一向一揆と戦国の世
一向一揆と石黒氏
建武 _ 三四/)以来六〇 余年間、 南北両朝に分かれた戦乱も治まり、 再び猫命が行われるようになって。元中九年(明徳三年・1392年)、南北両朝の合一がなり越中の山野も平静にもどった。しかしこの平静も長くはつづかず、 やがて幕府内部の権力争いから、応仁・文明の大乱(1467~1477年)に発展、さらに地方に群雄割拠する戦国時代へと突入していった。本願寺八世蓮如が文明三年(1471年)、 天台教徒の圧迫をさけ、北陸の信徒を固めるために越前に吉崎道場を建て、さらに伏木勝典寺の前身である土山御坊を創立したり、井波瑞泉寺にも来錫した。 蓮如はまた真宗の教義を平易な御文や説教によって庶民層に親しまれるものにした。その結果、越中・加賀の農民層は急速に本願寺の門徒と化していった真言・天台の寺院や信徒の中にも真宗に転ずる者もあり、そのため諸宗の風当たりが強くなり、在地の土豪・地侍の圧迫も目立ってきた。しかし、この真宗の新しい勢力の台頭を妨げることはできなかった。この混乱は、 文明十一一年(1481年)田屋河原(福野町山田川左岸)の合戦となって火を吹いた。
福光城に拠っていた石黒右近光義とその一族の勢力、育王山惣海寺に集まった合計26000余の軍勢は、 瑞泉寺に結集した門徒集団に大敗を喫した。この門徒集団とは、竹槍・熊手・棒・鎌で武装した近在の門徒や、般若野郷・山田谷・五ヶ山・射水郡の門徒ら5000余であったという。この結果、石黒光義ら主従16人は切腹し、福光城・惣海寺は焼き落とされた。そして砺波郡は、山田川を境として、西は安養寺、東は瑞泉寺に二分して支配されることになった。
以上が『 瑞泉寺記録帳』に収録された「 闘諍記」の概略である。この一揆によって越中門徒団は、砺波郡内に坊主・門徒の連合支配を確立し、謙信に屈服するまで、門徒領国制を保持したとみるむきもある。しかし、これより三七年後の永正十六年(1519年)に、砺波郡の雄神庄・石黒庄の一部に瑞泉寺・勝興寺の支配が及ばなかった地域のあったことも見逃してはならないのであり、文明十三年の時期に則座に門徒領国制が確立したとすることには疑問をいだかざるをえない。むろんこの時期に一向宗が衰退したというのではない。一向宗徒はすでに永正三年ごろから上杉氏に脅威として認識され、弾圧に長尾能景を派遣しているのであり、 またその能景は圧倒的多数の一揆軍のために般若野に敗死しているのである。般若野の攻防の後、遊佐慶親は越後に敗走したが、神保慶宗はかえって一向宗徒に接近した。しかし、これを不快に思う守護畠山尚順は長尾為景に命じ、永正十七年神保慶宗を新庄に敗死させ、代わって新川郡守護職を為景に与えた。
天文年問(1532年~)に入ると、一向宗は石黒氏の内部にも浸透してきた。天文十年(1541年)二月四日、 石黒の惣領又小郎と庶子小三郎が 門徒になりたい旨の書状を送ったことが『石山本願寺日記』に記されている。また、さきに長寿院に寄進された雄神庄木並郷の近辺の住人と思われる木並光順、庄慶祐といった人物が、本願寺の当番を勤めるために、捻餅や樽(酒)を持参していったのである。 砺波郡一帯の門徒衆は河上衆と呼ばれ、五ヶ山とならんで熱心な門徒集団の一っ となっていった。
一方、 新川郡でも為景の没後、景虎(上杉謙信)によって一向宗禁制はゆるめられ、氷禄元年(1558年)には解禁となった。この背景に、次第に強大になった一向宗徒の勢力の伸長を見逃すわけにはいかない。
統一の芽生え
永禄三年(1560年)椎名康胤と神保長職との争いを景虎が和解させたが、長職は甲斐(山梨県)の武田信玄に通じて、景虎信濃(長野県)入りをうかがいその背後を突こうとした。景虎は康胤を助けて富山城に長職を攻め、さらに増山城(砺波)を攻めた。しかし永禄十一年には諸将の向背は百八十度転回して、 枇名康胤は信玄に通じ、翌十二年には神保長職が謙信に応じて金山城(魚津市)に康胤を攻め、さらに新庄城(富山市)も落とした。信玄ほこれに対して越後を攻めんと瑞泉寺・勝興寺に使を送った。その後、松倉城(魚津市)は陥り、椎名康胤は退却して一向一揆に投じ、神保長職も謙信に背いて康胤や一向一揆と和した。こうして謙信は元亀二年(1571年)再度越中侵攻を行い、神通川以西に出陣して守山城(高岡市〉を攻めたてた。 翌元亀三年、加賀の一向揆勢は、五位庄・川上勢と連合して日宮城(小杉町)へと攻め寄せた。虚をつかれた上杉方は日宮城を捨て、御服山(富山市呉羽)に拠ったが、これも支えきれずして退却したので大混乱を生じ、多数の死傷者を出した。 この報に接した謙信ほ、 凶徒退散の祈願をして一向一揆と対峙し攻防戦を行った。しかし天正元年(1573年) 四月、 武田信玄の死はこうした諸国の情勢に大きな影響を与えた。一揆の勢力は大きく後退し、謙信は越中を平定して、加賀にまで進軍した。 謙信に対抗した越中の土豪・地侍も次第に屈していった。
木舟城主石黒左近蔵人が謙信に味方したのもあるいはこのころからではなかっ たかと思われる。
天正二年七月、守護畠山義隆が殺されると能登の政情は安定を欠き一向一揆は再び活動を始めた。しかし天正四年五月、謙信はついに本願寺と和を結び織田信長に対抗した。謙信は勝興寺・瑞泉寺の協力を得てたちまち越中を平定し、能登・加賀に進んだ。しかし加賀・能登の平定は容易ではなく、天正四年九月、越中から加賀・能登に入ったが、翌年いったん帰国し、同年七月能登平定を目指して再び越中から能登に人り、七尾城を陥れ末森城(石川県押水町)も攻略した。さらに加賀に入って信長軍と戦ってこれを破ったが、能登に引き返し、十二月越後に帰った。
そしてその二十三日、 配下の将士を列記した名簿を作成した。その中には、 勝興寺佐計、瑞泉寺佐運、 石黒左近蔵人の名もあった。
ところが天正六年三月謙信は急逝し、景勝の必死の努力にもかかわらず、配下の将士の結束は崩れていった。 本願寺は頼みとした謙信を和睦後一年余にして失いさらに苦境に立たされた。同年四月、信長は佐々長秋に命じて神保長住を助けて越中に環住させた。またさらに翌七年佐々成政を越中に封じ富山城に拠らしめた。これを機に上杉方の石黒左近蔵人も織田方に転じたのであろうか。天正八年八月二十四日、九月十四日瑞泉寺佐運・勝興寺佐計が相次いで、木舟城主石黒左近蔵人の謀反と押妨を景勝に訴えている。当時左近蔵人と反目していた庄城主(庄川町)石黒又次郎は、佐運に招かれて神保長住と手を切り、上杉方に味方する意を述べたが、情勢の流動するうちに左近蔵人と和睦し、木舟城に拠ることとなった。この後、石黒氏は神保長住に組し織田方となったが、天正九年、 再び木舟城は上杉方の吉江常陸人道の守るところとなった。その後七月六日、石黒左近の家老、石黒与左衛門・伊藤次右衛門・水巻妥女佐らは信長に 呼びよせられ上国したが、長浜まで来た時、情勢を察して安土へ行かなかった。そこで信長の部将惟任長重の兵が長浜にこれを襲い彼らは非業の最後をとげた。この家老石黒与左衛門は、 金子文書にいう石黒与左右衛門であろうと思われ、とすると瑞泉寺佐運の書状にいう石黒又次郎とも同一人物ではなかったかと思われる。
出典:庄川町史