄川の水量が減少すると通水不能となり、雨天がつづいて増水するとたちまち溢水するという原始的なものである。柳瀬口は灌漑面積が狭小である上に、用水路は系統的に整理できず、庄川の最下流に取入口を持ち、しかも取入れ設備も不十分という悪条件のため、維持費が過重となり必要水量は不足がちであったので、時々千保口から非公式に分水していたが、明治四十年、千保ロヘ正式に合口を申し入れた。しかし容易に合意に逹せず、郡長のあっせんで度重なる協議の末、四十四年三月ようやく合口が決定し、千保柳瀬口用水普通水利組合の結成に至った。合口に当たっては、上流用水に対して下流用水は条件が悪くその負担比率は、翌四十 五年の予算書を見ると、地租一 〇に対し千保口は三、柳瀬口は七となっている。水量分配条件は千保口は二日に対し柳瀬は一日の割合であり、干ばつになると一週間のうち千保口は六日、柳瀬口は一日の割合で、分水比は一〇対ニ・五であったが、それでも柳瀬口にとっては合口した方が有利であった。しかし、芥入用水もまだ使用しなければならず、 一日のうち夜間だけ灌漑していた。

柳瀬口用水は、庄川七口用水の最下流で堰入れしているので、干ばつになると上流用水で庄川を堰き止めるため一滴の水も流れなくなる。そこで用水役員・役場吏員・村会議員は手分けして上流用水の役員を歴訪し、分水してほしい旨を懇願した。農民はバンドリ姿で筵旗を押し立て、管理役場や郡役所へ大挙押しかけて陳情した。分水条件を言い渡されて得た水量は、全域を潤すにはあまりにも少ないもので「頼みに持っていった酒ほども流れてこない」と嘆いた。しかもこの分水費用は莫大なものであった。 とくに昭和二年の干ばつは深刻で、田植後は述日の干天で芥入用水は全く機能を失い、柳瀕・東開発・下中条・北般若の各村では水田が白く干せあがり亀裂して枯死寸前となった。農民の心痛はひとかたでなく、六月二日大挙して上流用水に分水を懇請するため松川除に集合したが、出町警察署長が出向いて仲介の労をとったので無事に解散した。管理については、江肝煎は戸出村・秋元村・下中条村・祖泉村から選出されていたが、明治二十一年水利土功会が発足し、管理者に郡長が就任した。三十六年、普通水利組合に改組し、千保口用水は南般若村長、柳瀬口用水は、太田村長が組合長に就任した。昭和二十七年設位の土地改良区理事長も同所から出ている。

三合新用水

三合新村中沢、通称腺 の木地蔵にある三合新完工碑によると、「寛文年間(1661年~)に開設し、天和元年(1681年)から七カ年の難工事を敢行し、貞享四年(1687年)三月、三里に及ぶ用水路を完成した」とある。とくに庄地内の隧道工事は困難を極め、硬い岩石を掘り抜く工事は岩石一升、 米一升といわれた。取入口は庄川右岸の最上流赤岩付近で、山麓を迂回して栴壇野村千光寺付近で和田川に排水している。三合新用水はもともと谷内川から導水して、三合新三五〇石と徳万新の新開八〇石、 併せて四三〇石を灌漑していたが、寛文年間に福山村が三合新用水の上流で谷内川の水を引いて新田を開発したので水不足となり、藩命によって庄川本流から直接導水することになった。

芹谷野用水との合口は、明治二十四年七月、庄川大洪水のために芹谷野用水は取水不能となり、復旧の見込みがたたなかったので三合新用水に合口したい旨を申し出たことにはじまる。三合新土功会は再三協議を重ねたが、水利権をめぐって賛否は容易に決まらなかった。東砺波郡長が斡旋に努めた結果両用水は対等の立楊で、雄神橋上流地点で芹谷野用水へ分水することに同意した。両用水の水利権の対立は三合新用水側は上流優先を主張し、芹谷野用水側は右岸に発電所設立の利益権を主張したことにはじまる。結局、赤岩付近取入口から雄神橋上流分水地点までの合同水路に要する工事・維持管理、その他すべての費用は芹谷野用水側が負担、三合新用水側は年額米二石と人夫料一五人分以外は負担しないという契約を交わし、この合口は庄川合口事業完工までつづいていた。

芹谷野用水

庄川東部の砺波郡と射水郡にまたがる山麓を中郡と称し、 芹谷野とも呼ばれていた。ここの灌漑水は従来渓流水と湧水だけに依存していたので、毎年干ばつの被害があり収穫も不安定であった。改作奉行は十村の島村九郎兵衛に救済方法を諮問したところ、九郎兵衛は十村戸出村又八と協力の上、庄川上流右岸から取水した用水路を砺波郡東部から射水郡に掘り進める計画を寛文三年(1661年)に提出、翌四年藩の許可を得て着工した。 以後両人の不退転の努力がつづけられて延宝五年(1677年)までの 一三年間に、 四、 四 〇〇〇余石にのぼる新田を開墾し、用水を通すことに成功した。そのため砺波郡では安川新村など二一カ村、射水郡では串田新村など三カ村の新村が村立てされた。用水開繋エ事はなお続行され、完工したのは延宝八年(1680年)であった。

その間、改作奉行は寛文三年(1663年)に沙汰書を出し、⑴一滴の無駄もなく開墾に充当せよ⑵用水の補修は破損箇所を早期に発見して損害を最少限に抑えよ⑶耕作者を選定して情をかけてやれ⑷用水番人は庄村長助、三谷村弥右衛門に決めた⑸大水のときは早めに排水せよ、などの事項を指示し、再び⑴庄村・三谷村に用水路の維持を依頼しなくてはなるまい、手当は公儀から支出する⑵収納米は最も近い中田御蔵にする⑶陰樹伐採について⑷新田を開発する耕作人に食粗不足をさせるな、住宅は見苦しくないようにしてやれ、薪は十分に与えよ、など細かく具体的に指示した。 この芹谷野用水取入口は開設当初は庄川上流の仙納原(利賀村)に設け、用水路は庄地内の三条山麓に岩石を切り開いて造られた。地質は砂礫を含む軽い粘土質で、用水の保全には不安定な地質であったが、延宝八年(1680年) 用水路は延々七里(28㎞)の長さに達し、庄川東部の山麓丘陵地帯一円を潤し、射水平野の大門・小杉方面の田地にまで庄川の水を注ぎ入れるという構想雄大な難事業であった。この事業の施工に当たっては、取入ロ一番水門から八十一番水門まで、詳細に位置と寸法と用水量を算定し、下流になるにしたがって傾斜が急になるので落差工を設けて流速を調節し、なお余剰水は降雨時に備えて庄川または和田川へ排水口を設け、所々に橋を架けて交通と農作業の便を図 るなど周到な計画のもとに実施された。

用水路は素掘りであり、上流地域である三谷地内はとくに決壊漏水が著しかった。寛文九年(1669年)、藩によって庄川改修工事が進められ、赤岩下流で取水することになった。享保年間(1716年~) には一時太田橋上流地内で取入口を設けたこともあった。文政年間(1818年~)に射水郡二俣村が開墾され、小杉まで導かれた六ヶ用水に分水することになり、針山口用水もまたここから取り入れることになった。天保年間(1830年~) さらに三合口用水の水源となったので、芹谷野用水は右岸の基幹用水として重要視され、灌漑区域は東砺波郡雄神村(庄川町)・般若村・栴壇野村・東般若村の一部(以上砺波市)・般若野村(高岡市)・射水郡櫛田村・水戸田村(以上大門町) の 約一、  二〇〇 町歩に及んだ。

昭和十四年、庄川右岸合口用水事業に当たって、 芹谷野用水は六ヶおよび針山口用水に分水することを条件に、取入口から般若村安川地内までの用水路を改修することになった。この工事予定地の中には、 旧雄神小学校裏から安川分岐点まで約二㎞の屈曲した山麓地帯や、干天には流水がなく降雨がつづくと洪水となり、土砂を多量に流入する谷内川などの難所が含まれていた。これらの箇所はこれまでも維持管理に苦労が多かったので、芹谷野用水の分岐点を安川地内に設ければ三谷地区の美田をこれ以上つぶさずにすむし、難所の工事を合口事業とすることは百年の大計でもあるとして同地区民はこの案に賛成し、その実現に進んで協力した。この運動が実り十七年に認可を得、直ちに着工して十八年に完工した。これで氾濫の多かった谷内川は庄川に放流され、多年の難問題が解決し地元民は歓喜した。こうして上流部の雄神村地内約七㎞の水路は近代設備を施した水路に改修されたが、下流水路は開設当初の旧態のままであった。その水路は丘陵山林の中腹や馬の背のような高地を蛇行しており、局部的の修繕はしてあったが、全水路は荒廃がはなはだしく八〇数力所の小口水門は老朽し、江ぶちは漏水で決壊している所も多く、地すべりや崖崩れで各地の山林・耕地に大きな被害を与え、さらに近接の崖下に平行して流れる六ケ用水路を埋めるため、付近の水田は冠水して農作物に大被害を与えることも度々であった。また漏水がひどいので用水下流末端地域は毎年水不足に悩まされ、配水管理に数十人の水番人夫を配置して、わずかしか流下しない水量の確保に涙ぐましい努力を払い、しかも膨大な用水費を負担しなくてはならなかった。現在は昭和二十七年からの庄東用水改修工事が完了し、さらに末端水路の工事に努力が払われている。

針山口用水

庄川に取入口を持つ針山口用水路は針山川を長い年月をかけて漸次用水路として改修したもので、開設年代は不詳である。針山川は庄(庄川町)の南奥山に端を発し、東山添いの谷川や滲み出する清水が川となって般若郷と射水郡南部の山際を流れ、針山村を通って海に注ぐ自然川であった。

庄川に取入口を持つこの用水は、庄川流路の変化によって転々とその取入口を変えざるを得なかった。  寛文のころ(1661年~)は庄金剛寺村弁才天付近から取り水していたようであるが確証はない。弘化四年(1847年)には三谷地内に取入口を設けていたが、この年庄川の大洪水で決壊したので、下流の安川地内に移動した(現在の太田橘詰めより八〇〇m上流)明治十四年四月、庄川の大洪水で般若村の堤防が欠壊し、数百町歩の美田が流され、用水路のほとんどが土砂で埋まったので、取入口を太田橋の東詰めから下流三五〇mのところへ変更した。二十四年六月、針山口・三六堂・下江口・中田ロ・堂田ロ・茅場口などの用水が合併したが二十九年、庄川洪水のため中田口用水取入口が破損し、取水不能となったので針山口と取入口を合口し、翌年針山中田口用水組合を設立した。三十五年には取入水門を改修し、大正十四年、水利組合法に基づいて針山口用水普通水利組合を結成した。

この用水の流域は総体的に灌漑水に恵まれない所が多く、とくに中田口用水流域は、明治十四年・ニ十九年・三十一年の庄川洪水で、右岸安川堤防が三回も決壊し、そのつど数百町歩の耕地に砂利が流入して荒野と化した浅耕土質の川原地帯で、庄川河床から二mも低い所に耕地が展開していた。灌漑水は、 庄川に少量でも流水があれば、地下からのわき水もあって水不足することはなかったが、日照りがつづき庄川が減水すると、下流に取入口を持つ用水流域の水田は亀裂ができ、稲が枯死する危険が生じ、上流用水に分水を懇願するより方法がなかった。三十三年六月二十一日、針山口用水の分水請願により堰入れの切り下げを協議し、野尻(二万石用水)堰は五寸(15cm)、舟戸・若林・新又・鷹栖・芹谷野各用水堰は一寸五分(4.5cm)、千保堰は三分(1cm)堰の高さを下げ、柳瀬堰はその余裕がないと決めらた。  記録によると、 四十五年六月二十九日午後から七月一日午前六時まで、上流各用水に分水方を請願したところ、灌漑水域の七割方まで水が行きわたったが、残る三割方へは一滴の水も通水できなかった。一応灌漑した水田もつづく干天でたちまち干せあがり、ついに飲料水さえ不足を来したので、再度分水方を請願している。このように干天がつづき庄川が減水するごとに、上流用水へ分水方を請願しつづけるのが針山口用水の宿命であった。

六ケ用水

六ヶ用水は、庄川合口堰堤から取水している用水中最も遠距離にある用水路で、享保二年(1717年)藩の開田増産政策に基づいて開設された用水である。藩はこれまで使用していた当地域の大小二〇カ所の灌漑溜池を埋め立て、そこに新田を開発じて黒河新村を含む六カ村の灌漑用水の導入を図った。「亨保二年 六ヶ用水被仰付享保八年まで井掘り、享保十二年引高被仰付」と記されていることから、享保二年、  藩の開発方針によって六ヶ用水の開削が計画され直ちに施工、享保八年(1721年)まで継続事業として掘り進め、亨保十二年( 1727年)に工事が完了して通水され、用水路の敷地は引高地として公収されたことがわかる。六ヶ用水の取入口を庄川右岸安(砺波市)地内に設け、用水路は四里二五町(約1.4㎞)の長距離に及ひ、六ケ村四、八〇〇石を潤した。

また、  六ケ用水は、享保年間( 1716年)藩命により水源を三谷村地内で谷内川に求め、弘化年間(1844年~)  、三谷村地先安川地内の庄川右岸堤防に、取入水門を設けたとの異説もある。要するに年代の違いはともかくとして、常に水量が不足していたこの用水は、両川に取入口を設けて取水できるところから導水していたと考えられる。庄川に取入口を持つ用水は下流になればなるほど水不足に悩まされたが、最下流に位する六ヶ用水は通水量以上に開田が進められたので配水に苦しみ、炎天がつづくと灌漑水はもちろん、飲料水・防火水にまで不足を来した。次に掲げる大正元年十一月に六ヶ用水総代が県知事に提出した「 庄川配水ノ議 二付請願」を見ると、当時の事情がよくうかがわれる。

(前略)最上流二万七千石用水ロ二於テハ、 全川堰止メ長サ約四百間斜二対岸二達スルエ事ヲ施シ、 旧慣卜唱シテ流水ヲロウ断セリ。舟戸口、鷹栖口、若林口、芹谷野口皆同一ノ方法ヲモッテ、益々厳重ヲ極メ、漏水ヲ己ノ用水へ引用ス。其ノ下流クル当用水口二ハ、一椀ノ水モ、一滴ノ水モ得ラレズ、上流用水ハ多量ノ余水ヲ小矢部川ニ排出ス。コレニ反シ我ガ地方ハ、田面乾燥シテ亀裂ヲ生ジ、稲ハ萎縮枯渇シ、住民ハ朝タノ炊事スラ遠キ所 二水ヲ求メザルベカラズ。上流二万七千石用水等二哀願シ、補償ヲナシテ、分水ヲ得タルガ、九牛ノ一毛ニシテ、救済ノ量二達セズ。庄川ノ流水ハ、上流ノミノ専用ニアラズ。等シク引用スベキ天与ノ流水ナリ(中略) 全川堰止メノ慣例アリトスルモ、カカル害悪ノ慣例ハ速カニ矯正スルノ要アルニ非ズヤ

(抜書、以下略)

金屋幹線用水路

現在の金屋田圃は、庄川水面よりはるかに高い位置にあるので、昔から水不足に悩みつづけていた。庄川から取水して、荒地を美田にする計画は藩政時代から唱えられていたが実現せず、明治になって利賀谷の水を利用する方針が立てられた。県は水不足に悩む東山見村・井波町・南山見村の三地域に用水路の設置を勧めたので、金屋の有志は井波町と南山見村に同意を得るため、幾年月にわたり度重なる交渉をし懇願したところ、南山見村は賛意を表した。井波は、耕作する小作人は賛成したが地主のほとんどは反対の立場をとった。理由は、⑴農耕を実際に行わない地主は用水路不備のための水不足に対して関心が浅く、年貢収納量の保全だけを考えていた⑵用水費は地主の負担であるから、工事費の多額出費を恐れたためである。 金屋の有志が懇願すると、地主の中には、嘲笑的言動をろうする者や、感情に走って罵倒する者さえあったので、金屋地区の農民は立腹して「今後通水の時期が来て、井波が水を求めても井波ヘ一滴といえども水はやらない」と固く申し合わせた。このように水に関して井波と協調できずにいたが、 後日南砺山麓補給水問題で曲りなりに漸く妥協点をみつけることになった。

金屋地区の農民は、井波と完全にたもとを分ち、独力で金屋耕地整理組合の設置を決意し、上田又一を代表者として創設することになった。大正四年四月、県知事に提出した設立認可申請は、六年八月になってようやく認可された。

富山県指令勧二九九九号

富山県東砺波郡東山見村金屋

耕地整理組合設立認可申請者

上   田   又 一

大正四年四月二十二日附申請耕地整理組合設立ノ件認可ス

但シ設計書ノ利賀谷川ヨリ 採入スル水益弐拾六個二対シ庄川渇水時季二於テ下流二分水ノ必要アル場合ハ之ヲ拾個二制限スルコトアルヘシ 浅野総一郎ヨリ出願二係ル水力電気事業ノ許否決定スル迄ハ其ノ箇所二架設スル庄川筧工事二着手スルコトヲ得ス竣功年限十ニヶ年トアルヲ八ヶ年二更正ス

大正六年八月拾日

富  山  県  知  事

井   上   孝   哉

当初の計画は、水源を遠く庄川の支流利賀川から取り入れ、仙納原まで延長約65mを山腹に沿って掘り進め、庄川を木管掛樋で横断し、左岸に渡って山腹を延長約7,000m導水して金屋地内の新開田に灌漑する計画であった。経費は反当り五二〇円の高額であり、工事技術にも問題があったので着工は困難視された。その上、浅野総一郎が出願した水力電気事業(後の庄川水力電気株式会社)による堰堤計画と水利権をめぐり紛糾し、しかも工事箇所で衝突したこともあり、両者は互いに牽制し、相互協調を約しながらも、水電側の度重なる計画変更によって、用水路の敷設は進まなかった。

諧     願    書


富山県東砺波郡東山見村

金屋耕地整理組合

右組合ハ大正六年八月十日附ヲ以テ富山県知事ヨリ組合設立認可ヲ得侯処当時本組合耕地整理用水取入工事箇所中現庄川水力電気株式会社ノ前身タル東京市浅野総一郎出願ノ水力電気堰堤工事箇所卜衝突スベキモノ有之候二付覚書ヲ以テ相互協調ヲナシ爾来其趣旨ヲ遵守シ専ラ堰堤工事ノ竣功ヲ期待シタリシニ同会社ノ都合ヲ以テ其後東山見村小牧字矢ヶ瀬二設計変更出願スルコト、ナリシニヨリ大正拾壱年六月更二相互間二覚害ヲ交換シ同所ニテ築造スベキ堰堤前ヨリ本組合用水路ヲ取入ル、コトニ協定シタリ同会社ハ同年七月十五日設計変更ノ認可ヲ受ケタルモ以后満二ケ年ヲ経過スル今日二於テ未ダ其堰堤工事二着手セズ殆ント中止ノ状態二有之候二付当組合ノ事業計画上大関係アリシヲ以テ今春以来害面又ハロ頭ヲ以テ其工事ノ竣功時期ヲ数回交渉セシモ的確ナル時期ヲ明示セス更二今回其上流二於テ新設発電事業ヲ計画シ当組合用水水源ナル利賀川全部ノ水量ヲ利賀村草嶺ヨリ隧道ニテ庄川筋大牧へ引水スヘキ水利権獲得ノ出願中ナル趣キニ候斯クテハ当組合ノ事業成就二大ナル蹉跌ヲ来シ候間同会社ヨリ出願中ノ利賀川水量中当組合耕地整理二要スル許可水最弐拾六個以上ハ利賀川本川へ流出スベキ様御取計相成度組合会ノ決議ヲ以テ此段請願仕候也

大正拾参年七月拾弐日

内務大臣    若槻礼次郎  殿  逓信大臣    犬痕毅  殿

金屋耕地整理組合長

契    約    書

金屋耕地整理組合卜庄川水力電気株式会社トノ間二於テ大正拾壱年六月壱日附第二追認覚婁ノ趣旨二基キ契約スルコト左之如シ

第壱    本契約書二於テ金屋耕地整理組合ヲ甲卜称シ庄川水力電気株式会社ヲ乙ト称ス

第弐    乙ハ水力電気車業経営ノ為メ富山県東砺波郡東山見村小牧字矢ヶ瀕地内二於テ庄川ヲ横断シテ堰堤ヲ築造シ同川西岸ヨリ金屋字尾谷山二建設スヘキ発電所二至ル間隧道ヲ設ケ引水工事ヲ施行スルニ付キ甲二対シ該隧道ノ終点個所ニ取入ロヲ設ケ同所ヨリ甲ノ区域へ引水スルコトヲ承認スルコト          .

第参    乙ハ前項区域ノ工事ハ不可抗カノ有無二拘ハラス大正拾九年四月参拾日迄二竣成シ甲ヲシテ引水行為二支障ナカラツムルコト

第四    第弐ノ取入ロハ平時二於テ甲力水量弐拾六個ヲ引水スルニ足ル可キ工事ヲ設備スル事但シ費用ハ甲ノ負担クルコト

第五   甲ハ乙二対シ東山見村小牧字矢ヶ瀬、村中、北牧及ヒ湯谷字小原地内二在ル東山見村共有地ノ内乙ノ事業二要スル部分ノ土地ヲ甲力東山見村ヨリ譲受ヶ乙二無償ニテ所有権登記ノ手続ヲ為スコト

但シ東山見村力袋二無代交附ヲ受ケタル小牧及ヒ湯谷地内二在ル道路二付テモ亦同シ

第六    大正六年七月拾壱日付覚書第壱項但書ヲ左ノ通リ更正スルモノトス

但シ取入水量ハ大正六年八月拾日付ヲ以テ富山県知事ヨリ甲二与ヘラレクル認可書二依ルモノトス

第七    乙ハ甲二対シ乙ノ事業経営二要スル権利ヲ第三者二移転シクルトキ又ハ会社ノ合併其他ノ事由二依リ第三者力事業ヲ承継スルニ至リクルトキハ其ノ者ヲシテ本契約ノ条項ヲ承継セシムヘキ義務ヲ負担スルコト

本契約書ハ弐通ヲ作成シ各自壱通宛ヲ所持ス

大正拾四年四月弐拾弐日                                                   富山県東砺波郡東山見村金屋耕地整理組長          上田 又一                  印

                         東京市麹町区永楽町壱丁目壱番地

庄川水力電気株式会社  取締役社長  浅野 総一郎     印

契    約    書

金屋耕地整理組合卜庄川水力電気株式会社トノ間二於テ大正拾壱年六月壱日附第二追認覚書ノ趣旨二基キ契約スルコト左之如シ

第壱    本契約書二於テ金屋耕地整理組合ヲ甲卜称シ庄川水力電気株式会社ヲ乙ト称ス

第弐    乙ハ水力電気車業経営ノ為メ富山県東砺波郡東山見村小牧字矢ヶ瀕地内二於テ庄川ヲ横断シテ堰堤ヲ築造シ同川西岸ヨリ金屋字尾谷山二建設スヘキ発電所二至ル間隧道ヲ設ケ引水工事ヲ施行スルニ付キ甲二対シ該隧道ノ終点個所ニ取入ロヲ設ケ同所ヨリ甲ノ区域へ引水スルコトヲ承認スルコト          .

第参    乙ハ前項区域ノ工事ハ不可抗カノ有無二拘ハラス大正拾九年四月参拾日迄二竣成シ甲ヲシテ引水行為二支障ナカラツムルコト

第四    第弐ノ取入ロハ平時二於テ甲力水量弐拾六個ヲ引水スルニ足ル可キ工事ヲ設備スル事但シ費用ハ甲ノ負担クルコト

第五   甲ハ乙二対シ東山見村小牧字矢ヶ瀬、村中、北牧及ヒ湯谷字小原地内二在ル東山見村共有地ノ内乙ノ事業二要スル部分ノ土地ヲ甲力東山見村ヨリ譲受ケ乙二無償ニテ所有権登記ノ手続ヲ為スコト

但シ東山見村力袋二無代交附ヲ受ケタル小牧及ヒ湯谷地内二在ル道路二付テモ亦同シ

第六    大正六年七月拾壱日付覚書第壱項但書ヲ左ノ通リ更正スルモノトス 但シ取入水量ハ大正六年八月拾日付ヲ以テ富山県知事ヨリ甲二与ヘラレクル認可書二依ルモノトス

第七    乙ハ甲二対シ乙ノ事業経営二要スル権利ヲ第三者二移転シクルトキ又ハ会社ノ合併其他ノホ由二依リ第三者力事業ヲ承継スルニ至リクルトキハ其ノ者ヲシテ本契約ノ条項ヲ承継セシムヘキ義務ヲ負担スルコト

本契約害ハ弐通ヲ作成ツ各自壱通宛ヲ所持ス

大正拾四年四月弐拾弐日                                                    富山県東砺波郡東山見村

金屋耕地整理組合長          上田 又一             印

東京市麹町区永楽町壱丁目壱番地

庄川水力電気株式会社

取締役社長  浅野 総一郎   印

大正十四年四月、ようやく小牧発電用ダム建設計画が本決りとなって、用水の取入れには発電所へ送水する圧カトンネルから分水する契約が締結された。これで潟水路は短縮され工事の実施は可能となった。小牧ダムから直接の取入れは、二〇インチ(50.8cm) 鉄管二本で水盤は二六個を取り入れ、三方コンクリー卜張り水路で、幹線水路延長約3,050m、勾配四〇〇分の一を標準に、地形によって一八〇分の一から一、〇〇〇 分の一とした。また水路は山腹を通るので、雪崩・崖崩れの起きやすい所は暗渠とした。  標準断面は上幅78.8cm、 深さ106.1cmで、水路は小牧発電所水圧管の上→井堰神社鳥居前→青山墓地下部を通る。用水幹線で分水する所は、瓢箪池・山伏谷・三階堤・ニ階堤の四ヵ所とした。工事は小牧堰堤工事が完成に近づいた昭和四年六月にようやく着工して十一年八月に竣工した。

出典:庄川町史

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