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南北朝と壇ノ城

南北朝と壇ノ城

内乱の背景

鎌倉幕府の滅亡後、後醗醐天皇は自ら政務にたずさわり、徹底した王土王臣思想に基づく専制支配を実行した。個別安堵法の発布や国司制度の復活は、天皇自身の政治理念を具体的施策として打ち出したものであった。しかしその施策はあまりにも現実とかけ離れたものであったので、かえって全国各地に混乱を引き起こした。また人事面においても、天皇専制の基礎としての官僚制を作り出そうとしたが、それは家格の伝統を無視し、官職の均衡を著しく破壊するものであったといわれており、このように従来の体制を無視したやり方は貴族の内部からも反発を生み出した。

内外に矛盾をはらんだ建武政権は、 建武2年(1325)北条時行の乱の鎮圧に関東に下った足利尊氏の離反によって崩れ、延元元年(建武三年)後醍醐天皇は吉野へ潜幸した。これ以後半世紀にわたる南北朝の対立抗争を中心に、武士階級だけでなく在地の農民までも巻添えにした全国的内乱の時代が始まるのである。源平の内乱を全国の武士団の上に吹いた風に例えるなら、南北朝の内乱は、在地の基底部までも巻き込んだ嵐であった。折から鎌倉幕府が武士の支配のよりどころとしていた惣領制は崩れ、惣領を御家人として把握しただけではすべての武士を完全に支配することができない情況を迎えていた。鎌倉幕府体制から排除されたまま生み出される庶流の武士は、一方で農民闘争の圧力をうけ、一方では幕府・庄園領主層との矛盾をさらに深め、こに悪党行動なども展開されていったのである。建武政権はこうした矛届をはらんだ層を、 皇室領の在地武士や大寺社の武装集団とともに自己の陣営に迎え入れて軍事力とし、倒幕に成功し得たものであるにもかかわらず、その歴史的要請を的確に把握することができなかった。またそれ以後の内乱の過程でも一国支配の成否は常に国人領主層の向背にかかっていた。

越中における南北朝の抗争は、 建武二年(1335)足利尊氏の離反に伴って守護晋門清俊が井ロ・野尻・波多野などの在地武士とともに、  国司中院定清を撃ったことに始まる。  守護は内乱期を通じて、従来の基本的職権である大犯三ヵ条の上に任国の支配を容易にする諸権限を獲得していった。しかし守護の任国は常に不安定であり、支配は動揺をつづけた。それは守護の交替回数の多かったことにもはっきりと現れている。国人の動向は守護の存在そのものをも左右することがあった。

建武三年(1336)には、吉見頼隆が越中と能登の守護を兼任していたが、翌年ヒ月には普門俊清が代わって登場した。ところが康氷三年(典国五年・1344)十一月には桃井直常がその任にあたり、晋門俊清は所領を没収されて後、南朝勢力と協力して桃井氏らと争うようになった。この俊清の守護罷免と幕府離反は以後の戦乱をますます複雑なものにし、とどまることなくつづいた。その後越中の守設は、かつて幕府に離反し南朝方として桃井氏らと戦った井上俊清が任じられ、その井上氏が再び離反すると細川頼和に移り、さらに貞治元年(正平十七年   1362)七月には、細川清氏の幕府離反とともに若狭(福井県)に走った細川頼和に代わって、当時十三歳の斯波義将が守護職につき、高経が後見人としてその実権を握った。そして同年斯波氏は信濃(長野県) から越中へ人り、国人を集めて挙兵した桃井氏の討伐のため二宮次郎左衛門入道円阿を派遣した。円阿は庄城(庄川町)・野尻城・鴨城・頭高城などに転戦し、その軍忠の次第が翌貞治二年に報告されている。ところが 貞治五年(1366) 突如斯波氏の管領時代は終わり、 貞和五(1349)以来、 反尊氏.反義詮を通してきた桃井直常の弟直信が任命された。  桃井氏は機会をみては兵を挙げ幕府を悩ましつづけてきた。斯波氏もまた幕府から威信を問われ、 追討令が出されかけていた時、義将の後見人であった高経が病死し、それによって斯波追討の名目は消された。 義将が将軍の赦免を得た翌応安元年(正平二十三年・1368)二月、 桃井直常は越中へ逃げ帰り再び幕府に反抗した。そして、これを機会に義将は越中守護に還補され、桃井討伐を命じられた。この時義将の従軍の中には、先にも桃井討伐のため越中に派遣されたことのある二宮次郎左衛門入道円阿の顔もあった。

応安二年四月二十八日桃井直常らの軍勢が能登に乱入し、能登守護吉見氏頼は得田・得江の諸氏を率いて応戦した。 八月に入って直常の子直和は加賀の平岡野に陣取り加賀守護富樫氏を苦戦に陥れた。吉見氏頼らは兵を率いてこれを助け、九月七日、宮腰(金沢市)に攻め寄せた直和の軍勢をその近くの大野に追い、さらに大野から松根の陣(金沢市)・一乗寺堡(津幡町)に退けた。その一乗寺堡も九月十七日には落ち、十八日には千代ケ様城(庄川町)  井口城に拠った。しかしこれらの諸城も同月二十四日にはあえなく陥落、直和は直常とともに新川郡の松倉城(魚津市)へ退いた。さらに応安三年(建徳元年)直和は長沢(婦中町)で敗死し、翌年には最後の抵抗を試みた直常も幕府軍に大敗を喫し、これを境に桃井氏は没落の一途をたどり、 反幕府勢力は次第に衰えていった。

壇の城と千代ケ様城

雄神川の東詰、 庄川にせまる壇ノ山に、その名も壇ノ城と呼ばれる城址がある。この城は庄村の高台にあるので庄ノ城と称したともいわれる。この城については、 享保年間(1716~)のものと思われる『金子文書』に、庄金剛寺村の古城としてその規模は長さ五十間、横四八間で、天文年中(1532~)には庄村の石黒与三右衛門が居城し、城の西の真下に木波の町が広がっていたと伝えられている。現在も城址の南方に上町、北方に鉄砲町などの地名が残っている。かといってこの地で江戸時代にみる城下町を想像することはできないが、近くに由緒ある雄神神社もあり、このあたりが付近一帯の中心であり、要衝の地であったことがうかがわれる。

壇ノ城址からさらに1.5㎞余り奥に入った三条山の一画に千代がためしという地名があり、ここに本丸跡があったといわれている。 南北朝の内乱の一コマを彩った千代ケ様城がここであり、壇ノ城と同一ではないとの説や、 壇ノ城・庄ノ城・千代ケ様城三所一跡との説もある。重杉俊樹の最近の調査によると、 従来知られていなかった位置・規模・形式など新事実が明らかになった。

位置及び地形

庄ノ城址は、 段(壇)ノ山と呼ばれる、西方にやや突き出した標高約136mの台地上に位置する中世の台地城郭で、 常時居住の性格をもつ。この台地の北方・西方および南方は魚崖で、西方にほ庄川を控え、東方に小丘陵を有した築城の適地である。一方、庄ノ城址の南方約1.5㎞標高約334.5mの三条山には、千代ヶ 様城址があり、庄川対岸からもはっきり望見することができる。千代ケ様城址は中世の典型的な山城で、かなり要害な位置にあり詰城の性格をもつが、最近は山版を通る道路が開発され、比較的登りやすくなった。

規模及び形式

庄ノ城址については、  現在は田畑と化し遺構らしきものはほとんど残存していないので、その規模については正確に断言できない。

『三州志』および『 宝暦十四年調書』には「 東西55間(約100m)、 南北48問(約87.3m)」とある。また『越中地名考』には、「城址より7、 8丁(約7、800m)計辰巳(東南)の方に、台所屋敷と云処あり其北に池跡あり。  此池より城の方へ石階の跡あり。」とある。これによって考えると、 面積は約8,600㎡ もあり、以外に広大で、常時居住に必要な施設も整っていたのであろう。

千代ケ様城址は、『越中志徴』によると、「古城跡の由なれど、  遺状見えず」とあるが、調査ではかなりの遺構が発見された。三条山の頂上部は平坦で、郭は東西に細長く伸びている。主郭部と考えられる所は最も広いが、  東西約64m、 南北約12~14mとかなり細長い。東南部には、部分的ではあるが最高部で約1m、  幅約1mの土塁が約19mにわたって残存している。

郭の東端より約10mの位置に、 深さ約0.5m、幅約2.5mの空濠が、 北方の郭を約8mばかり仕切っている。 さらに、  この西方約14mの位置の南北両側に、同様の深さと幅の空濠があり、 南方約3.5m、 北方約4.0mで郭を仕切っている。 郭の西端には深さ約1.0m、 幅約3.5m、 長さ約8.0mの空濠があり、 西方の郭と完全に仕切られている。

西方の郭は、  東西・南北それぞれ約3.0mの狭小なものであるが最も高く、三角点 (334.5m)がある。この南方は段と低く、ややゆるやかな斜面で約5mほど伸びている。この郭は見晴らしがよく、眼下に庄川や砺波平野を一組できることから、おそらく見張り櫓が存在したものと考えられる。また、この郭の北方はやや急勾配ではあるが尾根がつづき、少し下った位協に東西約40m、 南北約20mの平坦な一郭がある。これより右方の尾根を下ると、さらに東西約14m、南北約10mの郭がある。左方の尾根を下ると、  深さ約2.0m、 幅約6.5m 、 長さ約11.0mの最も大規模な空濠がみられる。 主郭部の東方には別郭があり、これと切断されているが、自然の低地をさらに人工的に削りとったものと考えられる。 東方の郭にも空濠が一個みられる。

考察

千代ケ様城址の山上の広い平坦面が主郭部で、 小規模ながら建造物が存在したものと思われ、この東端の土塁は、防禦のほか風除けの役目をもつもので、同規模を持つ城址は、室町期に建造された山城に全国的にみられるものである。また、西方最高所の小郭ほ見張り櫓の存在が考えられ、中腹の平坦面は、 防禦陣地の性格をもつものであろう。建造物の様相は不明であるが、おそらく中世城郭独得の板またはカヤぶきの建物で、崖縁および空濠縁、土塁上は木柵でもって囲まれ、空濠には木橋が架設されていたであろう。城には、戦国時代後半期ごろに、石黒与三右衛門が居住したとされている。

庄ノ城址および千代ヶ様城址は、距離的にかなり離れているところから、それぞれ独立した城郭とみなすこともできる。しかし、庄ノ城を平時の居館とみなし、千代ケ様城を詰の城とみる、いわゆる一城別郭式の城郭と考えることもできる。このような例としては、県下では楡原館ー 楡原山城(婦負郡細入村)が代表的なもので、このほかに城ガ山城ー  胸ガ平城(黒部市)などがある。 県外のものでは、 朝倉館ー  一乗山城(福井県足羽町)が有名で、 ほかに北条館ー北条城(新潟県北条町)や躑躅ガ崎館ー 要害山城(山梨県甲府市)などがある。

庄ノ城および千代ケ様城の築城年代は、記録がないので正確に知ることはできないが、両城はほぼ同時期であろうと思われる。

庄ノ城址には、明らかな遺構が少ないので推定は困難であるが、千代ガ様城址は、築城形式 からみて室町時代前期のものと考えられる。さらに当時の状況を推察すると、南北朝時代の築城であろうと思われる。 南北朝時代に築城されたとみられる県下の山城としては、 松倉城址(魚津市)・ 内山城址(下新川郡宇奈月町)・千久里城址(氷見市)・箕輪城址(滑川市)などがあるが、松倉城址を除くといずれも規模は小さい。ま た、松根城址(石川県金沢市)も同時代の築城で、戦国時代後期に改修されたと考えられ、規模は大きいが、山上の仕切空濠は千代ケ様城址のものと類似している。おそらく、庄ノ城 および千代ケ様城は一休化した城郭で、平城の井口城や野尻城とともに、砺波地方における桃井直常の一大拠点であったのではないだろう

今、  三条山に登りその足下を洗って 流れる庄川を見るとき、かつてははるか川向こうの弁才天まで山がつづき栗の森が茂っていて、そこを斯波氏の率いる幕府軍が攻めて来たとは、想像もできないであろう。

壇の城と金屋

圧川町金屋の発達は、  壇ノ城と関係があると思われる。婦負郡 富崎城(婦中町)は中世神保氏が居城したといわれる山城であるが、 その城下町と称されているのが河原町である。京都の河原町でもわかるように、ここも山田川と井田川の合流点あたりで、文字どおりの川原であり、ここに百姓(農民)以外の手工業者や芸能者(すなわ          者)を 居住させたのであった。富崎の地に鋳物師宮なる小祠がある。『神社明細帳』には記されていないが、『 越中旧事記』に此所に鋳物師有て天福年間(1233)の亀鑑あり、所の伝へは勅筆なりといふ。 此綸旨に公卿の名多く連れり。 然し勅筆といふ事如何なれど、 一行一句御辰翰成也。  不浄・不礼にて拝見せしもの、立所にたたり有事掲愕也と。常は祠に納めて宮とす。二月九日祭とす。御綸旨祭といふなり。天福は八十六代四条院の年号なり。

現在綸旨は失せて、それを納めた桧の箱だけが残っている。  表に、

天福元年十一月吉日

蔵人方御蔵真継刑部少輔  花押

御牒

とあり、   箱の裏に「 干時正徳四甲午年八月九日書之」と 買いてある。真継氏は、中世以来、宮中における鋳物師の叙位・任官を世話した家柄で、天福の年号のある綸旨も真継氏によって偽作されたものであろう。宮崎で有名なのが本覚寺である。 本覚寺は『 寺院明細帳』に

由紺   開基明雲ハ飛騨吉城丸村ノ住人藤岳四郎時好トイヘル者ニテ、康永二年(1343)其地ニ一宇ヲ創立シ法覚寺卜号ス、 第七世ノ住戦無雲、 永正二年(1505年)越中国婦負郡袋村二移住、第九世ノ住職顕誓、 永禄五年(1562)富崎ノ城主神保安芸守勝重ノ命二依リ寺ヲ富崎二移シ、元亀元年(1570) 寺号ヲ本党寺卜改候ー 下略ーと、 もと袋村にあったとし、現に同寺の寺中となっている深妙寺は、その由緒を『 寺院明細帳』に 由緒   開基円順ハ河内国丹北橋川村ノ住人田刃五百記トイヘル者ニテ、婦負郡川原町ニ一寺文明七年(1475) 二創立セリ、 其後万治二年(1659)五月、 富崎村へ移転シ深妙寺卜公称ス
としている。  高岡の「 やがえふ節」に河内丹南鋳物のおこりの文句がある。  丹北郡橋皮村は今日のどこかはっきりしないが、この地を含む大阪府の南河内郡は鋳物師と関係の深いところである。『 日本地書』の上方の巻に

丹南、 延喜式逸五檪本神社は丹南の南大字真福寺の檪本にあり。 其南大字大保に鍋社と云ふものあり、鍋子丸を祭る。古へ此地に鍋釜の鋳造業ありと。「河内志名所図会」を按ずるに、 鍋子丸は丹比氏の祖椀子皇子に非ずやここの鋳物師が鋳た猫足の釜というものが今に残っている。  もとは河原町に宮崎城の城下町としての金屋があったと思われ、  城址との距離は0.7㎞である。こう考えると、まず浮かぶのが富山大学の南方(富山市)にある「 金屋」である。その真西に白烏城があった。  この地には今は城との間に大河はないが、 呉羽山沿いのとこるはアワラ田・フケ田といわれる低湿地で、もとは神通川の支流井田川が流れ込んでいた。   その距離は1.0㎞でこの地を白烏城の城下町の金屋と考えたい。

庄川町の場合も同様に考えて見たい。 現在の弁天温泉の付近は「台所屋敷」ともいって、城主の居館のあった場所で、城はさらにその南方に広がっていたといわれる。  庄川の東岸は土地が狭小で広い地域に城下町をつくることができず、勢い対岸に及んだものであろう。鋳物師の住む場所は、火を使うことから防火上本丸からは相当離れて位置している。近世のことで十分比較にならないが、 信州の上田には真田氏が築城し、下野(栃木県)の佐野から天命の金屋を連れてきた。 いまは小矢部市石動の観音寺にあるが、もとは立山にあったといわれる地蔵瑞を鋳た島木家は真田氏の一族で、今も旧地で鋳物業を営んでいる。そこは上田市の常田で、城から1.5㎞離れていることからして、庄川の金屋が1.2㎞離れていてもおかしくはない。

中世の城下町に、 どうしても必要なのは皮革細工と金属細工をする人々であった。皮細工をするのはカワタと呼ばれる特殊な人々が主であったが、 金属細工をするのは宮中から官位を受領した一段上の人々のように思われていた。

壇ノ城がどうしてこの地に置かれたかについてはいろんな要因があろうが、その根本には庄川があったであろう。五ヶ山宅左衛門家(平村)の文書に、 前田利長が「 庄川流域の材木を庄金屋の土場に集めよ」と下した文禄年間(1592~)の金屋木場(御囲)の許可書がある。  また文禄三年(1594)で思い出すのが、越中瀬戸の彦右衛門に下した利長の文書で  「どこでも燃料の松材を伐ってもよい。」というのがある。しかし、  このことから越中瀬戸焼が 始まったとするのは即断で、 新たに陶工を迎れて来て開陶したとするよりも、領国草創のことだから既得権の保護と見た方がよい。庄川の流木も同様で、庄川金屋の木場もそれ以前からあったものと思われる。

材木の流送は古くから重要な産業であった。南山城(いま京都府南端)の木津でもわかるように、近江・伊吹・丹波・山城をはじめ西国・四国の材木がここに流送され集積されて、奈良の都へ運ばれたのである。 古来唯一の産業である飛騨の林産物が越中に出る、その出口の一つが金屋の木場であった。  ここの木材の流送は中世以前にさかのぼるものであり、この地を押えることは、 中世の武将たちにとって大きな資源を手に入れることでもあったと思われる。 ここまで材木を出せば、 あとは扇状地面を枝状に広がる水路で、越中の西半分はどこへでも送ることができた。 であるから壇ノ城の位置の設定は、 単に軍事上のみならず、  庄川の流木を離れては考えられなかったであろう。

この城下町に金屋の必要なことは、普通の城下町以上であったと考えられる。それは流木には幾多の金属製品( トビロなど)が使われるからである。 江戸時代になっても斧頭八五提というふうに、流木の権利を呼んでいる。 こんなわけでこの地に金屋が発展したのであろう。

出典:庄川町史

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