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合口事業の着工

合口事業の着工

用水合口期成同盟会結成

大正十四年五月十八日、庄川取入左岸用水合口期成同盟会結成式を出町の郡公会堂で行った。規約に結成の目的を、庄川左岸取入用水の合口を県事業としてその施行促進を図ることとしてこれを強調した。  事務所を郡役所内に置き、合口促進に必要な勧誘や交渉・斡旋および運動、または合口施行上の障害を排除し、各用水の連絡の保持や意見の発表などを定めた。常任議員には各普通水利組合管理者がなり、 評議員には用水関係町村から各用水組合ごとに二人を選出した。また、知事あての合口促進に関する請願書に調印し、七月左岸会長・副会長は右岸会長らとともに上京して、農林省に合口促進の陳情を行った。

左岸上流二万七千石用水と下流五用水の合口についても意見の一致をみたので、評議員定数を二万七千石六人、山見八ケ三人、新用水一人、二万石五人、舟戸口四人、鷹栖口四人、若林口四人、新又口四人、千保柳瀬口四人、計三七人とした。右岸の各用水側も十五年六月十一日合口期成同盟会を結成し、 事務所を東般若村役場内に設置した。理事は芹谷野二人、針山ロニ人、三合新一人の計五人とし、評議員には各用水議員、幹事には関係町村長を充当した。庄川を共同母体とする左岸と右岸で、用水を合口する共通目的を達成するための期成同盟会は、唇歯の関係で相携えて合口への勧誘や交渉、または斡旋にあたり、目的達成のために努力を重ねた。各用水の意見が調整され、資金調達の見通しもついたので、庄川用水合口事業はまず合口堰堤築造工事、次いで左岸工事、右岸工事と大略三期に分けて施行されることになった。最も主要な工事は堰堤の築造に伴う左右両岸の合口取入口設備工事であった。大正十五年十一月、富山県は「 庄川用水合口計画」を通常県会に提案した。その概要は、⑴石張コンクリー ト詰めの合口堰堤を赤岩付近に築造する⑵全川水量を左岸に導入し、右岸へは庄川本流を横断して逆サイフォンで導水する、という計画で、五年継続事業として二三六万七〇〇〇円を計上することを全会一致で可決した。

昭和三年、この事業に対して国庫補助交付が決定したので、実施計画によって許可申請をしたが着工するまでには関係官署の細部にわたる手続き、地元関係者に詳細について了承を得ること、河川工作物の設置、流木の処置、 発電水利使用の出願、漁業関係者との接衝、飲料水浄化など、解決せねばならない問題が数多く残されていた。また、国庫補助は財政緊縮の趣旨で昭和八年まで延期され、財界の不況で合口堰堤下流に予定される発電事業の契約も円滑に運ばなかった。

二万七千石用水の抗議

庄川左岸に取入口を有する二万七千石用水以下、舟戸ロ・鷹栖ロ・若林ロ・新又ロ・千保柳瀬口各用水の合口施行について、各用水組合は、信義誠実を旨として旧来の慣行および沿革を明確に尊守するということで、何等の異誠もなく同意し、覚書の交換を終了した。ところが農林省で更正した設計書は、二万七千石以下各用水組合において協定した条件にそわない案であった。そこで二万七千石用水組合は、   この設計に基づく事業の遂行は、左岸各用水組合の意思に反するものであると県知事に抗議した。この知事あての『庄川取入用水合口施行上二関スル意見書』によると、設計書には右岸の芹谷野・六ケ・針山三用水のサイフォ ンによる引水取入ロを、左岸の新用水分派取入水門の対岸に設置することになっているが、これでは二万七千石の分派三用水と対等もしくは上流に位するので、左岸合口条件に違反するものである。したがって、サイフォ ンの引水取入口を二万石用水分派取入水門の下流二〇間(約三ハm)以上の 地点の対岸に設置するよう変更すること。また、右岸各用水との合口条件は後日協定するが、 農林省に対して左岸用水の合口条件、とくに工事方法についてはこれを採用するよう再考を促し、これに反する許可はすみやかに取消すようにという主旨のものであった。

発電事業など計画の変更

県は、左岸用水組合の合口施行についての抗議を参考に、昭和七年三月県参事会へ計画変更案を提出したところ、県参事会では左岸にも右岸にも発電事業を付設することに変更した。その計画案は

現在の用水取入口左岸六ヵ所、右岸三ヵ所を廃して、上流に位する芹谷野用水取入口の下流で、庄川本流に転動堰堤を築き、左右両岸に取水口を設け、各別に取水する。山見八ヶ用水および二万七千石用水は単独に取入口を設け、舟戸口以下の各用水路は前記水門の下流から導水し、舟戸口で二六・五尺(8.0m)、若林口で二三・五尺(7.1m)の落差を利用して発電事業をあわせて行い、各用水に適宜分水する。右岸幹線用水は、庄川本流の堰堤右岸に取水門を設けて導水し、芹谷野用水の必要量を分水、その残余で約七九尺(23.9m)の落差を利用して発電し、六ケおよび針山・中田用水に分水する。 取水量は左岸一、 九九一個、右岸四二三個、  合計二、 四一四個とする。

庄川本流の堰堤は取水堰堤(固定堰)の標高を三三五尺(101.5m)とし混凝土の表石張を施工するものとする。基礎は岩盤に取付けられるので最も安全である。計画取水位を標高三四八.五尺(105.6m)に保たせるため固定堰の上部に輾動堰(ローリングゲート)を設置する。ロー リングゲートは直径一〇.五尺(3.2m)、エプロソの高さ三.五尺(106cm)、長さ九〇尺(27.6m) のものを二連設置し、電動装置で上下して洪水量の調節をする。

各用水の取水方法は、最も高位にある山見八ヶ用水の取水を基準とし、取水位標高を三四六・五尺(105.0m)としてこれより絶対に下げない。 その最高水位は前記の三四八・五尺(105.6m)とし、その差二尺(0.6m)の間で各用水にそれぞれ取水させ、流入の順位は従来の慣例に甚づいて計画する。左岸幹線水路は、庄川本流の取水門から所要水量を導入し、舟戸・鷹栖・若林新又・千保柳瀬の左岸五用水に分水するものであって、取水門から千保柳瀬口用水まで延長二、三ニ一・ニ間(4,224.5m)に及ぶものである。地勢は大体一五〇分の一内外の傾斜があるので、水路の勾配を一、〇〇〇分の一または二、〇〇〇分の一とし、舟戸口で二六・五尺(8.0m)若林口付近で二三・五尺(7.1m)の落差工事を施す。ニヵ所の落差と通過水量を利用して発電計画を立てる。右岸幹線水路は、庄川本流に設置する堰堤右岸取水門に発し、芹谷野用水第一・第二隧道を経て般若村安川に至るまで、芹谷野用水路を改修して利用し、この地点で芹谷野用水路と分かれる。この水の落差七九尺(23.9m)を利用して発電し、その放水を新設水路を通して六ヶおよび針山・中田口用水へ連絡する。暗渠水路は第二隧道上流にニヵ所と、下流の人家密集交通頻繁な箇所に、保安用としてコンクリー ト巻立の橋架を築く、などであった。

昭和七年十一月から川床岩層調査のため、日本拓業(株)に堰堤築造候補地一六カ所を四ヵ月にわたってボーリソグさせた。翌八年三月、県参事会は計画をさらに練りなおし、堰堤を藤掛橋上流四〇間(72.7m)の箇所に築造することにした。九年三月、仮排水工事にとりかかったが、七月十一日、庄川が大洪水となり、洪水量一三万個の危険水位を突破する出水で工事を中止し、洪水に対する強度を増す設計変更を余儀なくされた。十年五月農林省と打ち合わせ、前年洪水量の三、六〇〇〇トンに対して、  四、五〇〇トンまでの出水に耐えられる増強計画に変更させた。

庄川水電と用水の争い

大正六年、小牧堰堤築造を許可する直前に、県耕地課長は農民の意見を代表して、次のような見解を県知事に提出した。

⑴小牧堰堤貯水面から五〇尺(15m)も下で取水して流下させる設計になっているが、流下水温は必ず低下するから、稲作に被害があると考えられるので、貯水池表面水を流下する施設に変更すること

⑵発電の都合で放水量に激変があるから、その対策を立てること

⑶堰堤築造後は、玉石・砂利の流下がなくなるから、用水取入口の対策を立てること

これに対して、⑴は発電取入前面で表面水だけを吸引する設備をし、⑵・⑶は用水合口堰堤築造で解決するということになった。昭和二年五月十六日、小牧堰堤工事を実施するに当たり、県は庄川水電に対して発電開始後、下流水利事業・灌漑などに支障を及ぼさないよう、常に一定の水量を流下させるため、また、貯水区域に甚水を開始してから満水するまでの期間中、堰堤下流における水利事業・灌漑・流木に影響を及ぼさないための施設を計画して知事の認可を受け、仮排水路は木材流下設備並びに魚道設備を完成し、かつ前二項の認可を得た後でなければこれを閉塞することはできないという条件をつけた。三年一月七日、県は再び発電開始後は灌漑・飲料その他水利事業に必要な水量を考慮して、その時期に応じて一定の最小水量を発電所から放流すること、もっとも大正十三年度のように河川流量が左記の最小水量以下であるときは、河川流量をもって限度とすることなどの具体的条件を庄川水電に提示した。

小牧・祖山の高堰堤は着々工事が進行して、四年十月、庄川全川を締め切り湛水許可を得ようとしていた矢先、岐阜県の木曽川本流をせき止めた大井川発電堰堤の放水状況は、下流宮田用水の死活を制しているという報道に接した。用水閑係者は農業用水確保のため、庄川水電に対して、発電に関係なく一定最を流下させるための設備をすることなど十一項目をあげて、農業水利に対する障害の除去並びにその防止に関する条件を提示した。「もし十一項中の一項でも誓約できねば、庄川両岸に取入口を持つ用水関係農民全部は、農業用水確保のため、断呼庄川締め切りに反対する。もし無視して少しでも工事を進めるならば、死を賭しても要求を貫徹する。そのため容易ならぬ事態が惹起されるであろう」という高姿勢の申し入れをした。左右両岸用水合口期成同盟会は、五年四月、庄川流水量が必要とする最小流量に達しないときは、県・水利組合・庄川水電の三者が協議して放水量を裁定することを申し入れた。九月二十一日午後六時半から小牧堰堤に湛水が開始され、計画は庄川の通常流位を三、〇〇〇個として、  二時間全川断水するが、その後一〇〇個を放流しながら一五時間後には、もとの三、〇〇〇個の流量とすることになっていた。しかし、実際には庄川の自然流量が少なく、三日間の断水を余儀なくされた。  それについて庄川水電は、用水側に次のような文書で申し訳をしている。此度県の命令により突如湛水開始をなしたる処、自然流量不足の為め長時間に渉り、御迷惑相掛け何とも申訳御座なき事と心痛致居候、現在にては堰堤排砂門より一千百個以上放水をなし得、漸く愁眉を開き候間此の点御高承相願ひ度候

工事の着手

昭和十年夏から堰堤と左岸幹線水路工事に着手した。 五年九月十四日庄川用水合口事業起工式を行って以来、実に五年後のことであった。まず、仮排水工事から始められ、左岸に幅六mのコンクリー ト開渠をつくり、次いで全川仮締め切りは、鉄線蛇籠による日本拓業の開発した新工法でなされた。堰堤工事は昼夜兼行で進められ、数百人の労務者が近くの民家に合宿して、交代で労務に当たった。建設用機械は四六時中うなりをあげ、岩石を粉砕する発破は大地をゆるがした。堰堤のコンクリー ト打込み作業は、寒中電熱を利用するなどして間断なく進行し、工事は当時としては機械化により効率的に行われた。現場を指揮する県事業事務所は、現在の庄川温泉付近にあり、日本拓業事務所は、金屋日照庵の隣にあった。加藤組事務所は現在の赤岩湿泉付近にあり、直接の工事は間組によって進められていった。  工事が始まると、合口堰堤は固定堰の高さが10mあるので、これには高堰堤規則が適用され、河川主管は内務省、発電主管は逓信省で、これらの官庁が行政の指導監督に当たった。一方、工事着手に際し未解決事項も多かった。油業補償については、堰堤左岸寄りに魚道専用排水路を作り、適時水温調節方式で堰堤から七トン、幹線放水路から一四トン(現在は、漁業組合と関電の協定によって堰堤から一・四トン放水路から七・〇トン)放水する。流木については、旧二万七千石用水路から流木路を設けて輸送し、小牧堰堤築造資材運搬用の日電軌道移転は、補償支払いで解決された。上流三用水の慣行水利優先権の施設は、堰堤のすぐ上流に単独取入堰を設備し、取入閾高を24cm下げ、山見八ケ用水には揚水ボンプ場を特設するなど、次第に解決されていった。用水合口堰堤工事は、左岸東山見村金屋舟戸、右岸雄神村庄地先藤掛橋上流45m地点で、強固な岩盤の上に直力式コンクリー トの固定堰堤を築造して、可動堰(テンター ゲー ト)門を設けた。有効水深九尺(2.7m)貯水量一、〇五〇万立方尺(292,000㎥)、日中から夕方にかけて放水量を多くし、深夜の放水量を少なくすることを小牧発電所と契約し、必要水量を確保した。全ゲー トを開放すると、水量一六万二、〇〇〇個が放水され、左右両端には排砂水門を装置した。用水取入口は左岸の六ヵ所、右岸の三ヵ所を廃して、堰堤の左右両側から取り入れることとし、二万七千石用水取入口は、合口堰堤左岸上流に特設して優先的に所用水量を取り入れ、水門の堰堤から上流に向かって二門は二万石用水、一門は新用水、一門は山見八ケ用水・示野四ヶロ用水の取入門とした。

左岸幹線水路は鉄筋コンクリー トの圧力管で導水し、有効落差五七尺(15.4m)を利用して、最大七、二〇〇kw(中野発電所)の発電をし、その下流で 舟戸ロ・若林ロ・新又ロ・千保柳瀬口の五用水に分水することとした。右岸用水取入口は、堰堤に直角に接続して四門に分かれ、芹谷野用水第一隧道に導水して、庄地内広谷川を水路橋(水路にかかる橋)で渡り、旧雄神小学校裏で三合新用水に分水し、谷内川を水路橋で横断し三谷地内の下流で芹谷野・六ヶ・針山口用水へ分派するものであった。中野(砺波市)地内新又口用水分岐点から下流に30cm底深の工事がなされているのは、当時右岸芹谷野用水問題が未解決であったため、針山ロ・六ヶ用水だけに送水する計画を秘めた工事で、右岸針山ロ・六ヶ用水への送水に庄川をサイフォンで横断するか、太田橋脚を利用するかの計画によるものであった。左岸下流の五用水幹線水路は延長1,450m 直径4.394mで、この正円形鉄筋 コンクリート製の圧力管水路工事は逆サイフォ ソを実用化したもので、日拓社長は「 逆水輪換工法」と称し、堰堤水面と発電所脇コンクリー  ト製調圧水槽水面とが同一水面になるもので、圧力管内は水圧が極端に加わることがなく、一定の強度かあれば破管する憂いは全くなく、当時は特異の新工法とされた。 現場で鉄筋を電気熔接で組み立て、  コンクリートも現場打ちされた。したがって継ぎ目もなく、運搬も工法も安易で、当時貴重品とされた鋼材の節約が各方面から注目を浴びた。中野発電所は位置が四回も変更の末、現在地に建設されることとなった。

堰堤工事完成

庄川の恩恵を受け農耕して幾百年、沿岸農民の等しく願望していた庄川合口用水事業の第一期工事は昭和十四年十一月に完成し、待望の湛水と用水路へ通水の運びとなった。庄川の流れは、新しく築造した合口堰堤によって完全に遮断され、取入口からとうとうと庄川本流が流入し始め、入念な設計のもとに行われた工事であるためすべて順調であった。案じられていた水圧管水路も、管内の流水粗度係数をよくするため、防水シーカモルタルの塗布によって万全であった。十四年から十六年までの間に示野四ヶ ロと新用水は、補償金の三万五、〇〇〇円で用水路510mの改修を行い、新用水はさらに県営事業八万円で金屋・示野・井波・高瀬地内に及ぶ2,000mの改修工事を完了し、中野発電所第一期工事も同じく十四年に完成した。ところが通水して三日目にフル運転するとかえって発電力が低下する騒ぎが起こり、原因不明のためドイツ人技師を招き解体調査をさせた。発電機はドイッ製、発電用水車はスイス製であったが、調査の結果、水車軸のベアリングが発電力低下の原因とみられ、取り替えて運転して事なきを得た。戦時中は堰堤のテンターゲートを60cm嵩上げし、また上流に次々とダムが築造されたこともあって、その発電実績は、数多い発電所中でも小規模ながら効率のよい発電所とされている。

右岸幹線水路に着工

昭和十四年から右岸工事が着手された。当初計画は発電併用水路であったが、発電所が左岸に建設されたため、用水路だけの改修工事になった。上流水利優先権を主張する芹谷野用水の改修補償問題や、雄神村と般若村に、発電予定地と用水路の位置についての論争がつづいて結論かでず暗夜にまぎれて測量を強行せねばならないときもあったが、最終的には、戦時の物資統制期で資材入手は困雖となり、予算も削減されながらも食料増産を至上命令として工事をつづけた。工事は、芹谷野用水の強い申し入れに予定を変更して、第二隧道を新設した。 広谷川を水路樋で通し、旧三合新用水路をたどり、庄地内の高所部を通って三谷と安川(砺波市)の境界点で大落差のある難工事となっ た。戦後の二十八年から県営庄東用水改修事業として工事が継続され、この大落差を利用して中越パルプ(株)が発電を計画しが、   利用水量の不足と幹線水路の大修理を要することから実施されなかっ た。

出典:庄川町史

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