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用水と他産業

用水と他産業

11月 22, 2022 歴史 by higashiyamami

庄川の水利は農業用水のほかに、庄川流域住民の飲料水・防火用水・生活雑用水をはじめ、流木業・漁業・土石採取業・舟連・水車動力源・水力発電事業・工業用水などとそれぞれの慣習によって共存しているが、時として相互の利害関係が異なり激突することもあった。とくに昭和初期の高堰堤で庄川全川を締め切る発電事業は、どの産業にも影響を与えたが、庄川水電(株)と流木業者の紛争は一大訴訟を展開し、沿岸住民も巻き込まれ実力行使にまで発展して世間の耳目を驚かした。戦後、県は富山新産都市建設に必要な大益の工業用水を、和田川開発によって庄川から得ようとしたが、富山県と電力会社と農業用水側との相互理解が得られず、数年間も紛糾がつづいた。

むかしから、庄川扇状地上の一般住民が、個々に井戸を掘って飲料水を求めることは、地下水が深いため「 倉を建てよか、 井戸を掘ろうか」といわれたほど経済上困難なことであった。家屋が集まっている町部では共同出資して井戸水を使用することもできたが、散村に住む農家では農業用水を直接飲料水に使っていた。台所の構造も用水路近くに流し台を設けるのが普通であった。使用後の汚水は飲料の水を汚さないため直接用水路へ流さないで、「ツボ」と称する溜め堀を通じて排水していた。しかしいったん上流で伝染病が発生すると、医師・官憲がいかに努力しても用水路に沿って下流へ、下流へと伝染していった。

用水と流木

基本的には農民の経営する用水路を、農閑期の間、流木業者が材木を運ぶために一時的に借用するという形をとってきた。元禄四年(1691年)改作奉行は、庄川筋の用水路へ材木を流しているところを巡回中に発見した。奉行はさっそく十村役あてに「 先年江肝煎どもへ固く取り締まれと申し渡したように、今後も用水路へ流木しないよう申し渡す。その上にも流木するのであれば用水工事費の半分は流木する者の負担にする。また、庄川が洪水になれば水門を締めて水を流してはならない」と通告した。すなわち流木本位の通水を禁じたのであった。

嘉永三年(1850年)、 金屋岩黒村の木呂稼人が太さ 六寸(18cm)から四尺(1.2m)まで、長さ六尺(1.8m)
から五間(9.1m)までの 雑木七五〇本を小牧村・湯山村で買ったが山道で出しかね、舟で金屋岩黒領字牧(赤岩付近)まで川下げしようとして、金屋岩黒村木呂稼人総代六人連名で、御郡奉行所へ願い出て許可を受けた。その許可条件に「野尻岩屋口用水堰へは少しもさしさわり申さざる様」とあった。万延元年(1860年)野尻岩屋口用水路は砂利がたまったので、それを取り除くための費用貸与を郡内十村連名で御郡奉行所へ出願した。願書の内容は「秋に入ると金屋岩黒村などの木呂稼人どもは谷出しに取りかかります。おっつけ庄川に川流しして野尻岩屋口ヘ取り入れることになる野尻岩屋口に砂利が多く馳せ込んでいて掘り除かねば木呂流しはできかねるので、木呂稼人総代と江肝煎を呼び出して尋ねたうえで、木呂方吟味人や木呂稼総代、江下組才許並びに江肝煎に立会ってもらい、掘り揚げることにした。  費用は御役所から無利息で貸してほしい。返済は来春農耕に差し支えなければ江下から取り立てて上納し、もし砂利が多く馳せ込んでいるようであったら木呂方から弁済する」というものであった。この工事は十月に施行し、人足一ニ四.四一人、一坪につき三人、  質用銀一八六・六九匁、一人一・五匁の割りであった。文久元年(1861年)、金屋岩黒村から薪や木呂を引き取るときの取り決めを設けた。津沢町は岩武新用水路を舟秘みで引き取ること、福野町は木呂土場から岩武新用水を川流しして示野新村坊主野から苗島用水を通すこと、杉木新町は若林口用水を通って引き取ることなどを用水才許から関係十村へ通報している。

明治になって藩政時代の法度や制度が廃止され、殖産興業の波に乗って木材の需要が急増したので、流木事業は盛況を呈した。明治十三年、「 流材心得」を通達し、数回にわたって改正されたが、それによると業者は知事の許可を必要とし、今日の雄神橋から下流で流木することは禁じられた。河川護岸のため流木業者を取り締まったが、事業の保護促進の方針は貫かれていた。期間は十月上旬から三月中旬まで、流木数量は五、 〇〇〇本から三万本に及んだ。流木には赤岩から一本橋までは二万七千石用水路を使用するので、流木業者の請書は低姿勢で書かれ、用水側の要求はほとんど無条件で承認させられた。 それでも四十四年十一月中旬、 庄川が増水したので用水側の許可なく用水へ流木し、 翌年二月末、流木用の堰が障害となって川倉を流失してしまったので、一週間以内に復旧するよう命じられた。大正二年十一月下旬にも庄川が増水して堰が切れ、 八、〇〇〇本の材木は芹谷野用水へ約一、〇〇〇本、その他は各用水の取入口へ流れ込み、柳瀬村へも漂着した。流木に関する史料としては大正五年十一月中旬、 飛越・中越木材会社と用水側とで意見が対立した。六年九月末日、庄川が増水、流木で大水門を破損したので、木材業者の負担で復旧工事をした。七年は降雪が多かったため作業が遅れ、使用期間を三月末まで延期してほしいと願い出た。同年六月、用水路補強費二、 六〇〇円のうち六〇〇円の寄付を流木業者が自発的に申し出たことなどが見られる。八年以来流木問題が世間を騒がせ、用水側も巻き込まれていったが、昭和八年八月に円満解決を見た。

用水と漁業

灌漑用水と漁業との利害関係はほとんどなく、ただ用水路で簗漁することを護岸の立場から問題とした。元禄四年(1691年)御郡奉行所は、「原則として用水路への流木を禁止する。同時に用水筋での簗漁を取り締まること」を通達した。 安政四年(1857年)  金屋岩黒村簗稼人総代二人(吉十郎・三四郎)連名で「 私ども在所の舟渡場の上流にある舟戸口用水取入付近で、鮎の簗漁をしたいので許可してほしい」と十村へ願い出たが、「舟戸口用水の方で差し支えがあるから許可できない」と通達している。明治三十一年七月用水管理者は、「射水砺波河川漁業組合規約に野尻口川・鷹栖口川と称して、無断で用水路を漁場として漁獲することは、用水路の護岸と通水に支障がある。 用水路は河川ではないから削除するように」と郡長あてに抗議した。小牧・祖山高堰堤の築造に伴って、庄川全川を慣行専用していた漁業者と、全川を締め切る電力会社との利害関係は真っ向から対立した。発電側は魚梯を築造し、魚道として遡行を図る設備をしたが、予想していた効果は得られず、漁業組合に補償料を払い、養魚場設立と、稚魚放流の方途を講じて代償とした。

用水と舟運

道路が整備されておらず、鉄道・自動車輸送の全くない時代において、舟運は最良の運輸方法であった。庄川町域旧村の年貢の納入蔵は、金屋岩黒・小牧・名ヶ原・落し・隠尾・横住・湯山・湯谷    前山・青島は井波、示野は井波と津沢、五ヶ.庄新・示野出村は井波と福野、高野新・古上野・筏・高儀新は福野、庄金剛寺・三谷は中田と井波の御蔵に集荷することになっていた。井波御蔵からは蔵米を馬下しによって庄川舟戸口ヘ運び、新又口用水・若林口用水路を通って杉木新御蔵分と合わせて伏木へ、 福野御蔵米は新用水・野尻岩屋口用水・岩武用水を通り、柴田屋で旅川を下って津沢御蔵分と合わせ、小矢部川を下って伏木へ、中田御蔵米は中田川(現庄川)を経て伏木へそれぞれ回漕されていた。  弘化三年(1846年)十村から御郡奉行所へ、「井波から津沢の 舟運に野尻岩屋ロ用水・岩武用水を通ることは迷惑である。 通舟には多量の水を流すので水路に砂利が多く流入して困る。御蔵米の川下げについては橋立ての便利を図られるなら差し支えない」と申し立てている。弘化四年(1847年)一月、井波御蔵米を津沢御蔵へ搬入するという理由で、武岩用水の川幅を切り広げるように申し渡し、小舟三十艘を新造して舟運することになった。 十一月、井波津沢間の舟運開通。 嘉永六年(1853年)藩から岩武用水へ水路保全のため銀一貫目を年々支払われるようになった。明治三十八年、二万七千石用水側は通舟に対し、  水路使用料として年額一艘につき長さ三間(5.4m)未満は六〇銭、 三間以上は八〇銭を徴収し、 使用料・徴収期日など必要事項は用水管理者で定めるなどの規程を設けて実施した。

舟戸口用水路

高儀新村(庄川町)の新井覚四郎は舟戸口用水路を改修して金屋舟戸口から高岡木舟町まで通船可能の水路を開いた。当時は陸上交通が不便であったため、庄川・井波・砺波地方と高岡・伏木を直結する唯一の交通機関として大いに利用された。庄川地方から薪・木呂・木材・石灰を、また砺波平野の産米を高岡・伏木へと運漕し、高岡から肥料・日用雑貨物狩を運漕して、物資の交流を図る一大輸送路となっていた。戸出・出町その他の要所に繋船場と波止場を設備し、貨取場を特設して通船料・流材料を徴収し、その料金を用水路の維持管理費に充当した。藩はその功労を認め新井覚四郎に市野瀬村(高岡市戸出)で高一〇石を与えた。盛んなころは一一〇艘の川船が往来し、材木は三、〇〇〇本から五、〇〇〇本を流送した。このように舟戸口用水は農業用水以外に渡船運河水路として利用されたが、明治三十年を過ぎると鉄道が敷かれ、だんだん道路が整備されて荷馬車輸送がこれに取って代わり、運漕業の使命は終わった。

用水と土砂採取

発電高堰堤築造以前は、上流から流れ出してくる大量の土砂をどう取り除くかが、用水の維持管理の上での問題であっ た。度重なる洪水や山抜け・山崩れの復旧工事費の大部分は、流出土砂を取り除く作業に支払われていた。流木業・河川漁業・運漕業に、さては動力用水車にまで制限を加え使用料を徴収したのは、土砂の流入を防ぎ土砂の取除き料に充当するためであった。ところが庄川全川を締め切った堰堤築造後は、上流からの土砂の流下が皆無となったので川底が低下し、用水取入口が高所となって取入堰を高くしても取水不能となるので、新工法による堰堤を特設しなければならなくなった。さらにその合口堰堤の下流で土石を採取することすら堰堤の保全を危くすることになるので、その制限を県へ陳情しなければならなかった。これに反し、近代土木建築において大是の河川土石を必要とするようになったが、用水取入堰堤を保全するため、下流での土石の採取を禁止または制限せざるを得ない状態となった。

用水と動力水車

動力源を水車に求めることは、その必要量・機械構造・運転技術から考えても藩政時代にはほとんどなく、搗臼にいくらか利用された程度と考えられる。明治になって機械・技術が一般に普及して大量生産が可能となったので、手近にある用水流を動力源として利用し始めた。

四十二年、新用水は水車営業者に約定書を交付⑴水車設置年限は五年間を一期として約定する⑵使用料は毎年裁定額に応ずること⑶毎年四月十日から八月三十一日まで運転を停止し、用水路内の水車に関する一切の設備を取り除く⑷用水側は水車に対して一切の損害賠債に応じない⑸用水路の使用料は指定寄付の形式で採納する、ということを条件とした。また、大正十五年「 水車二関スル用水使用料徴収規程」を定め、知事の許可を得て徴収した。  ただし「自家専用螺旋水車二対シテ使用料ヲ徴収セズ」と付記されている。昭和になって石油発動機が導入され、電カモー ターが普及すると水車による操業は激減したが、終戦前後の石油皆無、停電続出のころは一時復活した。

出典:庄川町史

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