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農民の生活

農民の生活

8月 21, 2022 歴史 by higashiyamami

百姓年中行事

百姓の農耕は 一年十ニカ月の間になすべき 作業 は年中行事として定まっていた 。

一月    四日ごろから山方、 里方の村ともに農具の手入れを行う。  馬具の手入れなどは十五日ごろまでに終了する。 里方ではこのころ日和がよければ町方へ肥収りに行く。町近の百姓は毎朝小便を取りに行く。縄をない、俵を編みむしろを織り、女ほ苧をつむぐ。山方は正月は雪が深いので、男は牛の沓草履、鞋などを こしら える。 女は苧をつむぎ布を織る。これは山、里ともに売って春の夫銀に上納する。

二月    早い年は上旬から田方鍬を始める。堅田を犂で起こし返す。 沼田は鯨で一遍株を切る。  あるいは十字に二遍切る所もある。  次に畦をなおす。 このころから百姓は江(用水)をさらえ、ごみを田に入れて肥料とする。米糠・ほしか・木の葉の堆肥を馬で田へ運ぶ。このころ麻畑打ち、彼岸より十日程前に打ち始める。麦・菜種の中打ちをする。

三月    上句、瓜を植える。里方は荒地畑打ち、大豆・小豆・稗などをまく準備をする。このころ蚕がでる。中旬に田方を小割する。そのつぎに沼田を中犂し、竪田をかえし小畦をつける。  このころ鍬で土を寄せておき、 畦ぬりの準備をする。所によってほ畦は田切り後にする所もあり一定していない。

四月    上旬、田方へ肥を配り、代犂、田ならしをし、馬を持たない者はかひ田を打つ。半夏生四〇日あるいは五〇日前までにする。中旬はほとんどが田植えの最中で遅い所は下旬にかかるものもある。  一日
の女子一人の作業量は堅田で植え易い所は三五〇歩ほど、 苗は田一段歩に一三〇把、 早苗はニ一〇位、 蒔物をした跡は二〇〇把位。 田柏えは一日植えると晩には馳走する。田植え人には昼に一飯食べさせ、  銭は四〇文から五〇文を与えた。田植時は、馬一疋につき、 昼夜大豆二升五合から三升ほどで飼う。畦べりに大唐稲を植える。大唐稲は作り易い作物で所によって一遍通り、 または二遍、 畦に近い所に本稲の株間にさす。これを間ざしという。

山方は四月上旬から中句まで畑を打ち、粟・大豆・稗をまき、あるいほ中旬からなぎ畑焼をし、五月上旬まで焼く。小豆は下旬までにまく。女は蚕を飼う。下旬に菜種をつむ。その跡田に犂を立て水を入れる。これに稲の苗を植える。

五月    上句、 麦田・莱種田を仕舞う。遅い時は中旬から下旬までかかる。表田の方は田草を一遍取る。 これを荒草取りといい、骨が折れる。表田の埓打ちをする。小麦を刈る。小麦田をするものはさし苗をする。さしさし苗代に埓もなく植えておいて、これを小麦田に移し植えする。このころ堅瓜を売りす。  また、  田の稗を抜き取り埓打ちを仕舞う。中句までに表田の一番草を取り終わり、物の跡の埓打ちをする。 二番草を取ってしまうと麻畑の手入れをする。下旬に物の跡田に肥をする。表田の三番草を取る。秋大根をまく。山方は上旬から畑物植えの草を取る。

六月    この月に田畑の四番もしくは五番を取る。俗に揚げ取りという。その他、田の稗を抜き取り、また、えんどうなど早い畑物の収穫をする。田水の加減をして土用の日を田にあてる。

七月    上旬、畑稗を刈る。物の跡へ蕎麦や莱大根をまく。畔の柳・はんのきその他、  草などを刈り風通しをよくする。

中旬、麻畑跡を打ち起こし、瓜の蔓などをこぎとる。早生豆を収穫する。

八月   早稲を刈る。遅いときは中旬に刈る。 一般の田の水を払う。中句大唐稲を刈る。ただし大唐稲は常の稲と変わり、籾を臼などに打ちつけて落とすので稲扱はいらない。下旬に大豆の葉をとり、山方は冬の牛の飼料とする。 粟・稗を刈り取り、そのほか田畑に有る物を取り集める。

九月   上旬、田の畦並びに畑の大豆・小豆を引き、雨天の日は水はけをよくするためねぎを掘り回る。 中句に中稲を刈り、麦田は秋の土用に刈る。稲刈りのせわしい時は月夜刈り、あるいは月田刈などをする。稲刈りは一日一人で中把一五〇束~一八〇束、 小把は二〇〇束~ニ五〇束を刈る。ただしこれは一手打である。 又二手打は一〇〇束あいは一三〇束を刈る。所により架に稲をかけて乾かす所は三手打である。三手打は一〇〇束を限度とされた。一手打は一握りの意味で、束は二把を一括したものをいい、 山方は大束、 越中・能登も大部分が大束であった。 越中の一把は金沢付近の地干所の一束と同様であった。下句は晩稲刈がせわしいので中稲は叺に積み大唐藁の苫をつくり蓋をする。稲刈仕舞を祝う。雨天の日は男女ともに稲扱をする。 稲は扱ずりして米に仕立て、残らず米に仕立てた時、蔵入または筵仕舞といってこれを祝う。

十月    上句から下句まで大豆打や菜種に肥をする。稲扱仕舞のあと摺米の整理をする。縄・俵などをこしらえて俵装する。里方は田に水を入れてごみを流し込む。山方は上旬から下旬まで炭・薪・茅などを山から取り集め町方へ売りに出る。

十一月    上旬から下旬まで米仕立、年貢をはかるのに忙しい。米仕立には二通りあって、  扱摺とは、   一日に品を定めて扱きすぐ摺って仕立てることをいい、扱溜とは、一家の男女が一日あるいは二日問に同種の稲を扱き溜め籾にして置き、後日臼を摺る日を定めて終日臼を摺り、あるいは米仕立てにかかることをいう。

十二月    収納を皆済して一同安心する。それから稼ぎをする。 所によってむしろあるいは縄、来年の米依などを作る。 日和のよいは野山に行って仕事をする。女は苧や糸をつむぎ機を織り、他へ銀を出さぬよう工夫し、余計にできるものは少しでも町方ヘ売り銭をもうける。こうして楽しい正月を待つ。

農家一年の行事は所によって多少の相違はあっても、右の行事を平穏に終われば「楽しい正月を待っ 」 こともできるが、農作業は天候に支配され、干魃・水害・虫害・稲熱病などで凶作になると、年の瀬が越せなくなり、借金をして年を越そうとする。その借金の返済の終わらない内にまた凶作がつづき、借金する力がなくなると「 高」を切り、「 山」を切って年貢の不足を補おうとするが、切る高も山もなくなると夜逃げ、逃散も余儀ないといった事態も生じかねない。このような状態の繰り返しは藩政時代の農民の姿のようであった。  天保期( 1830年~) 前半における連年の凶作はいかに悲惨を極めたか、庄川町庄の西蓮寺過去帳に、天保七、八年に「凶作門徒五、  六十戸死絶」とメモされているのを見ても想像に余りある。

虫送り・熱送り

農家の稲作労働は「 百姓年中行事」によって軌道に乗っているとしても、天候異変はいかんとも手の下しようがなかった。 凶作の原因となるものには干魃があり、集中豪雨による河川の氾濫、田畑の流失、   長期降雨による稲熱病、浮塵子の襲来、とに井波・庄川地区の風害などがあり、百姓を悩ます自然現象は二度や三度にとど まらなかっ た。干魃には信州戸隠神社へ雨乞の祈願をこめて神水を受け、それを氏神に供えて雨乞祈願祭を行った。往時戸隠に行くには、砺波地方の者は伏木まで歩き、それから舟で直江津まで行き、直江津から戸隠神社奥の宮まで歩いた。村人の命を背負った村代表は普通の旅行と違って駕籠や馬に乗らず、ひたすら神を念じてひた歩きに歩いた。井波の町有文書に戸隠まで二三時間かかって到着したことが記録されている。

同じ雨乞祈願でも宝暦七年( 1757年)、城端の米屋が雨を降らせ不作を招いて米価のつり上げを策そうと、縄ヶ池(城端町大鋸屋)の水神に降雨の祈願をしたことがあった。北市村(井波町)の百姓はそのことを聞き伝えて激怒し、近村の同志と語らい城端米屋の打ち壊しをやり、 北市村の主謀者三人は礫刑に処せられた。 庄川・井波地区は春秋の二季、南あるいは南西の強風に見舞われる。このロー カル的な南風は、古くから百姓の頭痛の種であることは今も変わらない。この風神の怒りを鎮めるため風道と思われる所に風神堂を建て、風の神を封じることが行われてきた。庄川町岩黒のはげ山山頂にある不吹堂や、隠尾八幡宮内の級長戸辺社などがそれに類するものである。

浮塵子の襲来も農民がおそれるものの一つであった。元禄元年(1688年)から 虫送り(追い払う)の太鼓が嗚らされたことは旧記に見えているが、毎年夏の土用中に行ったとある。虫送りには村方一同が松明を点じ、村内を持ち回り、松明に蛾を引きつけて焼き殺すという寸法であった。 この時に太鼓を嗚らすのでこれを「虫送り太鼓」といった。今日でも昔の名残をとどめる一行事として行っている所もる。  藩政時代百姓の遊芸・贅沢を防止するため嗚り物を禁止したこともあった。庄川町でも古くから豊作を祈念して虫送り・熱送りの太鼓を打ち嗚らし、誘蛾橙をともして虫を駆除した。 これが微かに名残をとどめ、しかも商売繁盛の祈願と結びつき、毎年六月九・十日(昔の田植終了の休日)の観光祭は、夜高行燈を繰り出し、花火を打ち上げて華々しく行われるようになった。

農隙所作

百姓は年貢の皆済に付随して春秋二回に夫銀も皆済しなければならない。夫銀は公租についても給人知についても納めなければならないが、すべてが収納されてはじめて皆済状が下付され  「楽しい正月」を迎えることができた。 弘化四年(1847年~) の金屋岩黒村の皆済状に領収された夫銀は、一村草高に対する夫銀七〇匁と、その外の夫銀八口合わせて二九匁四分九厘を納めなければならなかった。しかしこれを作徳米を売って皆済していては生活や肥料資金に事欠く事態となる。百姓は、農耕の隙間を見て稼ぎ、その収入で夫銀の皆済に努力した。前田侯爵家が編輯した多くの藩政資料の中に『 農隙所作村々寄帳』がある。  これは領内の村々が農耕の隙間に何をして稼いでいだかを調査し集録したものであるが、  砺波郡の部を見るとさらし布・串柿・五香(家庭薬)・杉原紙・中折紙・蝋・塩熔(火薬)・塩づけぜんまい(山莱).鮭・湯役銀(大牧温泉) などがあり、落シ村(庄川町)でも、はしふ押紙・布つつみ紙・ふすま紙などを作っていたことがわかる。この資料は元禄年間(1688年~)の記録で比較的古い調査であるが、文化七年(1810年) の調査を見ても、庄川町旧村は山方、里方にまたがる越中屈指の大川庄川を控え、農作業の隙に鮎や関の捕獲、河川利用の舟運、飛騨木材の流木稼、山方村々の紙漉、金屋岩黒村特産の根深の栽培、婦女子の養蚕と糸の賃引、これらの稼から得た収入は春・秋  一季に上納する夫銀を賄ってなお余りあるものがあったであるう。平野部の純農村と違い、山と大川に依存してきた庄川町の旧村は、他村に見られない経済的特色があった。

奢侈禁制と衣食住

改作法は『理塵集』の編者が賛美しているように「 聖人天心の仁政」であっても、百姓にその「 仁政」を受け入れ、その効果を挙げさせなければならない。それには百姓を「 かじけ」させず養い、農耕に励まさせねばならないが、養いすぎて収入が増加すると奢りに長じ栄燿にふけるので、苦心の「 仁政」も逆効果をもたらす恐れもあっ た。改作法を施行するに当たっては、農民と給人武士との反目の原因を取り除き、両者の貧窮を救うことによって藩の統制と安泰を期し、他面改作奉行を設置して指導の任に当たらせた。 また、新開を奨励し、検地の精密化を図って隠開隠田をなくし、十村や肝煎による郷村支配の整備を図り、田地割の制度化によって藩の統制支配を打ち立てるとともに、農民の奢修を厳しく禁じ、 節約勤倹を奨励した。天明二年( 1782年)の奢俊禁制の御触れで百姓には「 そ服を着し髪も藁を以てつかね」させた。酒食を商う店や、湯屋や髪結床があったりすることは、結局百姓を自然によからぬ道に走らせ、柔弱で放蕩にするから「 古代風、亡脚不レ致、  物市質素にいたし農業相励候低肝要に候」と 御算用場よりたび重ねて厳しく通達を出している。『 微妙公夜話』に「 百姓を奢らせてはろくなことをしない」という意味のことを 語っているが、奢侈禁制・勤倹奨励の御触れを絶えず出して百姓を戒めている。

各村の肝煎役宅であった家に「御触留」「御用留」なる帳冊が伝えられているが、 緊急且つ重要な伝達の書留めには必ず次の村へ渡した時刻が記入されている。「 御触留」を読むと、藩政時代の通信伝達の方法がよくわかり、村肝煎から村民一般に知らせる手段も、遅速の差はあっても今日より親切味のあった様子がよくくみとられる。

古来奢修遊惰は財を失い身を傷つけ、国を亡ぼすもととされ、いずれの時代にあっても為政者はこれを極度に戒めた。 加賀藩も領内の風俗を規制し勤倹の風を尊ばしめ、律義礼譲を篤くし、士農工商ともにその分を越えないよう心掛けさせ、固く奢侈を禁制し倹約力行を勧め、 法度あるいは訓戒などによってその徹底に努めた。領内の風紀を取り締まる上において、皇室尊重に意を用い、慶長九年( 1604年)菊花紋立を衣裳につけるべからずと厳禁し、乱世時代の無律義の慣習を打破しようとした。元和年聞(1615年~) 地方流行の浮気げな踊りなどを禁じて、農民を堅実な良民に仕立てようとし、寛永年間(1624年~)百姓の衣類を制限し浮薄の念を絶たせ、改作に専念させた。ところが、万治(1658年~)から寛文(1661年~)のころ、世の太平になれ御家中の風俗は次第に向上し、下またこれに倣い、  上下共に風俗が華美となり、領内の財庫は自然に傾いてきた。 まず御家中の財政不如意で、藩の会計難渋の声が高くなり、正徳(1711年~)・享保(1716年~)・延享(1744年~)と幾度か下々の風俗を規制し倹約を勧めてきたが、すでに元禄(1688年~)以降、華美の風潮が全国的に高まり容易に改めかねる情勢にあった。藩は家中町方・郡方へしげしげと申渡しをしたり、倹約令を出したり、借知(藩が家土の知行を借る)・ 御用銀(藩が領民から借財)の借り上げ、あるいは銀札の発行など、財政上の工夫を案出し、れを執行しても藩の財政は一向に富まず、御勝手(藩の会計)は難渋し、 京都・大坂    江戸商人からの前借の遣り繰りで辛うじて民政を執行している有様であった。百姓はまた米銀の貯えがなく、 町人から借財せざるを得なかった。こうして、かじけ百姓が耕作に差し支えるようになっても役人は一向にとんちゃくせず、ひたすら米や銀を集めて利益をむさぼることに尊念し、田地が不作の年もできるだけ「御損毛」少なきようにと、年貧の上納あるいは御用銀の上納を強いるようになってきた。天保年間(1830年~)の前半は凶作がつづき百姓困窮の中にあって、なおかつ元禄期(1688年~)からの頗廃した風習は抜け切れず、上の者は相変わらず華美に流れ、下百姓はますます追いつめられ、 走り(逃散)百姓が続出するようになった。

農民の信仰

本願寺八世蓮如上人が文明七年(1475年)北陸へ下向し、井波瑞泉寺に滞留した折、蓮如の法話を聞こうとする農民の影が延々とつづいた。蓮如はその様子を見ようと板の輿に乗って坪野川原(井波町坪野)に出ると、群衆は我先にと押し寄せ、随喜の涙とともに賽銭の雨を降らせた。従者がそれを捨い集めようとしたところ蓮如はそれを押し止めた。 群衆にとっては、このような尊い方には未だかつて会ったこともがない、これこそ真の生仏であると伏し拝み、随喜渇仰の涙にくれたと『井波誌』は記している。領主や豪族の搾取に明け暮れてきた農民にとって、賽銭を求めなかった蓮如の行為はまさに睛天の霹靂であり、蓮如こそ貧しき農民を救う渇仰の仏と影じたことであろう。

加賀藩政の初期、貢租にからむ従来の幣習を一掃し、改作法を樹立して『聖人天心の仁政」と喜ばれ、明暦二年(1656年)百姓から進んで手上免を上納した善政も、年がたつにつれ次第に乱れてきた。藩の財政は困窮を極め、次第に年貢の取り立てを厳しくし、手上免・手上高を強要し、御用銀・上納銀・冥加銀と手を変え品を変えて農民の財を吸収するようになった。一時的の御用銀・冥加銀も度重なるにつれ固定した税と化していった。このような始末で百姓の作徳は少なく、内福の百姓は一村に一人か二人しかおらず、それらの者は貧しい百姓へ金品を貸し付けて利潤を貪るな ど、「 宜しき者は年毎に宜しく、貧なる者は次第に行詰り」農村における貧富隔絶の傾向はいかんともし難い状態となった。このような境遇に追いつめられた農民は、心の安らぎを何に求めようとしたか。これより先、蓮如を坪野川原で渇仰したように、仏門に帰依したのは自然の成り行きといえよう。

徳川幕府は封建制維持のためキリシタソの伝播を極度に警戒し、加賀藩においても能登の奥地までも仰々しく御触れを出し高札を要所に建てた一方、藩は宗門檀徒の制を定め、農民信仰の心をつかんで一宗一寺に帰属させ、しかも帰依せしめることを治政の便とした。 こうなると由緒のない他宗の寺庵は維持困難となり、自然に一向宗に改宗のやむなきに至らしめた。当時の寺や檀徒は為政者を「助くる風」があったが、その反面に弊害も伴った。農民信仰の結集として新寺の建立に彼等の労力と資力を消耗し、その上、夜間に法話談義をするので夜ごとの集合は家業の障りとなって、農民の生産力が低下するという結果を招くに至った。これに加えて他地方から僧俗が入り込んで勧進勧化をなし、そのために農民は日数を費し財を枯らすとして、寛文元年(1661年)、夜の談義および勧進を停止した。

しかしその弊害は急に改まらなかった。それでキリシタン禁制に名を借り、宗門改方を十村・肝煎に命じ一々信仰上のことにも為政者に容かいさせる端を開いた。 改作法施行とともに新規寺庵の建立を禁じ、寛文四年(1664年)領民に且那寺を書き上げさせて宗門帳を作らせ、その檀徒として固定化してしまい、重ねて夜の談義法座を停止した。さらに八年、檀(旦)那寺以外の勧進に村へ入ることを禁じた。また全国的な勧進、例えば伊勢皇太神宮の勧進などは藩からこれを支払い、御郡内の村々を回ることを禁じた。 このようにして他郷からの勧進勧化は絶対に許さな かった。しかし越中二上山・能登石動山、 砺波地方では井波瑞泉寺・城端善徳寺などにはその由緒によって毎年知識米としてある区域を限り奉加を許した。 前掲『砺波郡万雑割伺密』に「 井波瑞泉寺・城端善徳寺・古国府勝興寺等仏供米」とあるのがそれである。これらの勧進は各家々で出さず村万雑から支出されるものであった。 延宝元年(1673年) からそれまで毎年行ってきた宗門帳書上げの提出を隔年にして取り締まりを少し緩和した。  するとたちまち旧慣に逆もどりして盛んに夜の談義勧進をする者が多くなってきた。 貞享元年(1684年)再び禁を厳しくして、且那寺の外の勧進を取り持ちする者のあったときは、その村の責任として     作過怠免(違犯の村へ罰として一年切りの増免)として手上免を申し付け、村折檻とする厳罰をもって臨んだ。また当時、各寺僧間において壇徒の収奪が盛んになったので、いわれなく寺替えすることを禁じた。ために一時僧俗共にみだりな行動をする者が跡を断ち、各自の職に精励するようになった。享保 (1616年~) ころから各寺檀は競争的に報謝、あるいは菩提のためなど種々の名目をつけて大法座や年忌要法をつとめ、群衆の参集参会を盛んにした。このことは一見善美のように見えるが、他面に大きな弊害を生じだ。民財を枯渇させ、その上、若い男女の見物と参詣で農耕を休み、財を投じて美服をまとい参詣する弊風が生じた。 これは風俗倹約の取締まり上ゆるがせにすることは できなかった。これに加えて享保の晩年( ~1735年)から 延享年間(1744年~) にかけて、信心の沙汰を路上大道でも憚りなく談義するようになり、この機を利用してまた勧進者の立入りが盛んになってきた。当時、僧侶と百姓は浅からぬ緑を結び、日常の交際と信頼にはことに親密なものがあった。十村も肝煎も、役人としては藩の御用方をつとめ取締まりの徹底を期する立場にあったが、個人としては僧侶との親密はもとより同行として信徒として、何事も表裏手加減の取扱いをなすことは容易であった。  ことに信仰に関しては格別として両様に法度を運用するようになった。

由来僧侶は、宗門帳によって一寺に密着させられた信者の戸籍、すなわち人別のことをつかさどることで常に門信徒と親密の度を加え、藩が取締まりを強めても実績は容易に上がらなかった。そこで天保(1830年~) ごろから藩は僧侶に対して布教の際、百姓の立場を明らかにさせ、それを基礎として信仰と世俗の二道を説かせ、 自然領主を重んずべき心根をさとさせ、知らず知らずのうちに藩の法令法度を尊び服従するようにしむけた。こうして加賀藩領の百姓の信仰はその大部分を浄土真宗で占めるようにし、百姓中から一人のキリシタン宗徒をも出さないように努めた。

出典:庄川町史

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