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用水の管理と用水費負担

用水の管理と用水費負担

10月 6, 2022 歴史 by higashiyamami

藩の用水支配

御算用場奉行は、主に藩の会計と民政関係を任務とする郷村支配の元締めで、御納戸銀を下付し諸郡打銀・郡打銀にも関与した。治水工事・用水路整備については、藩直営工事費の支出あるいは用水工事の補助金支出をつかさどった。御改作奉行は農政事務を行うもので、改作法の推進と、改作事務を専掌した。御郡奉行は郡内の各村を管轄し、用水管理・荒地開墾の奨励・賦役の適正化・走り百姓の詮議・藩の貸米・小物成銀など農村の一般行政をつかさどった。用水関係の藩体制は、御算用場奉行は財政を支配し、御改作奉行は農政(品)を支配し、御郡奉行は一般行政(人)を支配した。山奉行は、山林の監視、主として山林の樹木仕立および伐木の監視をつかさどり、山廻り役は十村兼役の場合もあり、山奉行に属し山林を視察し、土木工事の木材を供給することを任務とした。川除奉行は、藩内河川の治水土木工事の施行に関することをつかさどった。 藩直営工事の定検地所は直接に監督し、用水取入堰や取入口をも巡検して藩の方針によって指導助言などを行った。

村方の用水担当者

用水の実際の管理者を用水才許という。普通は十村が兼ね、その配下に江肝煎(井肝煎ともいう)がいて実務に当たった。中には村肝煎と兼ねていた者もある。江肝煎は、十村役と村肝煎の推薦によって改作奉行が任命し、用水路の修理・保安と、取入口のエ作物・水門の管理、守護神の祭祀、運営費の取立て、経費の支出、人夫の差出し割付など用水専任の仕事を処理した。 諸費用は御郡奉行所で徴収し、御郡打銀と称する補助金制度があり、奉行監督の下に各用水の江肝煎が実務に当たった。江肝煎の手当は切米または給銀によって支給され、その他に家高の加給もあり、小遣い名義で賞与もあった。岩屋口用水肝煎岩屋村十右衛門の例をみると、寛永十三年(1636年)から用水肝煎をしているが、 慶安三年(1650年) まで給銀はなく、同四年から一村草高に半分の銀一五匁、 各家高に半分の一五匁を割当て徴収し合せて三十匁を申し受け、またこの外高一軒分に割当てられた相当額を小遣いとして支給されている。享保六年(1721年) の改定で「江肝煎の給米は四、 五月は倍にして一年一四ヵ月、 閏月があれば一五カ月分を給与する」と年額を定めて月割で支給された。新又口江肝煎光明寺村才次は、享保六年まで給米七石で役儀を勤めている。文化十一年(1814年)用水高留書帳には「江肝煎引高壱人引五拾石」と記されている。弘化三年(1846年)江肝煎連名で十村に対して、「 当年は取入堰が切れ流れたり、山抜けがあったりして出役が多く、飯料雑用などの牧用がかさんで困っている。 御慈悲の御詮議で給料を増加してほしい」と願い出ている。

江肝煎の職務の公正実施の厳正を期するため、 亨保六年次のような『江肝煎戒ちょく書』が発せられた。

明治期の用水管理

藩政廃止に伴い、改作奉行をはじめ諸奉行も肝煎役も廃戦になったが、江肝煎役だけは旧慣によって用水の管理に当たらねばならなかった。 明治七年ごろから江肝煎は差配役という名称に替えられ、別に村々に用水総代が置かれて事業の審議と経費の分担に協力した。なお用水事務は戸長によって処理された。 戸長が村長となり、地方自治が整備されるにつれ、用水管理は差配役だけでは解決できず、町村長の協力を要した。こうして用水の実権は自然に地方自治体の首長である町村長に移り、明治中期ごろには町村長の協議によって事業が運営されてきた。 廃藩後は用水機構が失われ円滑な配水ができなくなったので、砺波郡長は明治十四年十二月、庄川八口用水水利会を結成して、今石動町の郡役所で発会式を行った。郡長は、「 庄川の水は各用水が共有するもので、上流用水の専有物ではない」と告示し、かしこの発会式には議長は、「 上流・下流の別なく公正な配水を議することが目的である」と述べた。 しかし、この発会式には議員数三五人のうち 出席者一三人という低調さで誠事にも傍聴人が 一人もいないのに、型どおり傍聴人心得を上程、議場移転問題に終止するなど成果が得られないまま閉会した。各村には村の大小にかかわらす一人の用水総代を置いたが、選挙によったものでなく戸長の指名で、その用水灌漑地域に土地を所有していなくても指名されることがあった。この総代が参集して経費を協定し各村に割り当て、村方でその村にある各用水費を合算し、歳末に用水万雑として徴収した。 庄川の水利権は明治に入っても藩政期の慣習法が基調をなしていた。 明治十三年太政官布告の区町村会法第八条に、水利土功に関する集会を設けるように規定し、町村連合会のような形で運営された。 十七年からニヵ町村以上にまたがる用水は郡長が管理者となり、決議事項は郡長直接または関係戸長へ委嘱して実施させた。二十二年からは、市町村制実施に伴って用水管理は結局町村長の権限となり、用水の機能が実際に発揮されるようになった。その後二十一二年に水利組合条例が公布され、四十一年に水利組合法の制定によって用水の管理組織が整備強化され、さらに河川法・耕地整理組合法によって支えられるようになった。こうして庄川の各用水では水利組合を設立し、運営は一定の規準にしたがったが、その反面、実施は各用水の旧慣によったことも少なくなかった。

庄川沿岸用水連合

昭和十九年九月七日に庄川合口工事が完エされたので、東砺波地方事務所長の名によって単位水利組合管理者を招集し、水利組合連合設立協識会を開いた。 協議内容は連合組合の規約原案と談員選挙要項を作成することであった。 同年九月中に庄川沿岸用水普通水利組合連合規約を単位組合ごとに承認した。 組合事務所は、東砺波地方事務所内に置くことになった。

二十四年六月、土地改良法が公布されたが、水利組合連合の事務整理のための廃止猶予期間として三カ年が認められることとなった。二十七年六月、東砺波地方事務所で臨時組合会が開かれ新定款・規約・事業維持管理計画書を原案どおり承認議決して、「庄川沿岸用水士地改良区連合」が発足した。土地改良法の目的は農業用水の維持管理だけでなく、農業経営・生産・土地改良を含む農業振興全般にわたるものであった。役員定数・負担率も水利組合連合と大差はないが、常任委員が理事に名称変えし、定数は二万石用水二人、新用水一人、千保柳瀬用水一人の計四人が増員された。

用水費の負担と工事請負人

藩政時代は田を御田地といい、領内の土地は藩主の所有物で、領内の農民はひとりひとりその一部を借用しているというのが原則であった。 公共の土木工事を御普請といい、補助金を御打銀と呼んでいた。「御」の字は公儀または藩を指している。農民は藩領有の一定区画を耕地として借用、定量の耕作費用を免じられた残りを年貢として納める 耕作義務を 負っていた。したがって灌漑用水は藩で維持管理するのが当然と考えられていた。

御納戸銀

藩が直接負担する現在の国庫負担に当たるもので、御算用場奉行から支出され、藩直営工事は納戸銀で支弁された。松川除堤防の中でも、現在の合ロダム・赤岩・庄川温泉・舟戸荘付近は、定検地奉行所の工事であったので納戸銀で築造された。

諸御郡打銀

加越能三州がそれぞれ負担する県税に当たるもので、宝暦二年(1752年)砺波郡野尻岩屋ロ・新用水普請入用銀、十貫九二五匁は、詔御郡打銀から偕り入れられ、一五年間の年賦償還とした。

御郡用水打銀

郡税に当たるもので用水普請はこれによるのが普通であった。

水下用水銀

江高一〇〇石について銀二〇匁を負担するもので、「 水下弐拾目懸普請」といわれ、各用水の自普請に適用されるのが普通であった。また「 水下勤過銀」ともいい現銀支弁・現銭支弁もあったが、米・成木・俵・人足などの現物負担も多かった。

江下万雑

各用水内の災用を江高によって負担されるものであった。

庄川では用水取入の直接の諸工事と取水管理は、用水ごとに特定の請負人に請負わせていた。請負人は水門番を兼ね、毎年決まった諸負人が年々同じ金額で請負うことになっていた。 後に大水害後の復旧工事は請負困雌だというので、郡と江下と請負人が三分の一ずつ負担することになった。 請負とは、用水維持のため取入堰に関する一切を定額で請負うことで、工事に経験があり相当の資本を有し、用水取入口の近くに居住する者を指名して任に当たらせた。請負の内容は定堰・張出堰・牧の前堰・臨時堰・江留堰などで、工事の内容は出張工事・工事の仕方・川入の位置・急施行工事・高瀬舟の保管・江柱の監守・前堰掛薙の交付・用水の口留・非常臨時用鳥足の材料備付など、契約年限は五年とか三年とかで用水管理責任者と 締結した。被害の大きいときは、契約者と相談して負担の割合を決め工事に当たった。

明治になると、納戸銀や打銀制度が廃止されたので、用水費のすべてが江下農民の負担になってきた。

制度が変わったからといって旧慣を無視することは できないことであった。

明治七年には、用水工事費は砺波那正副区長連名で支出された。明治中期までは、各村に用水差配役を置いて江肝煎の職務をとっていたが、 次第に戸長に権限が移されていった。郡には区会所を置いて、各用水費の調整を図ろうとしたが、 費用支弁の能力がないので問題の処理は解決しかねることが多かった。郡長の名において十四年に庄川八口用水水利会を設立したが、これも会費の徴集がスムーズにいかず、 財政的にはほとんど無力であったため有名無実の感があった。そこで用水工事請負人は、各用水関係の戸長・差配役・用水総代から費用を支弁させていた。二十三年に用水主担当村長が決まり、晋通水利組合が設立されてからようやく財政的に安定を得るようになった。

出典:庄川町史

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