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東大寺庄園と木波郷

東大寺庄園と木波郷

6月 25, 2022 歴史 by higashiyamami

庄川町と東大寺庄園

砺波郡の東大寺庄園は、従来、地方史的立場からあるいは全国的な初期庄園の一環として多くの研究が蓄積されてき た。  そして研究の中心課題として多く取り上げ られてきたのは正倉院などに残された墾田地図を用いた諸庄園の現地比定であっ た。しかし研究蓄積の多さにもかかわらず、 庄川の氾濫による地理的景観の変化から、 条里制の遺構は復元されにくい上、地図にほ里数の記載がなく、地名・呼称なども現地の地名と直接結びつくものがないなどの困難な条件のために、いまだに定説をみない現状である。 今、 これらの説を庄川町に関係する範囲で紹介しよう。

砺波郡の東大寺圧園は北から順に石粟庄・伊加流伎庄・井山庄・杵名蛭庄の四庄があるが、石粟・伊加流伎・井山の三庄は二五条から二九条の間に近接しており、  杵名蛭庄はそれよりやや離れて二ニ条から二三条の問にあるとする相互の位置関係については、ほぼ異論がないように思われる。最も北よりに比定したのは石粟庄を現在の中田町(高岡市)東南にあてた弥永貞三らの説、および『砺波市史』の説であり、 最も南よりに比定するのが井山庄を庄川町隠尾・名ヶ 原付近にあてる名越仁風の説である。  名越仁風の説は「 石粟村官施入田地図」中の中央部の欠失部分に着目し、綿密な現地踏査の結果、 砺波市般若地区の福山大堤池に比定して、これを甚点に条里を引き各庄の位置を決めたものである。  これによると、一条は倶利伽羅(小矢部市)付近となり、石粟庄は砺波市井栗谷字谷内、福山南部茶ノ木、安川字正盛、 庄川町三谷の地域、 伊加流伎庄は庄川町庄・金剛寺・三谷の地域、井山庄は庄川町隠尾・名ヶ 原・庄、砺波市五谷の地域、杵名姪庄は井波町坂下・今町、庄川町金屋岩黒・雁沢となって、 東大寺庄園はまさに庄川町を中心に広がっていたこととなる。これに対して木倉豊信は欠失部が池ではなく、 湿気による文書の腐蝕部であることをカ説して反論した。木倉豊信は、すでに自説を早く昭和十二年『富山教育』に発表しており、東大寺庄園の後元に関する最初の学問的論考として高く評価されていた。 木倉説は、井山・伊加流伎の各墾田地図に木波道の記載があり、かつて庄川町弁才天付近が木波郷と称したこと、また「石粟村官施入田地図」の北境に「 従利波往婦負郡横道並溝際」と記されていることなどから、 各庄は現在の栴椴野より北の方に寄ることはないとし、井山・伊加流伎    石粟の三庄を順に、庄川町三谷、 砺波市安川・徳万、栴棺野地内の芹谷・池原を中心とした地域に比定した。 そして杵名蛭庄を、この三庄とはかなり離れた井波町を含む以北の地に求めた。また『砺波市史』では、地の利を生かした綿密な調査の結果、小字名や地形を十分に活用して新しい説か示された。それは、 杵名蛭庄を北に「百姓口分田」、南に「 反部百済治田 」と相当の開墾田をもちうる所として井波今里・川原崎・戸板辺の地域に、石粟庄を地図の東に「従刑波往紆道」とある点、四部金屋(高岡市)・下中条(砺波市)地区の小字名「堂田川原」が東般若地区の「 堂田」「堂田川原」、さらに滝村の「 当田島」と地図の溝の方向に一致している点などから砺波市東般若地区東保を南限とし、中田町今泉を含めた滝のあたりを北限とする地域に井山庄(木倉説)を踏製しつつ、古い川の一つである谷肉川の記載がみられないところから、雄神橋より三谷に至る間の庄川本流を含めた地域に、  伊加流伎庄を東山麓線よりかなり西に位置しているとして現庄川の以西、 柳瀬・下中条方面に比定した。 いすれにせよ井山庄が最も庄川町と関連の深い庄園であることは共通している。中世における木並郷の中心が弁才天付近にあったことや庄川の変遷を考えれば、『砺波市史』の見解が厳も妥当ではないかと思われる。  次に結論の出ない現地比定の問題を離れて、井山庄をもっと異なった角度からながめてみたい。

利波臣志留志と井山庄

井山庄の歴史は、天平神護3年(767)3月20日越中員外介に任じられた外従五位下利波臣志留志が東大寺に墾田100町を献じ、従五位上を授けられた時点に始まる。つまり献上された墾田100町こそが井山庄そのものなのである。  これは天平宝字三年(七五九)「砺波郡伊加流伎野地開田地図」の庄域の南に利波臣志留志の地と書かれていたのが、八年後の神殿景雲元年(天平神設三年・七六七)同庄地図の四至の南には東大寺墾田地井山村と 記されていることによって明確に知ることができる。利波臣志留志は砺波地方きっての有力地方豪族であった。志留志はすでに天平十九年(七四七)戚舎那仏知識に米3,00碩を寄進して外従五位下を授けられ、下級貴族として律令制支配機構の一端を担っていたのであった。献物叙位の盛んであった当時とはいえ、地方豪族が五位の関門を破るために要した米3,000碩あるいは墾田100町の私財は、やはり膨大なものであったといえよう。この米3,000碩を田積に換算して、井山庄近辺に志留志の私有地を実証しようとした説もあるが、この私財の蓄積は、土地所有もさることながら、私出挙を中心とした動産所有に重点をおいて考えるべきではないかと思われる。それゆえ志留志以前において、 利波臣一族の中に郡司級の地方豪族として活躍した虫足らの存在のあったことを見逃すことはできない。従来砺波郡における東大寺庄園の成立と発展に対して、志留志の寄与の大きかったことが定説化されていたが、米沢康の出した否定的な見解では、志留志の反律令的な性格が強調され、傾聴すぺき内容を含んでいる。

東大寺庄園の開田と経営

米沢康の説は、越中国東大寺庄園について、 たまたま一国の集計の記載された三つの史料の存在することから、 これを一国における寺領庄園の好例として評価されてきたことに対し、その内実が一国というにはあまりに砺波郡一郡に偏したものであることに着目し、その原因をこの地に伝統的在地勢力を拡大しつつあった利波臣志留志の存在に求められたのであった この意見を参考に、三つの史料を志留志と東大寺庄園の成立発展との関係という視点からながめてみよう。 いま便宜上この三つの史料を砺波郡の場合について表にしてみた。天平宝字3年の総券を、 天平神護3年の検校帳を、神獲景雲元年の総券をとすると、と    の間はわずかに半年ほどの隔たりしかないのに記載数値に大きな違いがみられる。これは射水郡・新川郡についても同様であり、 いろんな理由が考えられるであろうがここでは、 竹内理三の説-天平神護三年五月七日の国解四月九日に東大寺田検校の太政官符が出されているのに検討を加え、太政官符を直ちに実行に移すため、とりあえず国府現存文書を基にして作成された報告書であり、その後改めて現地を調査し作成したものとする説に従いたい。

この時期における増加は、  井山庄・石粟庄・杵名蛭庄の出現によるものだが、 このうち石粟庄は天平宝字三年以前に九六町二反ニ一六歩を勅施入されたものであり、杵名蛭庄も天平神設三年以前に成立していたと考えられるのであって、 いずれも志留志が専当国司員外介として東大寺庄園に関与する以前のものである。結局、志留志の力によって成立したのは井山庄一庄であり、それも私有面積の制限による収公を免れるための形式的寄進であったといわれる。これを裏付けるのが神護景雲元年の井山・伊加流伎両村の墾田地図である。この地図には、専当国司利波臣志留志と砺波郡副擬主復部・諸木の二人の署名しかなく、内容も空疎で寺家の直接の検注をうけなかったことが考えられるからである。志留志の責任において作成された史料に伊加流伎庄がみえないのも、あるいはそうしたことと無関係ではなかったのではないかと思われる。  またいずれも見開田の増加がみられる。

これも志留志の成果とみられないこともないが、  一方でどんどんと瑠加してくる荒田の面梢は、  見開田の増加を実質的に帳消しにしてしまうものがあった。

以上の点からみても、  困難な寺領経営の進展をはかる東大寺および律令政府の政策に対して、志留志に非協力的、反律令的姿勢があったとされるのはもっともである。しかし志留志自身の性格をもっと厳密にするならば、自己の利害と抵触する限りにおいて、反律令的側面を示すのであり、それ以外の面、例えば農民に対してはやはり下級官人、律令的権威として苛酷な収奪にあたったのではないかと思われる。このようなニ面性なくして、宝亀十年(七七九)伊賀守就任の 事実を 説明することはできないのである。

東大寺領庄園の経営の困難さは、志留志という有力地方豪族を東大寺の庄務にあたらせることによっても解決できない問題であった。 天平宝字五年(七六ー)射水郡において郡司・百姓らが 東大寺の 寺田使に捉打を加え、寺溝を掘りふさぐなどの直接的反抗にでた事件は、この寺領経営の困難さを具体的に示すものである。志留志の非協力に加えて、耕作の主体となるべき百姓らの反抗は、いやおうなく庄園の発展を妨げるものであっ た。そのため東大寺は次第に耕作を浪人に依存しなければならなかったのだろうか。井山庄の経営は浪人に負うところが大きかった。造東大寺所は東大寺荘所の所管にあった浪人が某院に寄せられたため寺家業が廃怠し地子が欠乏したとして還付を訴え、承和八年(八四一)二月十一日、某院政所は大野郷井山庄周辺および宇治虫足保の浪人を勘定させた。また延暦四年( 七八五)国司牒の四至には「 浪人物部男針家」の名がみえる。井山庄の庄域は、神詭崇裳元年(七六七)か_ら一一年ごろには東は岡、 南は復部千対地、北は寺地(伊加流伎村)西は神窪井門部王寺、 もっと厳密にいうなら「小長谷部若麻呂墾田井伊波田主墜田」であった。  条里で示すならば、 南から順に廿六条井山里・高槐里・高枕中里・廿七条某里(見名の記栽なし)高槐東里・岡本里の東は四行まで、 廿五条竹束中里あとは西辺と記され西は二行まで、 北は岡本里・高槐里中肌   西辺各行の二までとなっている。 延魁四年には東、 南は「 四天王寺田井神麻続辿浄万墾」北は「従浪人物部男針家指梨村往横道井四天王寺田」、西は「十野消河家廿四条竹原中里六行之西畔亦石堤(これほ廿五条竹束中里六行ではないかと思われる)」となって東、南、北は不明だが、西に庄域が拡大されたことがわかる。

しかし延暦四年国司牒の四至というのは、大治五年の文書・絵図などの目録にみえるものであり、実態は全くわからない。 その後井山庄は天暦四年(956)  『東大寺封戸荘園井寺用帳』に記載がなく、長徳四年(998)『東大寺領諸荘注文』に別功徳分庄として 四町が、しかも「巳荒」として記されるのを最後にその姿を断つ。鎌倉時代後半の弘安八年(1285)『東大寺注文』に井山庄は越中国の他の諸庄園とともにその名がみえるが、  これは当時の実態を記したものではないであろうといわれる。

庄川の変遷と木波郷の位置

庄川が現在の位置に河道を固定して流れるようになったのは、近世以降のことである。それまでは庄川町金屋付近から幾筋にも分かれ、その本流は古代・中世には、小牧村の屈曲から西流して高瀬村を通り、川崎で小矢部川に合流していたといわれる。  この合流点から上流の地域が『和名類漿抄』の「川上」にあたる。 そしてその後、河道はしだいに東遷し、 寛文十年(1670)野尻・中村・千保川などを締め切る松川除の築堤着手によっ て、全水勢が現在の流路に集められた。川跡や付近の村々の開拓年代から、 庄川の主流がだんだん東に移動していったことが確かめられている。しかしながら古代・中世における庄川の状態は、ほぼ固定して流れていた小矢部川などとは異なり、不明の部分が多い。ことに高瀬へ流れていたとなると、金屋・示野の台地を通ることになるが、この付近は松原造跡に代表されるように縄文遺跡が散在し、歴史時代に入って河床となった形跡のみられない所だけに、これには否定的にならざるを得ない。歴史時代に入ってからの庄川の南限は、野尻川もしくは二万石用水の一支流である六ヶ用水の近く、青島ー清水明ー上野ー松原ーニ日町ー 上津ー 小矢部川とするのがむしろ妥当であろう。

この庄の氾濫原の洪水については、  応永十三年( 1406)六月の大洪水をはじめ、幾多の洪水記録があるが、近世に至っても、ある時は千保川が、ある時は中田川が川幅を広げ、寛文十年の松川除築堤によって各支流を締め切るまで庄川の流れは安定しなかった。庄川の東岸は、八世紀には東大寺の庄園が設定されるなどして古くから開発の進んだ地域であっただけに、庄川の東遷による被害は、はかりしれないほど大きなものがあったと思われる。

この庄川の東遷によって消滅してしまったものの一つに、「 木波郷」の地名があげられる。「木波」の地名は、この庄川町の地に古くから住んでいる人にとっても耳恨れないものであろう。 というのも、  加賀藩の史料をもとに、森田柿園が作った『 加能越三州地理志稿』にも、すでにその名は見えないからである。この書の刻明さは例えば金屋岩黒の小川原・田畑・岩黒といった小字名まで書き上げていることからも容易に推測されるのであり、「木波」の地名が 小さいために記載もれになったとは考えがたいのである。では、  木波郷はどこにあったのであろうか。  この地名の初見は天平宝字三年( 759)の『 越中国砺波郡伊加流伎野地開田地図』(正倉院所蔵)にみえる「 木波道」の記載である。また、   神護景雲元年( 767)の『 越中国砺波郡井山村墾田地図』には「往木波村道」という記載も見える。  しかし東大寺庄園の位置については定説が得られない以上、これらから木波村の位置を推定することは困難である。

一方、 城端町善徳寺所蔵の五尊裏書に木波の地名がいくつか見える。それを拾ってみよう。 五尊裏書は寛政七年(1795)に書き上げられたものである。

安四年(1651)砺波郡木波郷湯山村の慶西(誓)の申請により「如信上人真影」が、本願寺宜如から野々市(金沢市)の専光寺の手継で下された

寛文十二年(1672) 砺波郡木波郷湯山村の以速寺の常住物として、「親鸞聖人御影」が 円適の申請により、本願寺常如から同じく専光寺の手継で下された

年未詳、 砺波郡雄神庄木並郷光教寺の指住物に「 上宮太子真影」がある

同じく木並郷光教寺の常住物に「三朝高祖真影」がある

慶安四年のころ、そして寛文十二年のころまでは木波の地名が存在していたことが確かめられるのである。光教寺は現在井波町にあるが、明応四年(1495)僧慶宗が創建したといわれ、 庄金剛寺村にあった。現在の雄神神社の建っているところがその敷地跡だといわれている。享保二年(1717)からほど遠からぬころの金子文書の記録の中に、天文年中(1532~ )の末ごろまで庄金剛寺村古城、 つまり壇ノ城の西の真下に木波町があり、その西に弁才天、そのまた西に雄神神社があったという。

以上のことから木波郷は雄神庄内にあり、しかもその木波郷の中に湯山村もあったことがわかる。また壇ノ城の西は木波町と呼ばれていたという。 雄神庄の四至をはっきり確定することはできないが、おおよそ旧雄神村の範囲を考えて差し支えないであろう。 庄川の本流が、少なくとも天正十三年(1575)以前は現在より西にあり、(応永十三年以前であれば、 さらに西になる)庄川東岸の平野がもっと広かったことを考え合わせるなら、木波郷は現在の弁才天付近に中心があり、東は牛嶽から鉢伏山とつづく山々を境に、南は湯山村付近に広がっていた。つまり近世における庄下郷の範囲におおむね重なるのである。ただし北および西は、千保川の氾濫原にあたるので、その範曲は中田川(いまの庄川と千保川にはさまれに微高地一帯に限られたものと思われる。

木波里と石黒氏

木波村はすでにみたように、『 東大寺開田図』にその存在が記されるほど古くから開けた村であったが 、そのあたりにいつ雄神庄が設定されたのか、また、どのような生活が営まれたのかというような具体的な史料は全くないといってよいる石黒氏との関係を追ってみよう。
石黒氏と木波郷の関係は、『 本長寺文書』の「 永正十六年( 1519)石黒又次郎の寄進状一が最初の史料である。

雄神庄木並郷常遠の地は、 雄神宮の北にありというが、この時の雄神神社はすでに庄川の河床となっており、常遠の地名はもちろん今はみられない。この時長寿院に寄進されたのは、  この雄神庄木並郷常遠の400苅15俵だけではなく、石黒庄上ノ郷内野副山之の山年貢二貫文、石黒庄開発の内寺米の年貿二貰文と米四俵が同時に寄進されたことが小柴吉定ら連署の寄進状にみえる。

出典:庄川町史

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