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庄川町の地形の成り立ち

庄川町の地形の成り立ち

6月 19, 2022 歴史 by higashiyamami

庄川町の山と地質

庄川町の山並み

屏風のように庄川町の南に山がそびえています。

牛獄
牛獄

牛嶽(987m)は、北に伸びる新第三紀(約2600万年前から約200万年前)の呉羽山丘陵の根本となり、八乙女・大寺・赤祖父・ミズバショウの一大群落である縄ケ池がある高清水などの山々が西に続きます、高清水山地の東北端の一部を占めるのが庄川町の山地です。牛嶽は1,000mに近い高度を保ち、比較的険しい山容を見せているが、 井波町背面の 八乙女山と同じく、比較的硬い岩石からできているため、浸食に堪えて孤峯を形づくったもので、浸食から取り残された一種の残丘と見ることができる。

牛嶽から北方に向かって、にわかに高度が低くなり、大部分は500m以下の低山性丘陵となる。鉢伏山(510m) や、またこれから北方に連なる雄神地区の山地でみられるように、山はすっかり丸みをおびて、  老年期の状態を示す従順山形となっている。しかし、この山地を浸食している谷は、比較的若々しい形でV字谷をなしている。 和田川・谷内川・広谷川また前山地内を流れる尾谷川など、 いずれも不均衡に探い谷をつくっているのが特色である。このように若々しい谷が見られることは、この地域が地質時代の比較的新しい時代に、地盤が隆起したことを物語るものである。

一般に富山県の中央丘陵地帯は、全体として極めて浸食の進んだ準平原山地で、洪積世(約250万年前から約1万年前)以後に地盤が隆起して、山田川・和田川・谷内川などの河を若返らせ、新たに深い谷を形づくったものであろう。このような地形の特色は、牛嶽の山頂からよく観察することができる。

段丘の多い平地

庄川町の平地は、成立の過程からみて、二つに区分することができる。一つは河岸段丘、一つはさらに新しい扇状地である。河岸段丘を上流から見ると、湯山・小牧の集落を発逹させている庄川両岸の対称的な地域、これより下流に下って、左岸では岩黒住宅団地付近、通称金屋たんぼ付近、示野のポンポン野付近、右岸では雄神地区の庄・金剛寺・三谷の各集落をのせている、通称おか田と称する地域などがこれである。これらの地域は、古い時代の庄川が一度は扇状地として堆積したものが、その後の地盤の隆起につれて浸食され、かつての扇状地の名残が階段状の平地となって残ったものである。

したがって平野としての歴史が古いので、砂礫層の上部には厚い粘士焙腐植士(褐灰色植質の洪積土)がおおっていることが特色である。新扇状地の平野は青島の北部、種田地区の全域、雄神地区の段丘崖下の通称川原田の地域がこれに相当する。この地域は、ごく最近まで庄川が氾濫を躁り返していた沖積氾濫原で、堆積物は砂礫層からなり、上部の土壌はわずかで、沖稲浅耕土地帯となっている。八乙女山や鉢伏山に登って新扇状地面をながめると、かつての庄川の河跡がだれの目にも鮮やかに望み見ることができる。

地質のあらまし

庄川町の山を造っている地層は、ほとんど新生代の新第三紀と呼ばれる時代に属するものである。一般に富山県の地質楷造をみると、南部山地で2,000~3,000mの高山性の地域は、古生代の変成岩類で形づくられ、次に神通川流域の一部に、中生代の地層からなる中山性の山地が分布している。また平野の周辺部に、新第三紀の地層からなる高さ1,000m以下の低山性の丘陵地帯が分布している。富山平野は、 これらの南部山地を浸食した河川が、第四紀に堆積した新旧の厨状地および三角州からできたものである。牛嶽を中心に呉羽山丘陵の基部を占めている庄川町の地域は、 新第三紀のいわゆる八尾層群に属している。

新第三紀の地層

次に、庄川町の新第三紀の山地累層を大きく四つ(A~D)に分頬してみる。

A層

 小牧ダム付近から上流の地域、また牛獄の主峯、井波町の八乙女山、遠くは大寺山から高清水山地にかけて、比較的硬く、黒っぽい色をした安山岩・安山岩質の熔岩・凝灰岩・凝灰角礫岩などが分布している。安山岩の中には白い色をした石英の入っているもの、また、輝石や角閃石の班晶の入っているものなどが見られるが、この地層はその特徴から見て、新第三紀の中新世の中ごろ、海岸近くの海底に輝石安山岩や角閃安山岩などを吸出する火山活動が起こり、これに伴って火山灰や火山礫が面底に堆積してできたものと考えられる。

B層

牛嶽の北西斜面、小牧ダムから下流の左岸、小牧から前山を経て井波町境付近にかけて、やや明るい色の石英粗面岩質の凝灰岩・集塊岩か分布している。とくに小川原地内の庄川の対岸に見られる薄い緑色を帯びた緑色凝灰岩は、人々の目に親しまれ、金屋石として採掘して来たものである。この地層は、A層と同様、引きつづいて起こった海底火山による堆積物で、ことに金屋石は火山灰か水中で堆積したことから、火にも水にも強い性質があり、各種の石材として用いられている。金屋石が、金沢城の引水用樋石などの御用石となったことは、有名である。

C層

鎧壁
鎧壁

鎧壁は、庄川町の地層の中では、町民に最も印象探くその姿を見せている。板を招み重ねたような整然とした地層の重なりが、庄川の浸食によって深い谷壁をつくっている。対岸からながめると、厳しい地形はあたかも鎧を連想させるものがある。これは凝灰質の砂岩・泥岩の互層からできている。なお、鐙壁直下の庄川本流の河床には泥板岩がひろく霞出しており、この部分に大小の甌穴が一群をなしている。これは庄川の激流が軟らかい泥板岩のわずかの凹部を砂礫で研磨してつくったもので、ボットホー ルと呼ばれている。中には子どもの背丈ほどのものも数力所ある。また湯谷温泉から以北、牛獄の山麓付近から鉢伏山を中心に、雄神地区に広く分布している地層は、きれいに成層して緩く北方に傾斜し、 三谷付近で後述D層の下に姿を没している。名ヶ 原から舟戸ダム上部(寒原山)や、湯山から落シヘ行く途中の道路わきの露頭では、アカガイの類、その他多くの貝化石を産出している。これらの化石動物群から見て、この地層が堆積した当時の海の状態や深さ、海水の温度など、この地方の古地理や古い気候を推定することができる。下部のB層と、上部のD層とが整合して重なっているので、B層堆積後も引きつづいて堆積したもので、礫・砂・泥の中には非常に多くの火山灰が含まれていることが特色である。 金剛寺地内の地層の中から熱帯性の植物葉の化石、またサンゴの化石などが発見されておりこの地層を堆積した海は今日よりもはるかに暖かであったことが考えられる。

D層

庄川の最北部、三谷の谷内川付近を中心に、比較的深い海の底に堆積した泥岩が分布している。これには深海泥帯性の貝化石、ウニなどの化石を含んでいる。金剛寺から三谷へかけての地域には、淡い褐色の薄い板を積み重ねたような均質緻密な泥岩が見られる。風化土壌は保水性が大きいのでよい森林土壌となっているが、 泥岩の一般的な特徴として、一時に大量の集中豪雨などがあると、地層の中に水を含み、地すべりや山津波を起こすことが懸念される。昭和三十九年七月、一の谷や尾の谷で地すべりが起こり、甚大な被害を与えた。芹谷野用水・三合用水など、各河川・用水路の分布状況とあわせて、適切な自然の保護や対策が必要な地域である。

断層礫層と沖積層

庄川の右岸に湯山・庄・金剛寺・三谷の各集落をのせている段丘、また左岸には小牧・岩黒・金屋・示野の集落をのせた段丘が発逹している。 いずれも庄川の堆積した古い扇状地の名残である。とくこ井波町の閑乗寺山段丘では約300mの高さにまで逹し、庄川上流域に分布する飛騨片麻岩類を母岩とする巨大な礫が見られる。前山の町道前山線を登りきったところにある、動山峠は、海抜300mの高さに位するが、かつて庄川が流れていたことを物語る大小の礫層が分布しており、地形的に小規模ながら谷中分水嶺をつくっている。閑乗寺山・前山の段丘に対比するように最も古く、また高いところにある集落は、  雄神地区の庄である。今日ではこの段丘の形状はすっかり浸食されて明瞭ではないが、三谷の平山付近につづく。中位の段丘は金屋・岩黒をのせているもので、最も新しい下位の段丘上には示野がある。一方、下青島・種田地区ほ庄川扇頂部に当たり、地町は扇状地砂礫層からなっている。この砂礫層は第三紀層を浸食した上に堆積しているものであるが、礫層の厚さはつまびらかではない。庄川の河床は近年急激に低下しているが、雄神橋上からは新第三紀層上に扇状地堆積物が覆っている様子がよく見られる。この河床の低下が原因となって、新扇状地域への地下水の供給が減少するという結果が考えられるので、適切な河床工事などが必要となってきた。段丘上の土壌は厚い深さをもつ肥沃な洪積土からなっているが、新扇状地の部分は沖積浅耕土である。構造改善事業とも関連して、老朽痩地化している新扇状地地域へ、近年岩黒地内の洪積土によって、流水客土事業が行われたが、適切な応用地質の事業ということができょう。

出典:庄川町史

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