三谷の里

三谷の里

7月 10, 2022 歴史 by higashiyamami

西行塚

三谷の県道わきに西行塚といわれる一画がある。高さ170cm、 輻90cm、厚さ40cm余りの石碑が建っている。この西行塚は県道のできる以前はもっと大きく、そこには、西行桜という桜の老木があり、西行庵跡といわれる所もあったという。碑面には次のように刻まれている。

梵字

十  方  三  世  仏

一 切  諸  菩  薩

八  万  諸  聖  教

阿 弥 陀 仏

もろともになが めながめて夜の月

ひとりにならん事ぞかなしき

西    行

道柴の露の古へかへりきて

馴し一二谷の里ぞ恋しき

西     住

嘉応二年    亡霊菩提

宮永正運の『 越之下草』には次のように記されてい る。

西行庵旧跡 般若郷三谷村にあり

西行円位法師諸国行脚の時、西住を伴れしとかや、此西住ば、西行北面の官たりし時の陪従にて、元は越中の産也といへり、 西行法師と共にもとどりを切り随従し、此処を叫ね来りしに、西住病悩に染み、 今をかきりとなられし時西行上人

もろともに眺め/\ て秋の月

ひとりにならん事そ悲しき

終に画石碑を立、 猶菩提をつとめんとて、此里に庵を結び住給ひしとなん又歌に

散花を惜む〇 やとゞまりて    又来ぬ春の種となるべき

諸共に眠り/\ て倒ふせんと    思ふもかなし道芝の露

此二首は、三谷の府にての詠也といへり

まとろみて物もきへなはいかかせん   寝撹そあらぬ命なりけり
西住法師

ところで石碑に刻まれた年号をそのまま信じるなら、これは県下で最古の石碑といわねばならないが、また『 越之下草』に

伝へ云。 慶長十六年大清水村に   御亭御建ありし時、御奉行原五郎左衛門殿諸方より大石・奇石引寄せられしに、いかか取ちかへけん。 此碑石を弁へす引来りしに、 御奉行西住の碑なる事を知り、故の処へ返すべしとありしを、永願寺の僧ここまて此石の来りしも又因縁ある事也。願くは愚僧が寺地へ引入れたしとの望みにて、御奉行諾して預られしと也。(中略)寛政の初めまて、永願寺の堂門前の入口にありしをいかなる所為にてかありけん。 或夜何方とも知らす、ぬすみ行て、永願寺より訴訟におよびけれとも、行方知れずなりける。 (朱)もとは三谷の里に有といふが後又元の所に有と云

ともみえている。  永願寺には、『 越之下草』に図示されたと同じ石碑が現存する。西行塚の碑が  二基もあることになるが、明らかに永願寺のものが古く、書体や刻み摩耗の度合からいっても三谷にあるものは江戸時代の中期以前にさかのぼれないといわれる。

三谷の石碑は、上半部は永願寺の碑の文面を写し、下半部は西行と西住の歌をそれぞれ一首刻んでいる。西行の歌は、『 山家集』には次のようにみえる。

同行に侍ける上人、例ならぬ事、大事に侍けるに、月の明くてあはれなりければ詠みける

もろともに眺め/\て秋の月     ひとりにならんことぞ悲しき

三谷の碑は、「 秋の月」を「 夜の月」としている。 西住の歌の方は出典が明らかではなく、 『 越之下草』にのせられている西行の歌「 諸共に眠り/\ て倒ふせんと思ふもかなし道芝の露」にたいする返歌として詠まれたものでもあろうか。 しかしこの『 越之下草』の引用がすでに誤っている。西行は「いづくにか眠り眠りて倒れふさむと思ふ悲しき路芝の霧」と詠んでいるのである。また、『千載集』の作者の一人にあげられる西住の作としては、秀作とはいいがたい。 おそらくは、西行・西住の歌として三谷のあたりに伝えられたものが収録されたものであろう。
ところで、 もとは三谷の西行塚の上にあったと思われる永願寺の石碑はどうであろうか。  高さ(115cm)、幅(45~54cm)、厚さ(30cm)  と三谷の石碑より小さく刻まれた文字はすでに摩滅が著しく判読しがたい。この石碑については京田良志の研究に詳しく述べられている。それによると、この石碑は十八世紀の未ごろに建てられたものとあるが、すでに幾通りにも読まれており、明確に判読できなかったようである。諸文献や何枚もの拓本を参考に得られた結果は右記のごとくである。

三谷の石碑にみえる嘉応二年の年号は、「 亡霊菩提」の「 霊」が筒体字なので 一見「 嘉」に見えることによる誤読である。しかも西住の文字も後の追刻であり、この石碑の造立当時の性格は、  西行とはおよそ関係のない像仏起塔の利益を信じてつくられた塔婆であったことが明らかにされた。  また造立年代は、早くみて南北朝、遅ければ室町時代の初めであり、文面からみて時衆関係の供狼塔であろうといわれる。

西行は在俗のころ、佐藤左兵衛尉義清といい鳥羽院北面の武士であった。兄の仲清は紀伊国田仲庄の庄官をつとめ、その子能清とともに隣庄、荒川庄に乱入し押妨をはたらくなど、当時の最も典型的な武士、つまり中世を具体的な行動において体現した人物であった。西行が保延三年(1137年) 八月、  二三歳の若さで出家した時、家は富み年も若いのに無欲なことよと人々は嘆美した。真言宗の僧となったのだが、難解な経学を修して高僧たらんとしたのではなく、歌一筋に諸国行脚の旅をつづける歌人となったのであった。しかもその業績は『 山家集』のほかはまとまった著述がないにもかかわらず、中世の精神を語ろうとするとき、西行を忘れては語り得ないのである。古代から受け継がれた無常観は、中世的な厳しさを知らず、「もののあはれ」に没りきって、複雑なからみあいの中に一種のデカダンスに陥っていた。そのデカダンスを抜け出した果てに広がる荒地、西行の苦悩はかかる境地にあった。 先にあげた「いづくにか・・・・ 」の旬も、中世精神の課題の核心にせまる生命の絶句として高く評価されている。しかし今日、各地に残る西行伝説は、この西行をそのままに伝えるものではない。『西行物語絵詞』は、全巻を貫く惑傷と厭世惑が濃厚な浄土思想に支えられ、往生伝的な歪曲があって、実際の西行の生涯とは大分異なった西行像をつくりあげている。その上近世になって、謡曲・仮名草紙・浄瑠璃・草双紙などを通じて西行の伝説化はさらにすすみ、中世精神の苦悩の絶句も、三谷の例にみられるように、愛弟子との温かい人情の交換にすり替わってしまうのである。 現在の三谷の石砕によって中世をみるべきではない。それは妻子を捨て、自らの精神の奥底をみつめつづけた漂泊の歌人西行を、庶民の身近な存在に引き寄せた、あくなきまでの近世文化の底力を示すものである。

鎌倉覚園寺の庄

現在の庄川町と砺波市のちょうど境目にあたる地域に三谷村がある。  藩政時代はその区分がかなり異なっており、三谷村は般若野郷内に、隠尾・横住・湯谷・湯山・名ケ原・落シ・庄金剛寺・中野・古上野・五ヶ・庄新・筏は、 市野瀬・ 戸出などとともに庄下郷内に含まれていた。そして中世では、三谷は般若野庄であったことが知られている。般若野庄は主に砺波市を中心に広がっており、 そのおおよその庄域を『砺波市史』では「大体現在の庄東地域を含めて南は三谷の辺を限界とし、北は中田町を含めて婦負郡に接し、庄西地区では太田・柳瀬・秋元・西部金屋方面まで包含するかなり広い地域にわたっていた」としている。般若野庄は、鎌倉時代初頭から徳大寺家の庄園としてあらわれる。その初見史料は、文治二年(1186年)六月二十七日『吾妻鏡』 の記事であり、 内大臣徳大寺実定の訴えで、幕府は比企朝宗の徳大寺家領押妨を停止させている。般若野庄が成立したのほ、これより以前にさかのぼる。徳大寺家と越中国との関係は、大治元年(1126年)徳大寺公能が越中守となって以降に始まると考えられ、 この庄の成立は、大治元年から文治二年(1186年)までの問にあると推定されている。三谷も当初からこの般若野庄に含まれ、徳大寺家領であったと思われるが、いつごろ移行したのか南北朝期には党園寺領となっている。覚園寺は鎌倉市の東北寄り、薬師堂ヶ谷に静かなたたずまいをみせている真言宗の古刹であ る。

薬師堂ヶ谷の名は覚園寺の現在の本堂である薬師堂に由来している。建保六年(1218年)北条義時は霊夢に感じ、大倉の地を選んで薬師堂を建立し、後これが一寺をなして覚園寺となったという寺伝がある。 薬師堂時代、覚園寺建立後を通じて北条氏の崇敬はすこぶるあっく、北条氏の私寺のような性格を持った寺であったが、鎌倉幕府滅亡後の元弘三年(1333年)十二月二十一後醍醐天皇の綸旨が出され、党園寺は勅願所として天皇の庇護のもとにおかれることとなった。覚園寺の以後の歴史に見逃すことのできないのが足利尊氏である。

建武四年(1337年)寺が火災にあった際に堂宇再興のための寺領の寄進を尊氏に請い、光厳上皇が尊氏を通じて造営料を寄進している。尊氏の覚園寺への崇敬はあっく、当時長く覚園寺住持の地位にあった朴艾思淳に、しばしば天下安全の祈祷を修せしめている。その後歴代関東管領の信仰もあつかったが、 十五世紀の半ば、関東の政治的中心としての鎌倉が衰退をたどるにつれて、録倉の諸寺院は必然的に荒廃していった。 覚園寺もその例外ではなかったようである。藩政時代の古絵図は、すでに衰えて今日とあまりかわらない覚園寺の姿を伝えている。

三谷がいついかなる契機で覚園寺領となったかは全く不明である。ただ康永元年(1342年)八月三日、覚園寺の中興の祖と仰がれる朴艾思淳が、その住持識を山浄真に譲り渡した際、書き上げた覚園寺伝来の文書目録の中に、「 越中般若野庄内三谷等寄進状 」として  二通が記されているのみであ る。この時にはすでに覚園寺領であったことがわかる。『吾妻鏡』 文治二年(1186年)六月十七日 および承久三年(1221年)六月八日の条にみえる般若野庄は、まだ徳大寺家の一円所領であったろうと思われる。  しかしその後、明徳四年(1393年)五月三日付の徳大寺家文書では、「御家領越中国般若野庄領家方」となっており、永正三年(1506年) には般若野庄地頭方もみえる。つまり般若野庄は、遅くとも明徳四年ごろまでにはすでに庄の下地が中分されていたのである。

三谷の寄進は庄の中分以後のことと考えられるがその時期も新史料の出現でもないかぎりにわかに決定しがたく、ただ寺勢の拡大した時期と尊氏のあつい庇護を考えるとき、おそらくは南北朝期に、在地の地頭あるいは守護を通じて寄進されたというコー スを推定してみるのである。

その後、応永十四年(1407年)六月十九日付の「覚園寺文書目録」には、康永元年の段階でみられた全国各地の散在所領はすでになく、相模・上総・武蔵などの近国の所領で占められている。この間に三谷の寄進状も姿を消しており、諸国への支配の手が及ばなくなるにつれて紛失したのか、あるいはさらにどこかへ寄進されたのか、いずれにせよ三谷と覚園寺との関係は断たれているのである。

出典:庄川町史

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