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松川除と庄川の用水

松川除と庄川の用水

8月 29, 2022 歴史 by higashiyamami

松川除築堤

庄川の洪水と流路の変遷

庄川のように扇状地面を流れる河川は、洪水で堤防が決壊すると流水は等高線に直角に流下して、農作物はもちろん耕地を洗い流し大量の砂礫で埋没させ、場所によっては家屋までも破壊流失させる。  洪水が海岸線近くで泥土を堆柄するのとは全くおもむきを異にするのである。庄川は扇状地を作らない河川に比べて、流水量の割に川幅がはなはだ広い。 理由は急勾配で洪水の流れが速いことと、大型の岩石が大量に砂礫と共に流出するからである。流れの速度を遅くするには河幅を広げる必要がある。それによって流れが浅くなって流速は落ちることになる。また、洪水で流出する大量の大型岩石や砂利は扇状地に出て堆積するので、河幅を広げれば堆積する場所は広くなり堤防決壊の危険も少なくなる。洪水の流れ方は、最も速い流れ(流心)の方向が両側の堤防に平行しないで堤防の間を蛇行する。すなわち、流心は一方の堤防に突きあたり、流れの方向は反対側の堤防に向かって流れるのが普通である。一般的には川の勾配が緩いと流れが遅いので流速による破堤の危険性が少なく、むしろ洪水量が問題になり、堤防の高さより多量に水が流れるとあふれて破堤する。ところが庄川のような急勾配を流下する川は流れの方向が問題になる。急勾配を高速で流下する洪水は、流心が堤防に激突すると堤防の下部側面を洗掘して破堤する。昔から、現在の庄川合ロダムから弁才天までの左岸は洪水ごとに危険にさらされている箇所である。だから川幅を広くして水深を浅くし、流れを緩やかにする必要があり、堤防の根固めは厳重に施工されなければならない。

庄川扇状地である砺波平野一帯には水田が広がって、大小の用水路は網の目のように関連しあい張りめぐらされている。 庄川がどこで破堤しても、洪水は必ずどこかの用水路に流入してその中を流れ下り、  用水路の弱い所を決壊し下流の用水路に入る。さらにその用水路も破壊してまた下流の用水路に入り、 次々に破壊を繰り返していくので、洪水の流れにあたる地域は、土砂を多量に含む高速多量の洪水流で、 耕地・水路・橋・家屋など、一切のエ作物はすべて流失して川原と化してしまう。被害地域の幅が最も広くなるのは砺波扇状地の末端にあたる旧千保川河身付近に発達した高岡市戸出町付近で、庄川の洪水ごとに甚大な被害を受けることになる。旧野尻川河身には福野町、旧新又川・中村川河身には砺波市の中心部(出町)があるので、庄川の破堤する場所によって福野町・砺波市は被害地となる恐れがある。さて庄川が現在のように、砺波扇状平野の東部に片寄って堤防に沿って流れるようになったのは、 寛文十年(1670年)から正徳四年(1714年)まで、四五年の歳月をかけて築いた弁才天前の松川除が完成してからのことである。弁才天前の川除築堤以前の庄川は、飛騨・五ヶ 山地方を通って沿山・小牧の峡谷を離れると、現在の庄川合ロダム付近から、数条の川筋となって、砺波平野を放射状に流下していた。数条の主な川筋は、二万石用水路に当たる野尻川と、鷹栖ロ・若林ロ・新又口用水路に当たる新又中村川と、舟戸ロ・千保柳瀬口用水路に当たる千保川と現在の庄川筋である中田川の四川であった。あるときは大流路となり、あるときは小分流となって互いに交錯しあい、網の目のような川筋となって、 奔放に砺波平野全体に土砂を運び出していた。その川筋と川筋の間の微高地に農民は早くから住みつき、洪水の脅威と闘いながら耕作地をまもり通してきたのである。『 加越能三ヶ国絵図被仰付候覚書』によると、庄川は応永十三年(1406年)までは、小牧村で西に向かって折れ曲がるようにして高瀬村へ流れ、川崎村(福野町)で小矢部川と合流し、松沢村(小矢部市)鷲ヶ島の方へ流れていたと記録されている。記述のとおりだとすると、  庄川は、現在の山見八ヶ用水路取入口から水路に沿って、庄川小学校グランド→示野神明宮→旧加越線東山見駅→ 坪野神明社の台地を通らねばならないことになる。しかし、示野神明宮の等高線上にある青島松原地内には、縄文の土器・石器が広く分布しており、住居址も発見されているし、士質を見ても歴史時代以降に庄川の河床であったとは、だれが考えてもうなすけない。

庄川が西流した限界は第三河岸段丘の下に沿って、庄川合ロダム→新用水路→庄川小学校グランドの下段→町営住宅→二万石用水路右岸→福野高校北端→福野二日町→上津→(旅川)小矢部川へ合流の 線しか考えられないのである。

『党書』は応永十三年から二五〇後の明暦元年(1655年)以後に書かれたものであるから、記述そのものは真実であるとはいい難い。 『極楽寺歴代略記』には「応永十三年ハ春ヨリ天下大イニ飢饉シ、秋ノコロ洪水大風未曽有ニシテ諸人悲シメリ」と記されてあり、応永十三年には大洪水のあったことが知られる。同年六月に庄川は大洪水となって野尻川が庄川の本流となり、次第に本流は新又中村川から千保川へと、西から順に束へ移動したと記されている。 このことは砺波平野開拓の歴史から考えてもうなずかれるが、本流は必ずしも西から順に東へ移動したのではなく、大小の川筋が網の目のように互いに流れ込み、分流していたと考えたい。

天正の大地震と河身変更

天正年間(1573年~)には庄川の主流は千保川で、合ロダム付近の藤掛舟渡場(舟戸)→青島→高儀新→    五ヶ→筏→古上野へと流れ、野尻川や新又中村川へも庄川の自然流の一部が流入していたと考えたいのである。天正十三年(1585年)十一月の大地震について、『 越中国名跡志』『三壺記』『党  書』『 雄神神社社伝』などを 総合すると、金屋岩黒地内の東の山(庄川左岸)が、庄川右岸の蛇島という所へ山抜けして土砂が庄川に崩れ落ち、庄川全川をせき止めてしまった。上流山間部の谷には水があふれていたが、下流へは流れないので川下は一面に川原となってしまい、鮭・鮎その他の川魚は、 大量に手づかみで拾い捕れた。二〇日ほどたつと、右岸名ケ原のふもとの辺から少しずつ川水が流れ出したので、多くの人々が心配した大洪水は免れ、住む家々にも 人の命にも 被害は少なかった。  この地震の発生した日については、『覚書』には二十二日、『 三壺記』には二十七日、『 越中国名跡志』には二十九日となっているが、 いずれもそれを証する資料に乏しい。

庄川の川上で山抜けした所を現地で想定すると、川西の小牧発電所下流200mの赤岩付近で、その後も度々山抜け・山崩れが記録され、 現在も地盤不安定で県の地すべり地域に指定されている。 蛇島と称している所も現在の赤岩付近で、岩盤が各所に露出していたものと考えられる。(現在の水位は当時より少なくとも十数m下降していたと考えられる)二〇日間も庄川をせき止めた水は、名ケ原のふもとがら土砂と共に流れ出したのだから、川の東側に片寄って流れたことになる。川西の住民は事なきを得たが、川東の雄神神社は川の流れをまともに受け、山すそにつづいている松林の社地の中へ入り込んで来たので、社地は東と西に分断されたうえ、御神体は社殿と共に押し流されてしまった。そこで新しい社殿は、これまでより一段高い東方の壇ノ城址側に造営し、二分された西側の社地の一部は、新しく流路となった庄川と千保川にはさまれた地形になり、そこに弁才天社をまつつて弁天島と称するようになったり今も弁才天社はもちろん雄神発電所を含む上壇とその付近をおかんと呼び、城址と共に神社の所有地となっている。庄金剛寺地内見取図に「此ノ川原ハ寛文三年三月廿六日之大洪水迄、東山ヨリ弁才天社迄一懸也、 山続社地ニ御座候。 弁才天社ヨリ西ハ元雄神神社拝殿ノ跡地ニ御座候」と川原の一画をしきっている。庄川の一部が雄神神社の社地へ流入するまでは、中田川の川筋がなかったということではなく、壇ノ城址のすぐ北側にある自然流の広谷川と、その下流三谷の谷内川の一部が平行し、一部は合流して千保川筋とは関係なく中田方面へ流れていたと考えられる。そして、天正十三年の洪水から、庄川の一部が雄神神社の社地をニ分して広谷川と谷内川の流路である中田川へ入り込んだのであろう。

柳ケ瀬普請

明暦元年(1655年)の大洪水で、庄川の本流はまたもや千保川へ流入するようになった。そのため高岡の瑞竜寺が危険にさらされたので、藩は中田川へ水勢を変えるため、柳ヶ 瀬(砺波市柳瀬地内)で川除普請に着工した。

高岡城は正保二年(1645年)幕府の「 一国一城令」によって廃城を余儀なくされたので、藩はそれに代わる「 一城同様」の拠点として瑞竜寺の造営に着手、寛文三年(1663年)ごろに竣工した重要な建造物である。承応二年(1653年)藩は庄川の水流の半分以上を千保川から中田川へ移すことを目的として、二川の分岐点において中田川の河床を掘り下げる川ざらえを行い、砺波・射水の両郡はもちろん、 氷見郡からも二カ月にわたって延ベニ万四、〇〇〇人余の農民を動員した。その結果、庄川の流れはその大半が中田川へ流れ入り、千保川・新又川には水が流れなくなって、用水不足を訴えるほどになった。柳ヶ 瀬川除普諸は藩の直営で、材木・切石・鉄道具を大量に使用して工事を進めていたが、この枡形川除普請は千保川の水流を締め切ってしまうのではなく、馳越と称して千保川の河床を部分的に上昇させ、 一定量を越した水量は川除を乗り越えて流下させる工法である。 千保川と中田川の分岐点付近は、庄川が山峡を離れて間もない所なので、河床は洪水ごとに急速度に浸食される地点である。洪水時は枡形川除普請によって水流が馳越し、増水量が一時的には千保川へ流入しても、河床は中田川の方が千保川よりもはるかによけい浸食されて低下することになるから、水勢は洪水のあるたびに中田川へ移動することになる計画であった。寛文四年(1664年)ごろ、水勢は中田川へ多く流れるようになり、寛文九年(1669年)の洪水以来、さらに中田川へ水勢が移動した。しかしこの方法も、水最の少ないときは中田川へ流れているが、大洪水になると大量の水が千保川へ流入してしまうので、瑞竜寺は洪水ごとに安全だとはいい切れなかった。藩は「天、  我に幸いせず」と判断して、馳越という洪水ごとに大量の川水が千保川へ流入する不徹底な方法を改めて、庄川の全水量を堤防によって完全に遮断し、千保川への流入を締め切る工事に計画を変更した。

弁才天前川除普請

寛文十年(1670年) 藩は、分流によって洪水を防ぐ柳ヶ瀬普諸の方式から、分流を一連の堤防体系によって締め切り、庄川河道を中田川一本に固定する方針に改めた。工事地点は、分流する千保川・新又中村川・野尻川の三川を弁才天前を選定して、長さ二、〇〇〇mに及ぶ二条の雁行する大堤防の築造に着手した。

締め切りに最も困難な場所は藩直営の工事とし、比較的工法の簡単な場所を農民に請負わせて工事を進めた。工事中は度々洪水で破堤したが、間断なく続行されて正徳四年(1714年)まで四五年の歳月と、  延ベ一〇〇万人を越すと考えられる労力と、はかりしれない巨額の費用を積み重ねてついに完成した。  なお中野・太田・二塚・高岡・新湊に至るまで延々とつづく堤防は、藩の一定方針のもとに地元農民の労苦を結集して築いたものである。雄神神社が保管している地図によると、合ロダム→庄川中学校東側桜並木路→旧舟戸用水取入口→旧鷹栖用水取入口→雄神橋の一番堤までのほとんどは藩の直営工事(定検地)で、  二番堤の一本橋→中野発電所→中野へ通じる現在のアスファルト県道は、農民共同の請負工事によって築かれたことが明瞭である。『越中史料』は、この工事のあらましを次のように記している。

庄川上流弁才天の改修は、寛文十年加賀藩に於て、野尻川、中村川、千保川の三川を締め切り、現の庄川に合流せしめたるものなり。但し当初ほ馳越の状態なりしが、正徳四年全く目的を達したるものなり(旧記)

上述のごとく近世初期には、庄川本流が千保川と中田川へ流れるようになったとはいえ、洪水になれば、 野尻川・新又中村川などの川筋にも庄川の水が流れ入って、人家や耕作地に被害を与えたが、農民は個々に野尻川・新又中村川などの川跡に、部分的な自衛堤防を築いて耕作地を守り、開田を進めていった。

砺波扇状地の開田を進めるには、 分流する川筋を固定した一本の河道にすることが最も重要なことである。河道を一本に固定するには、一定方針によって一連の堤防体系のもとに行う大がかりな土木工事が必要であった。 このような大事業は、零細な経済力しかなく、相互に異なる利害関係をもつ農民の力ではとうてい実施できるものではない。庄川の治水は藩の農業政策の基本に関係するものであって「中田川の川ざらえ」、「柳ヶ瀬普請」、「弁オ天前川除」は一定方針により強行的に実施されたものであった。そのため、庄川本流を指し向けられた雄神地区は耕地の半分を失い、その反面川除によって保護された青島・種田地区は、その草高が平均三倍以上に算定されるようになった。

洪水を防ぐには、いくつかの河道に分流させた方がよいと考えられたが、「中田川の川ざらえ」と「柳ケ瀬普請」では成功しなかった。それは、分流地点の弁才天付近の河床が不安定で洪水量は分割できず、 分流するどれか一つの川筋に集中して流れてしまうからである。庄川を中田川へ流入させようとして、河床を部分的に掘り下げてみたり、千保川の河床を人工的に上げてみたりしたが、上流から流下する大最の砂礫に対しては何らの効果もなかった。また、庄川を砺波扇状地の東縁を流れる中田川へ固定させたのは、自然の流れが中田川へ移ったことにもよるが、高岡を守るためと、砺波平野全体の開発を効果的に進めるための藩の方針にもよるものであった。川除奉行には改作奉行級の六人が任命され、工事は柳ヶ瀬普請と同様、 砺波・射水・氷見郡内の各村から村高に応じて農民が動員された。庄川は寛文のころ(1661年~) になると、 野尻川・新又中村川へはほとんど自然流入せず、 千保川と中田川へ流れていたので、野尻・新又中村川の二川は石積と土盛工事で締め切り、蛇籠で護岸したと考えられる。『 雄神村誌』によると「古ヨリノ庄川筋ヲ無二無三二堰キ切リ、東大門川へ水六歩ヲ流シ入レ、 貞享迄二庄川皆流レ入ル」と記すように難工事は千保川の締め切りであった。千保川の両岸から石堤を築いて川幅をせばめ、 鳥足を連結して川の中の拠点とし、蛇籠などを上流に向けて上弦型の弧を描いたように並べ、一の輪から六の輪まで連結させてせき切った。一の輪は現在の庄川中学校の南端にあたり、千保川の分流を締め切り、三の輪と四の輪で千保川の本流を締め切った。五の輪と六の輪の中間に馳越が設けられて、弁才天社の対岸まで一連の堤防が築造された。初めは、馳越の状態であったが、貞享のころになると完全に締め切り、石堤にしてしまったと推定される。弁才天前の川除が、俗に松川除と呼ばれているのは、堤防の根固めとして松の木が数百本両側に植えられているからである。まず二番堤の西側に植え、次いで東側に植えて並木とし、一番堤はさらに後年に植えたもので、弁オ天前付近は明治十四年に植えたといわれている。松川除が完成すると、農民たちは自然流を用水路に改修し、川跡を田地に変え、豊かな収穫によって安定した生活が保証されるようになったのである。

松川除の被災と復旧・補強

前記『 越中史料』の「 全く目的を達する」とは、三川を締め切って中田川へ庄川本流を流すことができたことを指すものであろう。しかし、これを裏付ける資料は見当たらず、逆に弁オ天前の松川除堤防は、 庄川の洪水に対して「 万全ではなかった」とする資料が散見される。 正徳四年(1714年)九月十日、野尻川の川除が庄川洪水によって破損したので、 藩の御納戸銀で工事をしてほしいと郡内十村が連署して改作奉行所へ上申した。その要旨は「 弁才天前川除普請の中で、最上流部にあたる野尻川の川除は長さ二四〇問(約436m)が御納戸銀で普請されていた。その中の野尻岩屋口用水取入口は、上流ヘ一〇 間(約18m)と下流へ間を、御郡打銀で普請するようになっている。当年八月九日の洪水で野尻川の川除が破堤したので、川除奉行が実地検分した上で普請してほしい」というものであった。これに対して改作奉行は、同年九月十二日「 用水方は御郡打銀で工事をする。残った分は御納戸銀で工事をすると御算用場から連絡があった」と十村に通達した。

明和九年( 1772年)の洪水は『砺波町村資料』によると「 二月二十四日と三月七日の洪水で、砺波郡庄川弁才天(松除)前御普請が切れ流れ、千保川へ水が七、八分も打ち込み高俵新村の御囲(藩営貯木場)の上で切ロ一〇〇間余が入川して、高儀新村・筏村・古上野村の田地に砂礫が入り、人家数十軒に水がついた 」と三月十四日付 で、十村連名の上、改作奉行所へ報告し、十村は復旧工事を早急にしないと、被害が大きくなるばかりだと申し入れた。

この申し入れに対し七月六日、改作奉行は十村に対し、厳重に監督して工事を丈夫にせよと命じた。工事として藩から銀三〇〇貫を借り入れ、七月十二日に一〇〇貫を返納し、残る分は来月二十日まで皆済すると報告している。この大洪水の範囲は七〇カ村に及ぶと記録されている。また、藩は天明二年( 1782年)この工事請負人一人に、職務精励の理由で銀子を目録で四与している。天保二年(1831年)庄川洪水で松川除が決壊した。復旧工事に要する大量の蛇籠を造るため、十村は郡内の村々へ各自持藪の竹を伐り出すように村役人に指示し、値上がりについても注意を与えた。郡内で足りない分は河北郡(石川県)から一、〇〇〇貫以上も大量に買い付けをしている。

天保十一年( 1840年)九月十一日の洪水で松川除の前に造られた石積みの川除が決壊したが、松川除は危いところで災害を免れた。翌年から三カ年間、庄川筋の各用水から水下銀(用水特別税)を徴収して、松川除を補強するため弁オ天前川除盛り足し普請を行った。見積書によると、御納戸銀で施工されたが、一部自普請といわれる農民請負の工事も実施された。嘉永四年(1851年)七月には弁才天前川除普請を行ったが、こ の補強工事は庄川筋各用水の水下銀で施工することを、定検地所の担当役人川除奉行から村々へ通逹された。

藩政末期から明治初期にかけての洪水は、性質・水害などの規模は、資料不備で不詳であるが、松川除堤防が決壊したのは明治二十九年と昭和九年の二回であった。明治十六年内務省直略で庄川の改修工事が始められ、上流山間地でいくつか砂防工事が行われただけで、十八年には工事中途で打ち切られた。  したがって二十九年の水害は、藩政時代の堤防のままで被害を受けたことになる。七月二十一日、 庄川最下流の射水郡二塚村では二番・三番堤をも決壊し、全川の濁流は千保川から高岡市街地に流入して多大の損害を与えた。 まだ堤防復旧もできていない八月二日・九月十日、 またもや洪水で流失家屋四七一戸を出した。庄川は弁才天前から中田橋付近まで、川幅は大体二三〇間(約420m)前後もあるのに、二塚・大門ではわずか八〇間(145m)余りしかない。この度重なる被害を受けて、 三十年から川幅の整理と、河口を小矢部川から分離する改修工事が政府直轄事業で行われ、大正元年に竣工した。 このようにして、庄川は小矢部川と完全に分離された。

松川除の維持管理

弁才天前の川除は、庄川の治水上最も重要な地点であったため、一番堤の定検地堤は藩営によったもので、定検地奉行の管理で毎年春秋定期に補修工事をしてきた。二番維持に努め、大工事には御納戸銀または、御郡打銀を願い出て補強工事をしていた。『御改作始末聞書』には明暦元年(1655年)、「用水江下農民には、 江高一〇〇石について五〇人あて川除・用水普請のため働かせる水下役を課してよい。これ以上の人数がいるときは賃銀を支払って雇うこと、水下役は一年に一回限りで二回以上課してはならない」となっている。その後万治元年(1658年)になって一〇〇石につき三〇人、 銀代納は一〇〇石につき銀二〇匁と変更された。当時の庄川筋用水の明暦元年の江高総計はおよそ七万石余、水下役は江高一〇〇石について五〇人であるから、一年に三万五、〇〇〇人は動員できることになる。毎年全員が弁才天前川除普請に充当されることはないだろうが、「半水下役」ということが散見されるので、   半分が就労したとしても、相当な労力を毎年投入したものと察せられる。治水の経費は、藩の直轄工事である定検地普請は御納戸銀で、その他の工事は藩内の諸郡に費用を割り当てる諸郡打銀や、一郡内に割り当てる御郡打銀が充てられるが、弁才天前川除普請は御納戸銀で始まり、事が進むにつれて打銀となり、幾民負担も多くなってきたようである。藩の治水関係組織のうち、川除奉行は現地を視察し維持管理については直接に指揮監督し、藩の関係機関へ上申した。江下農民に関しては御郡奉行へ、土地に関しては改作奉行へ、経費は御算用場へ、七木禁制の土木工事用木材は山廻り役人へ連絡した。十村は関係機関の命令指示を受けて江肝煎に連絡した。  川普請に対する十村の役割を記した『 越中諸代官勤方帳』の川除普請に関する条項は次のように指示している。

⑴川が洪水になれば、川除が欠損したり切れ流れないように十村は現場へ急行し、江下農民を徴集して警戒せよ。そのようすを改作奉行・川除奉行へ報告せよ。川除が欠損したら江下農民に土俵を作らせ、 近くの百姓屋敷の竹や木を枝葉をつけたまま伐り倒して、水除けわくなどにくくりつけておくこと。また鳥足などを急いで作って破堤した所へ組み入れよ

⑵川除が大破して江下農民は負担に堪えないとき、十村は江肝煎から損害関書図面を書き出させ、川除奉行・改作奉行に差し出すこと

⑶急を要する工事のときは、十村が見積書を提出すると、御算用場で審議し川除奉行は指令を出す。起工を命じ竣工すると川除奉行が検査する

⑷普通工事は、川除奉行が現地を見分して御算用場で審議し、御普請所で決裁し入札または随意契約の工事として十村が監督し、川除奉行は日々巡視する

⑸江下農民負担工事(水下自普請)は、十村は現地を見分して入用品の数量を見積り、江肝煎から願書を提出させる。十村は認定の奥書をして川除奉行に差し出す。許可を待って入用品の下付を受け、十村が監督して起工を命じる。 なお禁制の木材を使用するときは、相当の手続きをする。 竣工すればその旨川除奉行へ報告する

享保六年(1721年)二月末日、野尻岩屋口用水の江肝煎三人が「 勤方不精」という理由で役儀を召し上げられ、新しい肝煎が任命されたが、勤務に対する誓約書「 江肝煎起証文」の提出を命じられた。

それによると

⑴庄川洪水のときは勿論のこと、川の水が変わったらすぐに江下農民の人足を運れて用水取入口を守り、川除が欠損するようすがあればエ事をすること

⑵いつも用水取入口と川除を油断なく見回って、少しでも欠損しているところがあればすぐに修理をすること

⑶日照りがつづくと、油断なく配水に注意して、えこひいきをしないこと

⑷用水の水門、水路の堤の工事費は、水下高によって負担すること。用水を少しも漏らさないようにせよ

と記してい る。 また江肝煎に、 用水とともに松川除保全の義務づけを再確認させてい る。一方、川除普請を請負う制度も次第に普及しはじめた。天明元年( 一七八一)弁才天前から下流の堤防普請は一定金額で一定請負人に工事をさせることになっ た。

御郡奉行・改作奉行から十村を通じ、中野村(砺波市)・庄新村・青島村(以上庄川町)・杉木新町(砺波市)・金沢の者たちに工事費銀五〇〇匁程度の普請を請負わせることにした。

寛政九年にどのような特別工事が行われたかは不明であるが、「堤が小破のときは、その村方へ申し入れて普請させる」「常々村々で手に合う限り応急工事をすることになっている」「百姓が自分で普請の工事をするときは ・・・」とあるから、村々は部分的に普請を請負っていたようである。この普請主付の識務は、現場見回りが主要な任務なので宿賃などの出費が多く、毎年のように償銀の下付を願い出ている。年々の下付額はわからないが、寛政十二年(1800年)銀八〇〇匁が下付されている。

堤防の維持管理は、明治以前には青島村野村伝九郎・高鍛新村新井佐三郎・鷹栖村多田茂三郎の三人が総代として事務を取扱い、明治十五年から水下村一〇四ヵ村が解散したので青島村が代行し、二十一年から県に水害予防組合ができてそこへ移管された。

藩の治水と用水施策

藩の庄川治水の基本方針は、弁才天前の川除普請松川除堤防によって、分流している野尻川・中村川・千保川などを一連の堤防体系によって遮断し、庄川全川の水量を中田川だけに落水させ、中田川筋の堤防を強固にして、庄川河道を一本に維持しようとするものであった。寛政八年(1796年)、庄川左岸松川除堤防内に取入口を持つ七口を、松川除に関係のない上流の赤岩付近に合口させようとする改作奉行の諮問に対し、野尻岩屋口用水側は、千保川へ三割、中田川へ七割分流させた方がよいと答申した。藩は堤防を高め、河道を一本に制限する方針であり、用水側は、分流させて洪水量を分割する方が安定すると主張し、両者は治水の根本で対立した。千保川へ庄川の一部を流入させることは、高岡を保護しようとする藩の政策上許されることではなかった。しかし用水側は、「分流する千保川へ相当の工事を施して用水取入口を設け、洪水の時は水門の戸をおろせば、松川除内に用水取入口がないのと同じである。下流四口用水の取入口をここに設ければよいのではないか」と述べた。さらに「赤岩付近へ全部の用水を合口させると、六万石ばかりの用水路になって、水の取入量は庄川全流量の六、七割も導入せねばならない。このような大量の水をどう扱えばよいかわからないのに、その上洪水ともなればどうなるのか見当もつかない。江柱が崩れ落ち切れ流れたら、下流用水はもとの取入口で導水すればそれでよいが、上流で取水している用水はどうにもならなくなってしまう。また、従来渇水期になると各用水は取入堰の状況によって、互いに水を貸借して必要水量を確保してきた。今、赤岩付近に庄川全部の用水を合口してしまい、一つしかない合口取入堰か洪水で決壊流失すると、庄川筋の用水は全部水不足になってしまう。今年春に取入堰が切れたので昼夜兼行でエ事をしたが、急には復旧できなかった。三口でさえこんな具合だから、七口ともなるともっと困難になるであろう。庄川用水七口全部を合口することは近視的な考えで、江下農民は、洪水などを考えると危険なことであると心配になる。答申するにあたって、郡全体の損益を考え、我々農民の希望することを配慮されたい」と結んでいる。藩の治水方針どおりに実現できなかったのは、各用水の利害関係ももちろんあったろうが、左岸の各用水を赤岩付近に全部合口させることは、技術的にも無理であったと察せられる。

出典:庄川町史

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